友寄隆哉の
ジャズはなぜ死んだか?
ジャズから見る文化論
沖縄から日本を観る沖縄から沖縄を観る
7 私の20世紀
CD行商日記 1998年
さて、私が、音楽の道に進もうと決心して初めて仕事らしきことをしたのは、16才である。
春日八朗からサンタナまでを地元のダンスホールで弾く「ハメ」になった。
それから、私なら、たぶん口で言える、様々な数奇な体験を経て、気がつけば、38才になっていた。
世の中を見渡すと、もはや、CDと言うものは誰にでも簡単に作れ、発表できる代物でしかなかった。
しかし、そうは言っても、一人の貧乏なバンドマンがわざわざメンバーをスタジオへ呼び、それぞれのギャラを支払い、スタジオ録音代までひとりで負担してCDを作成できる費用などない。
それどころか、毎日の暮らしもままならない状態だった。
ライブをやってもわずかばかりの客は「一体何時、ムーンリバーを唄うシンガーは登場するのか?」とおしゃべりに夢中になっていた。
私は、1995年を最後にすべての演奏を止めた。
しかし、当時はまだ、曲の途中で、席を立って見せる、と言うスルドイ耳を持つ評論家風のマナーの悪い客はいなかった。
たぶん、評論家風はそうして自分をアピールする、と言う事さえ、まだわからなかったのだろう。
(私は、どんなアマチャ−が演奏していても、ライブの途中で席を立つ事はない。これは一つの「苦行」としての「座禅」の一つだと即座に悟り、観念することにしている。しかし演奏者には、絶対わからない、という状況では、「即行」で逃げ出す。)
そこで、16才から録音し続けた何千本と言うカセットテープの中から共演者との関係で発表できそうな物を選んでCD化する事にした。
ギャラにうるさいバンドマンの中から、まったく有名でない、バレても「知らんぷり」できる2人のミュージシャンとの演奏を収録しているものを選んで、「友寄隆哉全集」としてジャンル毎に分類してみた。
そうやって第4集までが「日本書記」のように編纂された。
これが1998年の4月頃である。
何ケ月かして、出来上がったCDを抱え、「行商」してみることにした。
日頃から他人に頭を下げるという特訓を充分に積んでいない私には、その角度はどのくらいがよいのかわからなかったが、15度は、ちょっと大袈裟だ、と考え、その半分くらいの7度くらいに決めた。
そうして、CD持参して、まず、かつての仕事仲間であるバンドマンの棲息するいわゆる「業界」の店回りをしてみた。
注文書も置いてサンプル作品を預け、「よろしく」と店を出て行った。
あれから、何年も経たがまったく音沙汰がない。
私は、業界に友達がいなかった事に最近、気がついた。
たぶん、私のCDはコースターとして酷使され、今日も高級ウイスキ−を支えているだろう。
それから、県内のいくつかのレコード店を回って見た。
店主たちは、意外に心よく置いてくれた。
私は、店を出てすぐに「殺さなくてもよい人たち」のリストに名前を入れた。
しかし、那覇市内にあるジャズ喫茶の老舗という店からは拒否された。
店の名は一生忘れないだろう。
それから、今度は、「東京レコードショップガイド」という本を手に入れた。
そして、大体、100店ほどの店に電話を入れて見た。
大抵は「店長が不在なので」と言って二度と電話は来なかった。
ようやく、ある店が「置いてやってもよい」と言って来た。しかも全部5枚づつと言ってきた。
私は、東京にも親切な店があるものだ、と新宿のあるレコード店へ郵送した。
1週間ほどして、マンガ喫茶にてマンガを読んでいると、私の携帯に突然、その店の名が表示された。
喜んで受けると、いきなり「バッキャロー1枚づつって言っただろう、残りは返すからな!あほめ」と若い店員が言って来た。
私は、自分の年齢やプロフィールというものを一切添えなかった。つまり、私が、どんな人間で何歳くらいなのかは一切わからないはずである。
私は、ここ最近の行商のおかげで、大変、人間ができていたので、ひたすら「申し訳もありません」とホテルマンのように繰り返し詫びた。
「さすが、東京だ。他人のミスには厳しいわい。」と私はまたマンガを読み続けた。
また、私の第4集の「ノイズミュージック」は特殊な音楽なため、それなりの「前衛系の店」がよいだろう、と探したら、一件だけ「現代音楽専門」の店が応対してきた。
「あの、ノイズの音楽なんですけど置いてもらえないでしょうか?」
「ノイズ?君ねえ、ノイズの意味がわかって言ってんの?君にはできるもんじゃないんだがなあ〜」と人生が自信に満ちた声で中年風の店主が言ってきた。
私は、「はあ〜」とだけ答えた。
「とにかく、聞いてから判断するから送ってみろ」と言って来た。
私は、また「はあ〜」とだけ答えた。
私は、自分の年齢も素性も何も言っていない。
「さすが東京だわい。下々の者には親切だ」と感心した。
たぶん、シュトックハウゼンとかジョンケージとかデレクベイリーとかの話しをすればよかったのかもしれないが。
私のは、音だけ聞けば、わかるだろうと思ってしまった。
私は、CDのサンプルを送るのが「もったいない」と思い、
100円のキティちゃんのカセットテープを購入し、
茶封筒に名前と住所と電話番号だけを書いて送った。
それっきり、何の返事もない。
私はさっそく、この二つの店鋪名をもう一方のリストに記録した。
彼等は、もう孫の代まで、沖縄の地を訪れ、「東京でレコード店をやっているんだ」とここでは言えないであろう。
かわいそうな人生である。
祖父がしでかした事を孫までつぐなわなくてはならないなんて。
私は、「沖縄戦」で日本人兵が沖縄の民にしてきた事を思い出した。あの子孫であろう。たぶん。
1990年頃の東京の思い出。
スティーブコールマンと言う、ニューヨークでブレイクしたアルトサックス奏者が、若い頃、東京のライブハウスを訪れ、演奏を乞うたが、どこからも門前払いされたという話しを聞いた事がある。
私の場合は、「やらしてもよいけど客を入れなきゃダメだよ」と言われ、東京には、親戚縁者もいない私は断念した。
「「うちは、有名人じゃないとダメだよ」と言う店もあった。
ようやくさせてもらった六本木の店があった。
私は車を持っていなかったので、アンプとギターを持って何時間も歩いてその店にたどり着いた。
メンバーは、東京で勉強中の無名の若手のミュージシャンをつてを頼って呼んだ。
(2001年現在も「無名」のようである)
店には、けだるそうなボーカル志望の若い女性が一人店番をしていた。
私たちは、客の誰もいない店で演奏を始めた。
しばらくしてサラリーマン風の中年男が酔って入って来てビートルズの「イエスタデイ」をリクエストしてきた。
ここは、そんな店とは聞いていなかったが、メンバーでその曲ができるのは、私だけなので、さっと譜面を書いてサックスの若者に渡した。
その客は「イエスタディ」を聞き終えるとさっと帰って行った。
とうとう客も来ぬまま、ライブは終った。
私は、長年のバンドマンの習性で、用意したギャラを皆に渡した。皆、それぞれの車に乗り帰って行った。
私は、ひとり、アンプとギターを抱え、始発までの時間を駅の前で過した。
12月も終ろうとしていた。
後日、その店へ電話をかけると「おたく、店でリハーサルをしたらしいわね、店番の女の子から聞いたわよ!」と言って来た。
「二度と来ないように!」と言ってきた。
そこは、あるボーカル学校直属の経営する「ライブハウス」と言う事だった。
私は、また仕事がほしくて、「ジャズ講師募集」の広告を見つけ、尋ねて行った。
地下鉄の電車を乗り継ぎ、そこは都心から離れた小さなアパートの一室にあった。
私よりずっと若い、20代風の女性が現れ、これからオーディションをすると言った。
「トライトーン」を説明してみよ、と言う。
それでは、それでは、と質問してきて、私は聞き馴れない用語を聞いた。
女性は勝ち誇ったように、「ふん」と言った。
何でも、アメリカで勉強してきたという。
私は、某音楽学校の「プロコース」のオーディションを受け、創立以来2人目のプロコースの生徒として卒業したばかりでしかなかった。
「教える事はない」と言われたが、私は、東京では、天涯孤独だったので無理矢理入学して2年の任期を終えた。
授業の時間に合わせての日々の学費を払うために日雇い肉体労働の仕事ばかりをした。
朝は、3時に起床したり、徹夜で2日寝ずに働いたりした。
やがて、その中の何人かが、後年、「電撃ネットワーク」を結成しブレイクした。
「じゃあ、ギターを弾いて一緒に演奏して」と言った。
女性はポピュラー風の演奏を始め、私はそれに合わせてアドリブした。
急に、演奏が止まり、「はい、もうけっこうです、後は、追って連絡します」と言って来た。
電話がいくら待っても来ないので、こちらから電話を入れた。
とても事務的な声で「あなたは、オーディションに落ちましたのでこれで。」と言って切ろうとした。
私は、「すみません、よろしかったら、理由を聞かせてくれないでしょうか?」と尋ねた。
すると女性は、「下手くそだから落ちたのよ!」と言って電話を突然切った。
私は、これまで色んなミュージシャンと共演してきた。
彼女も、もしジャズミュージシャンとして生きて行くのだとしたら、彼女もまた、孫の代まで、沖縄観光に訪れることはできないだろう。
ここへ来て「自分はジャズミュージシャンで教室を経営している」と言って関係者と親しく会話する事はひ孫の代までないだろう。
今だに彼女は誰であったのか、その教室はどこにあったのかは思い出せないのではあるが、まだ、あったとしたら、たぶん思い出すであろう。もう10年も前のでき事である。
やがて、私の手は、持病の腱鞘炎で動かなくなった。
私は、生活のための肉体労働の日々もままならくなり様々なバイトを右手一本で転々とした。気が着くと32才になっていた。
私は、お腹が空くと、何時も、弁当を食べさせてくれるバイトがてら、新宿ピットインへ行って、お客さんやミュージシャンにコーヒーを運ぶバイトをした。
師匠筋にあたる巨匠ピアニストのライブの日にあたってしまったこともある。
巨匠は、私に、「ほらほら、あそこもコーヒーじゃない?」と言って私の運ぶコーヒーを取り黙って自分でお客さんの方へ持って行ってしまった。
それから舞台に上がって行った。
師匠は、帰り際、来ていたライブハウスの社長や他の従業員にも聞こえる大きな声で私の名前を呼び「またな」と行って去って行った。
共演した事がある、「狂気の」ピアニストのライブにもあたってしまったことがある。
私が、黙って客に出す、ビールの栓を抜いていると、そっと私の耳もとで「笑いながらやるんだよ」とささやいて楽屋へ消えて行った。
私は、あまり働かなかったが皆、親切に、これは、私が弁当だけを食べてくれればよい、と言う風に適当に仕事をさせていた。
そんな私に反感を抱く無名若手ミュージシャンらもいた。
私は、皆に別れも告げず、一人、長い旅を終えた。
1992年の事だった。32才になっていた。
2001年元旦所感
私は、現在の、携帯、コンピュータ、インターネットにかかわる女性販売員を見ているとふと、その頃のジャズに関わる一部の女性たちを思い出す。
そのつっけんどんな対応は私だけか、と思っていたら、友人も同様な経験をしている。
では、「冴えない男たち」だけにそうしているんだろう、という結論にしていたら、知り合いの女性が突然、新しく購入した携帯電話を替える、と言う。
わけを聞いて見ると「ちょっと故障したので問い合わせたらとても失礼だった」という。
もともと購入する時にも「不快」だったのでもう大手のちゃんと社員教育を受けている所へ変えるという。
私は、な〜んだ、「冴えない男」だけじゃなく「冴えない同性」に対しても同じか、と納得した。
ジャズとそうした機器に関わる女性の共通点はなんだろう、とふと思案してみた。
「ああ、共に自分は最先端の職種についていると思ったんだ!」と了解した。
小さな所ほどその傾向は強い。
私も初めて2年前「携帯電話」と言うものを知って購入した際、上から見下ろすように事務的に説明する新進実業家風の女主人がいた。
こういった機器は、若者が中心なので、そのような応対でも誰も何も言わないのだろう。
私は、質問魔なので、色々しつこく聞いてしまい、さらに「間抜けな男」になっていたことだろう。
おそらく私のようにしつこい質問魔になれない年輩者では、あれこれ聞く勇気もなく、分厚いマニュアル書を手渡され、ほっぽり出されてしまうであろう事は充分予想がつく。
いつの世も「流行りの職種」に携わる者は、皆、似たような人種である。
私は、ある大手の外資系のレコード店で、3万円分ほどの買い物をして1円足らない事がわかり購入をこれまた、若い女店員から断られた事がある。
私は「1円も足りないのに購入しようとする冴えない男性客」になってしまった。
どうしてもほしかったのだが、単価の高い買い物であったため断念しなくてはいけなかったのである。
マニュアルでしか動かない時代には、対処ができないのだろう。
沖縄出身の某若手女性歌手がテレビ番組「ヘイヘイヘイ」で「ダウンタウン」に対処できず、嫌っている感じなのかもしれない。
いずれにせよ、東京には、色んな人種のサンプルが時代と即して存在しているので、人間研究には、データは事欠かない、と思っていたが、今や、どこでも同様にサンプル採取は可能になった。
ありがたい事である。
たぶん、土着の歴史も伝統も文化も言語からも切り離された「優秀な人間」は、より「ロボット化」して行く時代なのだろう。
しかし、どんな優秀にロボットと化した人間でも本当にロボットが中心の世の中になれば、当然、「無能な人間」と成り下がってしまうのだろう。
コンピュータに記録した人間の演奏を数値化したデータを見れば歴然とするが、この数値は、人間がおよびもつかないほどの「周期性」をもっている。
再現不可能な数値が出て来る。
おそらく、ロボットが、もし、さらに「人間化」しようと思ったら、これは、たぶん、最高のロボット化は、経済学でいう所の「限界点」を最高値として、後は、マイナス要素を加えて行かなくてはならないのだろう。
すると、我々人間が目指す境地は、「より人間化」した要素の追求こそが、ロボット化へ対抗していく教育であろう。
そこに初めて、ロボットとの共存の意味が存在するのだろう。
それを、ロボットへ任せるかどうかの判断は、常に「人間」の側によってなされなくては「人間」を相手にする事はできないだろう。
たぶん、あと30年ほどで、ロボットのロボットとしての性能は「限界点」に達するだろう。
その時、最も「人間化」していた者が、今度は、そのサンプルになるのであろう。
次は、そんな人間を時代は求めるのであろう。
人間にしかできない事、それは何であろうか?
それが21世紀の課題となるのだろう。やれやれである。
私くらいの者にもこれくらいはわかるのである。
私だけの「20世紀」だった。
2001年1月2日 午前8時35分
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TAKAYA TOMOYOSE (guitar,comp,arr)