友寄隆哉のジャズはなぜ死んだか? ジャズから見る文化論

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23:リズム考

1:私の抵抗勢力リズム 2002.5/2

2:私の抵抗勢力リズム:その2 2002.5/6

3:リズム孝:序文 2002.6/8

4:大地のリズム 2002.7/4

5:機械のリズム「特別実践編」 2002.8/16


1:私の抵抗勢力リズム 2002年5月2日(木)



彼って暑い所の人でしょ?


沖縄の人のリズムってさあ、その土地独特のもんなんだよねぇ。


彼等は「特殊な土地の土着民」だからリズムの事を語る資格はないんだよねぇ。


これは、私の音楽を聴いて評したとされる「地方の」ジャズ.ミュージシャン気取りの連中の発言である。


いかにも日本産の閉鎖的「土着」インテリ気取り風の会話体とその口調である。


どこよりも「アメリカ」に一番近い日本であると思うんだけど、彼等がここへ来た事がないんだよねぇ。


彼等の大好きな「アメリカナイズ」じゃあないんだ。


島のど真ん中に「アメリカ」があるんだ。


論理的には、またしても「まあ、ぼくたちってほら、感性も優れているじゃん、頭もいいしさ、まっ、だからジャズやってんだけどさ」と言う声が聴こえてくるような言動である。


大した都会でもねえのに都会風を気取りやがって。


人間が閉鎖的だってんだよ。ケッ!


しかしまあ、ここだって、中には、今だに、鞄(かばん)に「鎌(かま)」を潜め、敵との遭遇に備えた中学生がいる島もある。


さすがに鎖鎌(くさり.がま)を振り回す者は、ちょっといない。


ここは都会じゃあないなあ、と思えば、潔(いさぎよ)く、簑(みの)を着て、草鞋(わらじ)履いて、ほっかむりして歩きゃあいい。


ああ、なんと、すがすがしくも日本人らしい光景であろうか。


その潔(いさぎよ)さは、「さわやか」、でさえある。


まあ、これが、私の「抵抗勢力」にあたる、自称「プロ」連合の本土産の一部少数の「ジャズ.ミュージシャン」たちの意見である。


自称「プロ」連合、と言うのは、自称「元プロ.ミュージシャン」及び「ジャズミュージシャン志望」及び「現、バンドマン体験者」の連合である。

総じて「セミ.プロ協会」と呼んでもよいだろう。


誰も彼等の演奏に「感動した」と言わないのがその特徴である。

しかし、パーティともなるとBGM演奏を担当してくれるから大変重宝な存在である。


彼等によれば「沖縄」は、自身の住む「地方」よりだいぶ「田舎」にあたる「観光地」らしい。


ふ〜ん。


まだある。


私の音楽を聴いて「感動しました!」と感想を送ってくれた若者が、早、3ヶ月あまりで、私の音楽を先頭に立って非難する側に回ったのだという。

もともと、彼は、「身銭」を切って私のCDを手に入れたわけではない。

こんな音楽をする人もいるのだ、と送ってもらったのである。

しかし、時を経て、1人ぼっちがさみしいあまり、回りの旧態依然とした世界に仲間を求め、いわば自我の未成熟な「ひよこ」であるから、先の「先輩」たちの意見に自分の「感性」を撤回訂正したのである。


成熟した人間は、一度「感動した」、と述べた事を回りから同様な「反応」を得られないから、と言って撤回する事はない。


さらに上の境地の「感動」に「星の数」ほど出会い、未熟であった過去の自分を反省した、と言うならわかる。


基本的に「感動」は、人は人、自分は自分である。


その時、「感動」した、という事実は恥ずかしい事ではない。


恥ずかしい事、というならば、その後ろ姿を見て、セクシーだ、と思ったら前から見ると年輪を重ねた老婆であった、という場合である。


これは、歳を取れば取るほど、派手なカラーを好む欧米の社会ではよくある事らしい。


さらに上げれば、「悟った人は、無口である」と言う中傷もある、という。


私のようにべらべらと喋る人間は、「底が浅く、中身がない、薄っぺらな、偽物」である、と仲間たちの間では、盛り上がっているらしい。


また、人間はホームページやメールや「CD」では判断できない、といい、世のジャズ愛好家及びジャズ.ミュージシャン気取りの者たちが執拗(しつよう)に身辺の者へ、私のサイトの読者になる事を阻止しようと、その普及活動に努めているのだ、という。


これだけ揃えても判断できない、とすればミステリー小説は何の手がかりも提示できないまま、卑怯な結末を突然発生させ、知らんぷりしているしかない。


私は、ホームページに掲載されている「経歴」だけで大概の事は判断できる。

何の活動もない者は、大概、嘘臭い事が列挙されていて、それが事実である、という裏づけは証明不能である。

大体、大層な事が列挙されているが本人以外誰もその真実のほどはわからない。

列挙する事もないのに文字を埋めようとするから意味不明な「経歴書」が生まれるのである。


作家、故、今東光(こん.とうこう)氏の青年期の履歴書は、たったの2行である。


****中学卒業


後(のち)、独学




である。

もぐりの東大生として授業を聴講し「卒業」した事は有名である。


彼等、私の「抵抗勢力」、にあるのは、我(われ)こそが、唯一、あなたの身近に既に存在している、ジャズの神々から遣(つか)わされた使徒である、という暗黙の主張である。


その「偶然」のありがたさを認識させる事が生涯をかけた仲間たちとの「布教活動」であるらしい。


ああ、ひとりぽっちのボクちんが、あたいが、みんなの仲間に入れてうれピー!、ぼくは、あたいは、もうひとりじゃないピー!、と幸せ一杯の草の根運動である。


今まで、自分がカブトムシだと思って寂しく1匹でいたら、ゴキブリの仲間である事を知った時の「うれしさ」なのであろうか。


何とも、寂しい、人間たちである。


他人の悪口を言うのに1人じゃ言えないなんて、、、。


「感動」した事もいちいち彼等の「了承」を取らねば仲間入りできないのだ。


人間は、悟らないから人間生活が楽しいのである。


悟ったら生きて行く必要はない。


即神仏となる儀式を早々に進め、一日も早くこの世から消える去る事である。


なぜなら、「悟った自分」にやがてやって来るのは、「悟っている事を忘れた自分」であるからである。


そうして「振り出しにもどる」である。


時間軸の、ある一点のでの「悟り」は、過去の時間を集大成とした「現在」において起こった事である。


その地点において「悟った」のである。


あるいは「悟った」と思ったのである。


したがい、そこには「未来」が存在しない。


私は、偽物で、薄っぺらな人間であるらしいから、この部分は、次から次へと話しを進める。


いちいち念を押さない事にする。


文字が読めた!と言うだけでわかった気にならないようにするためである。


その「悟り」が未来永劫(みらいえいごう)も続くという保証はない。

(いちいちルビを振るのもやめようか、と思うが、まったくコミュニケーション不可能になっては、せっかくの怒りも徒労に終るから一応振っておく)。


なぜなら、その未来は、悟りを得るに至った過去、現在の「忠実な」再現ではないからである。

もし、悟った時点で、今一度、過去、現在が、左右対象とした時間軸の中で全く同じ姿で現れるとしたら彼は、未来も「悟った」ままである。


彼には、心得た世界であるからだ。


あるいは、彼は、、住み慣れた「山」から下山しなければよい。


彼は、なるべく「悟った」自我を崩壊させない世界の住人のままでいよう、と努めるのである。


これは、「守り」に入った「悟り」の境地である。


しかし、彼は、それが「守り」を意識した世界である事を了解しているのであるから、その「意識」は、とても「悟った人」のやる行為ではないと知っている。

したがい、彼は、悟った自分自身のまま、「氷浸けにしてくれ」とばかり「即神仏」を目指すのである。


であれば、彼が目指す境地は、「即神仏」である。

即神仏になる決意さえ決まれば、彼の人生の闘いは、終了となる。


したがい、彼は「悟り」を目的とせず、「即神仏」になる決意はあるかを日々自問自答し年月を重ねればいい事になる。


誰々は、悟っていない、という言語を自身のボキャブラリーとして他者を非難する事に何かしらの自身の知性の証明を試みようとする者には、これで十分であろう。


付け加えておけば、その一足飛びの物事の理解に憐(あわ)れみさえ覚える。


戦場で、そうした者でも助けを請う状況に出くわせば、どうであろう、と考えるは、またその時になってから考えてみよう。


平和時には、助ける必要はない、と決めている。


なぜなら、彼、彼女等は、何とか身辺の者で私のサイトを読む事を阻止しようと躍起(やっき)である。


尊敬すべきはあいつじゃない、私なんだ、早く気づいてくれ、という焦(あせ)りである。



ゆえに、あいつは偽物だ。


あいつは、南の島の「土人族」であるから高尚な「リズム」を語る資格はない、という潜在的なエリート意識である。


なぜなら「リズム」を語る事は、今や、われわれ「リズムのない」大和民族の特権となっているのだ、という教育の賜物(たまもの)である。


すべてが「語る」もの、となっている。


「体感」するものではない。


あの蹴りを頭部に受けると致命傷となるんだ、である。


ありゃ?まだ、立ってるぞ!


どういうわけだ?



リズムの話しに移ろう。


あっ、この人、暑い所の人でしょ?、と知らぬ間に「北」の人間共に「上」から見下ろされるように吐き捨てられている状況に関し、南の島の人間を代表して考えてみよう。


人を見下すには、彼等には、彼等が「上等」としている「視点」があるはずだ。


いちいち彼等を調べる必要もない。


彼等自身が何を信奉しているか、何教の者であるかを理解するのに時間はかからない。


なぜなら、元々、彼等には「個」がないからである。


個がないから徒党を組むのであり、いともたやすく信奉する物が「共通」となり、「感動」したという舌の根も乾かぬ内に「あれは勘違いだった」というのである。


リズムとは何か。


その根底にあるのは、規則性である。


では、規則性とは何か。


それは、周期性である。


少なくとも人間は、そこに「規則性」を見たのである。


夏が来て、秋が来る、のである。


秋が終れば冬がくる。


そして春が来て、また夏が来るのである。


これも一つの「周期性」である。


これは、完全な「規則性」ではない、とあなたは、言うだろう。


なぜ、そう言えるのか?


あなたの主張は、あなた自身も知らないままに受け入れた、ある「視点」からの比較である。


その視点から「規則性」はない、と言っているのである。


彼は、まちがっている、と言う指摘があるとしよう。


これを擁護(ようご)しているのは、これこそが「正しい」とする人間への視点が「存在」しているからである。


では、この「正しい」とする視点は、どこの誰が決めたのであるか。


国会で青島幸男が決めたのか。(赤塚不二夫のマンガ「天才バカボン」より。ふる〜)


あるいはカラス天狗の祖先である長老たちが家路を急ぐ道中で決定した事であるのか。(高橋留美子のマンガより)


古代の人は、この「周期性」を「心臓音」に置いた。


これをパルス(鼓動:こどう)と呼んでいる。


なぜならそれが一番、身近(みじか)な存在であり、そこに「規則性」を見たのである。


その昔(1970年代)、ミルフォード.グレイブスというアフリカン.ドラミングを提唱するフリー.ジャズ系のドラマーが来日しセミナーを行なった。


彼は、聴衆に、問うた。


心臓の音は、何ビートか?、と。


聴衆の1人が答えた。


2ビートでしょう?、と。


ミルフォードは、聴診器を持って実際に自分の心臓音を半年ばかり聴いて見るとよい、と答えた。


心臓の音は、3ビートである、と彼は言った。


正確に言えば、真中(まんなか)のビートがない3ビートである、と説明した。


彼は、さらに、「アフリカン」.ドラムにとっては、「アメリカン」.ドラムに張られている下部の皮が考えられない、と述べた。


鼓笛隊(こてきたい)で活用されているスネア.ドラムを考えて見ればよい。


スティックで叩く上部の面に皮が張られている。


しかしまた、その下部にもドラム自体を「密閉(みっぺい)」するかのように皮が張られている。


これは、まるで口を手で押さえながら何かをモゴモゴと喋る事に同じだ、とミルフォードは言った。


彼はさらにスネア.ドラムの音に関して、極めて「雑音」であるとして、その「怨念」を伝え、まさに「アメリカ的」であるとし、私は、絶対に使用しない、と付け加えた。


また、その話題は、エルビン.ジョーンズ(ジャズ.ドラマーの巨人)にまで及んだ。


彼は、アフリカン.ドラミングを理解できなかった、と。


(エルビンでダメなら誰が理解できるのだろうか、、、。ましてや日本人など、、。)


これは、今から20年以上も前のミルフォードのセミナーでの発言である。


ここに、リズムの根源としての「パルス」を実際の「心臓の鼓動音」に基礎を置いた考えがある。


これを「生命リズム」と呼んでいる。



一方、この対極に、ヨーロッパにおける「産業革命」によって促進された機械文明の所産である「時計リズム」がある。


時計の発明によって人工的な「規則性」「周期性」を生み出したのである。

この「時計」の発明は、欧米の帝国主義の野望の実現をより具体的な形で可能にして行った。


侵略し植民地化した異民族をより統治しやすくして行った。


「明日、あの山の谷間から太陽が出て、あの大きな木の影が、牛三頭分の長さになった頃にこの場所へ集合しろ」と言っていては、何かと問題も多い。


しかし「時計」の出現により、それはいともたやすく伝達できる事項となった。


午前9時にこの場所へ集合、である。


異民族の中からより忠実な者を選び出し彼等のリーダーとすれば、いらぬ異文化交流の知識も勉強する必要もない。


これにより異民族統治の基準がすべて「時計」によってなされる事になる。


時計に忠実な者こそが、もっとも優秀な僕(しもべ)である。


次期リーダー候補である。


彼等は「エリート(選ばれし者)」と呼ばれる。


彼等は、生れながらに「時計に忠実であれ」という教育がなされる。


エリートになるためである。


時計に従わぬ者は、社会の落伍者である、とする教育が始る。


この時計を元にオランダ人ヴィンケルが音楽における速度を知るメーターを発明する。


これを、ドイツ人のメンツェルが改良し「メトロノーム」という名称をつけ特許を取る。


(メトロノームに表記される 「M.M」は、「メンツェルのメトロノーム」の頭文字表記である。特許を巡っての争いもある。)


ここにリズムの規則性、周期性をめぐって二つの「2大勢力」が誕生する事となる。


その基礎を心臓音においた「生命リズム」としての民族主義リズム


一方、そこに機械音による「一定」の再現を試みた「時計リズム」としての欧米主義リズム。


(日本において、この人工的「周期性」を再現したものには「鹿威し(しし.おどし)」がある、と思う)



以下、この続きは、暇を見て気晴らしに書いて行く。




当面は、これくらいでやっていけるであろう。






後記:


あまりにも、多くのプロ気取り連合が自身をリズムをマスター側の人間として位置付け、何も知らない初心者相手に上から見下ろすようなものの言い方をし、惑わしているため書くことにした。


その極めて狭い世界の視点を振りかざしているにもかかわらず、同時に流行(はや)りの「エスニック音楽」までも好きだ、と言うのである。


矛盾(むじゅん)である。


私のアドリブ.スタイルの中に、「小節線をぶちこわす」というものがある。


わたしは、今の所、このスタイルしかCD化して記録していない。

この「小節線ぶちこわしスタイル」を体得するために私は、20年かかっている。

真似して見ればよい。


おそらく、とんでもない恐怖を味わうであろう。


並の小節感覚では無理だからである。


典型的日本人型がわかりやすくて修得しやすい「小節区切り線死守フレーズ集」のつぎはぎアドリブ.スタイルではないからである。

したがい、私のスタイルは、「南の島生まれ」「暑い所の人」が持って生まれた感性で自然に発生したスタイルではない。


哲学的見地からの極めて指向性のあるスタイルの模索である。


指向性のある、という事は、対極にあるスタイルを同時に修行しなくては達成できない表裏一体のものである。


辛さを知っているから甘さも判別できるのである。


最も真面目な人間が、一番、不真面目でもある、という表裏一体の世界である。


私は、教師として、このスタイルを生徒に教えようとした事はない。

なぜなら、これは極めて危険なスタイルであるからである。


教室では、小節区切り線重視の「誰もが真面目に練習すれば修得がある程度可能な」スタイルを中心に教えている。


小節線重視の意味は、簡単に言えば、ジョー.パス、パット.マルティーノ、マイク.スターン風に弾けばよい、と言う事である。


哲学的に言えば、聴覚芸術としての音楽において、その空間を遮(さえぎ)る区切り線の存在自体が異様ではないか、と言う事である。

小節線は、音楽を視覚的に捉(とら)える「譜面」というものを、区分けして把握(はあく)するための便宜上(べんぎじょう)のものにすぎないからである。


またその小節内の和声の影響下は、必ずしも「垂直下」においてのみ発揮するものではない。


彼等、様々な和声、をつなぐ、水平的な「突破口」は、必ず各和声支配の影響下にあっても見出せるものである。


簡単に言えば、小節毎の和声に縛られている初学者では、発見不能な「自由」への道である、という事である。

あるいは、自分は、和声に縛られてはいない、とするなら、今度は、その「能力」でもって、聴衆を「快感」「感動」に導くアドリブを提示すればよい。

それができないなら、初学者と大差のない域である。


音楽において、ぼくは、まちがえずに弾けるよ、という自負(じふ)は何の意味もなさない弁である。


こんな事さえも理解していない者が偉そうに「彼って南の人でしょ?」と評しているか、と思えば、殺意さえ抱かずにはおれない。


彼等は、早く還暦になって、近所の者相手にでもその批評を得意気に披露し、自慢すればよい。


それにしても、各地で私の抵抗勢力となっている私の「生徒」であってもおかしくない、多くの「偽物」たちが、身辺の者へこのサイトは、薄っぺらな、悟りを得ない、リズムがいい加減な南の島の人間が書いているので読まない方がよい、としている、とは面白い現象である。


腐敗(ふはい)し衰退(すいたい)して行く元凶(げんきょう)の一つとなって行った、現在のジャズ界に巣食う人間特有の行動であろう。


やれやれ、あのままロックをやっておけばよかったなあ。


うじうじした人間を相手にするのは、うっとおしいものである。


くれぐれも彼等勢力に負けず、秘かに読者となって力をつけ、彼等を無視して暮せばよい。



私に洗脳はない。


なぜなら、私は、単に腐敗官僚にも似た、利権を貪(むさぼ)る連中の「実体」を提示しているだけである。


そこには、何の未来も存在しない。


次なる犠牲者の製造のみである。


事実の提示は、私が下着泥棒でつかまろうが何をしようが変わるものではない。


あるのは、それが真実であるかないかを「還暦前に」自分自身の眼で確認すればいい、という事だけである。


自民党的、官僚的体質は、どこにも存在しているのである。


あなたは1人で闘えるか?


それとも彼等の「仲間」になりその利権を手にし、同様に甘い汁を吸う者になるか、その選択は、あなたの自由である。


尚、衰退したジャズの世界には、吸うべき甘い蜜(みつ)もない。


あるのは、己(おのれ)が生きるために若い芽を喰いあさる餓鬼道(ガキどう)のみである。






2002年5月2日(木)午前4時50分


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2:私の抵抗勢力リズム:その2 2002年5月6日(月)



最初に断っておくと、このサイトの読者は、12人はいない。

これはCDの売り上げからも判断はつく。

それくらいの存在でしかない事。

また、生徒の中で読んでいる者は、4人。

後(あと)は、私の音楽にも、このサイトにも、読書にも、まったく興味を示さない、その日、その日を生きているだけの生徒が日々の商売相手。


リズムの話しをするつもりでいたら、なぜか「抵抗勢力」の話しから始まってしまった。


なぜだろう、と考えて見た。


私は、即興演奏のようにいきなり書き始めるので、この一寸(いっすん)先に何を書き出すかは、自分でもわからない。


(だから、今だに、飽きっぽい私が書き続けていられるのだ!)


ただ、日頃から何となく考えている事は確かである。


リズム論に関しては、10代から考え始めたので20代では、ほぼその考えは結論を見た。以後、これも変わる事がない考えの一つとなった。


私は、16才から大体32才くらいまで「日記」をびっしりつけていた。


取るに足らない事から様々な問題を1人考えて続けていた。


これが料理人なら、「オレの料理には、何かひと味足りないのだ。一体それは何なのだ、、、。砂糖か、いや違う、甘さは、これで十分だ。”甘えの構造”はもう終りにしたい、、では一体何なのだ、、、、塩分は、これ以上増せない。、さすがの工事現場の人夫たちからも辛い、と不評だ、、、、では、一体、、、、あっ、そう言えば、やっぱり西岸良平のマンガ「三丁目の夕日」は、楽しいなあ、ついまたセブンイレブンで買ってしまった。開いててよかったあ。」


、、と言った感じの日々だ。


思い起こせば、リズム論は、中学2年生の頃から考え続けて来た。


そうだ、あの頃からである、何かと抵抗勢力が出て来たのは。


休み時間に教室で「ギターを弾く人のための、誰でもよくわかる音楽理論」と言う本を買って読んでいたのである。


これからは、ロック.ミュージシャンも「音楽理論」がわからねばいけない、と成毛氏の「ロック.ギター上級編」に書いてあったからだ。



何々?、トニックというのは、一家の「お父さん」で、サブドミナントというのが「叔父さん」で、ドミナントというのは、「お母さん」にあたるだって?


でもなぜ、叔父さんもいっしょに住んでいるんだろう?


仕事は、何をしているんだろう?


う〜ん、理論はむつかしいなあ、とページをめくっていたら、突然に現れたのだ。


「な〜んだ、まだそんな事も知らないのか!」という声が後方から飛び込んで来た。


隣のクラスのAである。


あまり口を利く事もなかったのだが、なぜか対抗意識を燃やしているのである。


それは突然、爆発した感じのちょっかいだった。


私は、「ああ、これね、もう何回も読んでるんだけど、ちょっと暇つぶしで復習してるんだ」と言った。

ページには、エプロンを来たサブドミナントのお母さんの絵が描かれていた。


さらに、「あ〜あ、いっぺん読んだものを読むのは、たいくつだなあ〜」とか言いながら大切な本を机に放り投げた。


その時、頭の中では、「こ、こいつがいない所でこれからは読まなければ、、、」と決めていた。


これを始まりに、何か、学校の科目以外の事を学ぼうとするたびに、様々な人間が何かとちょっかいを出して来た。


本屋で、「英語版リーダーズ.ダイジェスト」なんかを手にして、う〜ん、やっぱりむつかしいなあ、と思ってパラパラめくっていたら、「何読んでるんだよ、わかりもしないくせに!」と、クラスメイトに見つかり笑われた。

私は、とっさに「昔はよく定期購読したもんさ」と意味不明な言い訳をしていた。(中学2年!)

クラスメイトは、「じゃあここの意味はなんだ」と英文を指差した。


私は、ちょっと読むふりをして「フムフム、今、アメリカでは、ペットを飼うのが流行っているらしい」と言った。

犬の写真が出ていたからだ。


「ペット?どこにも
PETって出てないぞ!」とクラスメイトは、突っ込んで来た。


私は、しまった!、ペットは英語だったか!、とあわてたが、「アメリカでは、ペットってあまり言わないんだ。名前で呼ぶんだ」と、ますます異次元の世界に入って行った。


クラスメイトは、ちっ!と言って立ち去った。


私は、本屋では「英語版リーダーズ.ダイジェスト」は手にしないようにしよう、と決めた。



これは、つまり、おとなしい子が教室で、「誰でも強くなれる格闘技のトレーニング」という本でも開いて真似している場合の事を考えて見ればよい。


日頃、まったく接触のなかった、いじめっこの「ジャイアン」のようなのが、すかさず、その映像だけを他のクラスメイトの行動と区別して「認知」し、エイリアンのようにフフフフ、、と接近して来るはずである。


その行動が、彼、ジャイアンの敵愾心(てきがいしん)を刺激したのである。


オラから力を奪ったらなんも残らねえだ、絶対にオラを超える事は許さねえだ!(一体、どこの方言だ!これは。)、、、である。


もはや、「おとなしい子」の卒業までのバラ色の日々はこの日をもって終りを告げる事になる。


この子に残された道は、二つ。


強くなる事は、完全にあきらめました、という事を示すために寝ころんでお腹(なか)を見せながら「無抵抗、降伏(こうふく)」のポーズをとるか。(かつて、アントニ猪木-モハメッド.アリ戦で猪木が見せたポーズである。しかし猪木は、降伏する気はまったくなかったのだ。


『註:実際の降伏のポーズは、ひっくり返って喉元を相手にさらす。狼(おおかみ)社会での対決の際の降伏の表明である。これをすると、以後、彼は、勝者の子分となる。』


あるいは、秘かにトレーニングを続け何時の日か打倒ジャイアンにその闘志を燃やし続けるか。


一応、卑怯(ひきょう)な手段は考慮(こうりょ)しない事にする。


ジャイアンの筆箱(ふでばこ)を隠したり、彼に不幸のハガキを送ったり、というマメなゲリラ作戦などである。


以上、これらの、何かをやり出したあなたに見せる、他者の行動、すなわち「ちょっかい」は、その人が持つ、コンプレックスに起因する。


この事に関して、おまえなんかに負けるわけがない、という日頃からの競争心である。


いつかこれでみんなから尊敬を受け、見返してやる、と思っている矢先に、みじかな所で思わぬ光景に出くわしてしまうからである。

誰も、彼が、その道のエキスパートである、と知らないか、あるいは認めていないか、の境遇である。

彼は、秘かに関(かか)わっていたのである。

それでは、お互いが仲間になるのでは?と考えるであろうが、そうはならない。

なぜなら、彼等は、好奇心から始めたわけではないからである。

いつか、これでみんなから尊敬を得たい、見返してやりたい、というのがその主な目的であるからだ。


彼等が秘かに修行している対象は、そうした「自己実現」のための「手段」でしかない。

好きで好きで思わず夢中になっている、というものではないのである。


これが、修行事に向かい、本当に好奇心から関わっている者と、単に、みんなを見返してやるためにコンプレックスから関わっている者との違いである。


(念のため、この場合の「コンプレックス」は、「劣等感」あるいは「競争心」としておく。
ある事に劣等感を感じているから他の事に異常な競争心を抱くのである。)


コンプレックスからのその対象に関わっていては、好きで四六時中関わっている「好奇心」の敵ではない。


最終的には、これが決定打となるが、出だしはどちらでもいい場合がある。


様々な分野の修行日記を読むと、こうした外野からの「ちょっかい」や「妨害」が起こらないように秘密裏(ひみつり)に修行は敢行(かんこう)されている。


山に籠(こも)り、人間は、じゃまばかりするからと、カラス天狗(てんぐ)に修行をつけてもらったりする者もいたりする。


軍事戦略も同様ではないか。


外部に漏れては、必ずじゃまされる。


特に、外国語コンプレックスのある日本社会では、語学の勉強もままならない、という。

外資系でもない会社で英字新聞でも休憩中に広げていると、何かと、語学コンプレックスの強い同僚や上司に目をつけられたりする、という。

外資系なら、あるいは、文学小説なんかを読むのが恥ずかしいかもしれない。

ドストエフスキーの「罪と罰」なんかだろうか。


またしても「ああ、学生時代に読んだんだけどまた読みたくなってね」、とつい言ってしまうかもわからない。


それであわてて休憩時間に「名作のあらすじ」というダイジェスト虎の巻本でも買ってトイレで読むかもしれない。


そして今度は、自分からちょっかいを出して来た同僚に何かと接近し、「いやあ、久々に読むとよくわかるなあ」とか、いきなり話題に持ち込むかもしれない。


それからは、お互い「罪と罰」を読んでいないライバル同志で意味不明な感想が繰り広げられるだろう。


なるべく「罪と罰」にふれないように「罪と罰」の話しをするのだから、これは、コンプレックスを持った人間同志にしかできない芸当で、これはこれで年季が入る。


何のコンプレックスもない上司や同僚であれば、「へえ、がんばってるねえ、ぼくは、ぜんぜん文学はダメだったなあ」とさわやかに去って行くはずである。


まあしかし、人間は、そうしたコンプレックスがあるから成長する事も事実である。


自分は他人よりも足が遅い、と思っている者と、別に自分は、人並みの速さで走れる、と思っている者とではその向上心が大違いである。

足が遅い事にコンプレックスを持っている者は、早朝から飛び起きて練習に励(はげ)むだろう。

別に何のコンプレックスも持たない者は、相変わらず何をさせても「普通」である。


その境地の上に「好奇心」の存在があるが、これは、コンプレックスよりもその修得はむつかしい。


育った「環境」の影響であったり、あるいは、コンプレックスがさらに上の境地の「好奇心」に転化する事もある。


だからやっぱりコンプレックスは、通常は、必要なものである、と言える。

コンプレックスがあるから人は向上心を維持できるのである


しかし、これはあくまでも自己の持つコンプレックスを利用できた場合の「自己管理術」である。


通常は、このコンプレックスに動かされ無意識に他人へちょっかいを出して妨害したりしている自分に気づかないでいるからやっかいなのである。


それもこれも、自分が「完成」していない事を近辺の者が「完成」してしまう事に対しての「恐怖」なのだ。

(沖縄のジャズギター愛好家連合が私を無視し続けているのは大体これだ。高学歴者や自称インテリ、あるいは有名人大好きミーハー族に多い現象である。実力は、私のランク表では、みんな8級くらいである。テレビ番組の「がちんこ」でも世界チャンピオンにでさえ食ってかかるならず者たちがいるではないか。偽物たちだから本物が自分では、わからないのだ。)


その事では、自分がその場では「尊敬」される「べき」対象である、という怨念(おんねん)がある。


だから、自分でもわからない行動に心が支配され、他人への妨害行為に出るのである。


こうした事は、未知なものへの恐怖心から来るのである。


この恐怖心が強いと、他人を自分の理解から越えないレベルに抑えておこう、という傲慢(ごうまん)な要求をする人間ができあがる。


親が子供に対する要求が強いのもこれであったりする。


子供が自分の知らない未知な世界に向かう事の恐怖である。


他人を「
自己の理解できる範囲」に押し込めておこう、とするのだ。


いわば、支配意識である。


自己と他の区別が未成熟なのである。


まだ、母親の胎内(たいない)に息しているのである。


母親を別の「生命体」と見なせないのである。

転じて、他人へも同様なものを求めるのである。

上手く行けば、親しくなれる。

失敗すれば、絶交、である。


彼は、その対象を知り尽くしているから忠告しているのではない。


あくまでも未知の世界であり、
その世界では彼の威光(いこう)も通用しない、という「事実」への恐怖心から否定するのである。

熟知しての忠告は、さほど他人を制約するものではない。

「実践しないと、知らないよ」と付け加える程度の忠告である。

なぜなら、彼は、そこから抜け出る方法も熟知しているからだ。


例えば、私が、少年が高校を1年で中退する事をさほど大事件とは思わないように、である。

未知なものに対しては、様々なデータを調べ、やっぱりその宗教はまずいんじゃあないか、と指摘する事ができる。

何でも体験して見なくてはわからない、とするなら、もはや、人間界の「知恵」はいらない。

様々なドラッグを試したり、殺人を重ねて見るしかない。

しかし、一度くらいの殺人では、二度目の殺人をおかした人の気持ちはわからない、となるだろう。


ある分野でのコンプレックスが強いと、いばれる要素が少しでもある他の分野をどこからでも見つけ出して来るものである。


それが病歴であっても殺人であっても変わりはない。


これに終りはない。


体験しなくとも「戦争は嫌だ」と様々な文献を見れば身に染みて理解するのが、イマジネーションの力である。

先人は、数々の「体験記」を遺(のこ)してくれているから重宝である。


こうしたリズムに関する事項ひとつをとってもこれを認識させようと先人が苦労した話しも知っている。


世の中は、ある一つの物事を理解した人としない人を比較した場合、理解しない人の方が圧倒的多数である。


物事が複雑になればなるほど、その数は限られて来る。


アインシュタインの一般相対性理論だって今だに理解していない者の方が圧倒的多数である。


こうした権威となった理論の場合は、理解した少数派が「尊敬」される事になる。

しかし世の中は、理解してしまった少数の者が、理解しない多数の者から「疎外(そがい)」される事の方が多い。


これが数の論理である。


多数決によって黒色を白色という事にしよう、と決まれば今日から黒は白である。


したがい、こうしたリズム論にしても時計リズムと生命リズムのどちらが主流であるか、あるいは、
どちらがビジネスとして利益が大きいか、と考えて見ればよい。

まるで「資本主義」対「共産主義」の闘いと同じ結論を得る事になる。


また、こうしたインターネット情報社会において、何でも知っている、という立場で君臨したい者にとっては、「
みんなが羨望(せんぼう)しているものは、常に、それを教える立場に位置していたい」、という願望も生まれる。


言わば、町内の物知り博士(はかせ)の地位である。


彼は、この地位を維持するためには、どんな事でもする。

なぜなら、それが彼の町内での「存在理由」であるからである。

彼は、知識がなければ、受け入れられない退屈な人であるからだ。


また、彼自身も人々から「尊敬」を得なければ生きていても意味はない、とする世界観の自我を持つ。


私は、かつて、
傲慢(ごうまん)な人間は、絶対に自分が傲慢な人間である事を認めない、と言った。

それは、誰か別な人間であろう、と必ず、他の人間にそれをなすりつける、と言った。

しかし、彼、彼女が傲慢である事は、彼、彼女の傲慢な要求の犠牲者になっている回りの者ならすぐさま「彼、彼女こそがその典型的人物なんだ」と心の中で叫んでいる。


では、私は、傲慢か?


残念ながらNO!と言い切れる。


私は傲慢な人間ではない。


なぜなら、私が、傲慢な人間であったとしても、私は、他者に対し、
傲慢な人間が取るであろう「行動」をしないからである。


私が、この本を読んだ方がいい、とすすめたとする。

しかし、それは、あくまでも「教育の一環」という文脈の中で提示しているだけである。


私生活で他人に強要する事はない。


その事でとやかく言う事はない。


ただ、読まない人の意見と言うものは、どれだけの「内実」を持ったものなのか、を検討するだけである。


私が押しかけて行って、絶対これを読め、という事はない。

そのつど、その人に対しての要求のレベルを下げて行くだけである。

どうしても読んでほしい場合は、私は身ぶり手ぶりで話して聞かせる事にしている。


その方が、話しをダイジェストしてまとめる訓練になるからどちらかと言うとこっちの方が楽しい。


いいか、昨日読んだ、「資本主義と経済」の本の話しをするから聞いてくれよ、と言った調子である。


大体、途中で何を言っているのか自分でもわからなくなる。


だから私は、私生活では、あまり他人へ何かを強要しない。


自分に対しては何かと強要している事はある。


とすれば、私の、彼、彼女等への期待は、面白いか、面白くないか、という一点のみとなる。



しかしまた、こうして見ると、私は、私という人間がいかにりっぱで傲慢でないか、を自慢しているようにも見える。


実際は、そうではない。


私は、おそらく人の何百倍も傲慢な人間である。


だからこうして他者への「要求」を提示しているのである。


しかしそれは、私だけの「個人的要求事項」ではない。


私だけの個人的要求は、無限と言えるほど存在する。


なぜ、人は、私の口座にお金を募金しないのか。


なぜ、人は、私を好いてくれないのか。


なぜ、人は、働かなくてはいけないのか。


なぜ、毎日、寝て暮らせないのか。


なぜ、私の演奏を聴きたい、という人がさほどいないのか。



この私の「なぜ」には歯止めが利かない。


しかたないから、こうした「私だけが」喜ぶ要求を取りあえず脇(わき)に寄せて置き、こうしたら私以外の人間もよろこぶのではないか、という事を要求する事にしている。


もちろん、一番よろこぶのは、私である、という事が絶対条件である。


なぜ、私が、傲慢な人間でない、となお言えるか、と言う事に関して、私は先に、単に、私は、
傲慢な人間が取る行動をしていないだけ、といった。

私がいくら傲慢な要求をしようが、その要求を拒絶するのは簡単である。

このサイトを読まなければよいだけである。

生徒が私を傲慢な人間である、と判断すれば、教室をやめればよい。

私は、追い掛けてまで人に対し私の要求を押し付ける事がない。


しかし、これもまた、長年の「修行」の賜物(たまもの)であって、けっして持って生まれたものではない。


これは、無意識に私が取っている行動ではない、という事である。


極めて「
自己協議的(私の造語、今作った)」な意識下の「理性的」行動である。


なぜなら、私は、極めて「傲慢」な人間であるから、こうした他者への要求行動を「意識」の管理下に置かないと、すぐに私の正体はバレてしまうからである。


以上の理由から、私は、私自身を傲慢でない、と判断するのである。


もし私が、「傲慢である」、という行動を取るとしたら、それもまた「自己協議」の結果、そうした行動を意識的に取った、という事に過ぎない。


私は、それほど遠慮(えんりょ)深い人間でもない。


どちらかと言うと横柄(おうへい)でさえある。


旅の道中で、侍(さむらい)のように、茶店(ちゃみせ)を見つけ、「おやじ、ちと弁当をつかわしてもらうぞ、茶を出してくれぬか」と言うくらいの要求はできる。


注文をまちがって持って来たウエイトレスに、つっかえす事もできる。


相席(あいせき)いいですか?と突然いわれ、「いいわけないだろう」とも言える。

なぜなら、私は、その席を確保するために時間をかけ待ったのである。

何の時間もかけず、入店と同時にどこでも確保できる、と思っている「傲慢な」人間とは同席しない。


少なくとも「芸術家」は相席を好まない。


「ゲージュツ家」は、大丈夫かもしれない。


自身の「テリトリー(領域)」に敏感なのである。


私の場合は、他人との距離は、半径、最低1メートルくらいの空間がある方がよい。


飲み屋は、また別のテリトリー感で、50センチくらいでもよい。


「私と相席(あいせき)してお話しませんか?」と言うのはまた別の誘惑(ゆうわく)である。


お店が時折、私にサービスしてくれる事はない。


私が、同じ金銭を支払い続け、お店にサービスする理由はどこにもない。

「代金は半分にしますから相席いいですか?」というなら喜んで席を分ける。


私は、喫茶店で読み終わった新聞をずっと束(たば)ねたままで自席に置いて話し込んでいたり、あるいは、別の雑誌を読んでいる人間は地上最大の「傲慢」な人間だと思っている。

私の場合は、一挙(いっきょ)に全紙をかき集め、それを「隠し持ち」、読み終わる度(たび)にひとつひとつをわざわざ席を立ち棚に返して行く、という「消去(しょうきょ)読書法」で読んでいる。


昔、蕎麦(そば)屋で、集めた新聞を読み始めると、おばさん二人組が入って来て席につくや、「新聞持って来て」と頼むのが聞こえた。

女店員が私の所へやって来て、私が待機させている次の新聞を差し「新聞いいですか?」と言って来た。


私は、これを「ダメだ!」といい拒否した。

私のあまりの語気の強さに女店員は引き下がった。

私は、こうした所では、新聞という「みんなの」ものは、いちいち自分で棚(たな)に行き、その順番を待って取るべき、という「フェア−な」ルールの下(もと)に競争して確保するものである、と思っている。

それを棚にもやって来ず、私が新聞を読んでいる事を知りながら席に着くやいなや「新聞持って来て」というおばさん連合の「傲慢」な要求である。


サッチーかおのれらは!、である。

またしてもおばさん連合は「催促(さいそく)」した。

女店員は、「ちょっとしばらく待って下さい、、、」と困ったように言っていた。

私は、読み終わるとまたひとつひとつ棚にもどして行った。

私は、この店にほぼ毎日のようにムスッと入って来て日本蕎麦を食べながら新聞を全紙読むのが日課であった。もう7,8年経っている。

あのおばさん連合は飛び込み客である。

どうせつまらん広告の確認である。

私は、命がけで読んでいる。

命をかける所もないから、こんな事にかけている。

私が拒(こば)んだ最大の理由は、ああした連中は絶対に読み終えても棚(たな)にもどさない、からである。


ずっと自席にほっぽり出しているのが普通である。


私は、常連を大切にしない店などにいくら通っても無駄である、と思った。


私は、発展性のない事が大嫌いである。(何度も言っている!)



私は、帰り際(ぎわ)、女店員に「ここには、新聞を読みに来たついでに蕎麦を食べている」と告げた。

女店員は、恐縮して謝(あやま)った。



以来、その店は行かなくなった。


通っても無駄であるからだ。



この間も昔から沖縄一サービスが悪い事で有名な外資系のファースト.フードの店に入った。(沖縄には、まず、このファースト.フード店ありき)

この1年はサービスも改善されているはず、と思って通っていた。

また、支店により多少は変わる。

しかし、後から上陸して来たファースト.フード店のサービスとはまだまだ雲泥(うんでい)の差である。


もちろん新聞を全紙読みに、である。スポーツ新聞もある。(そう言えば、私は新聞を取っていない!)

店内に入った時、私はすかさず、全紙をテーブルに独占して話し込んでいる中年男女グループに気づいた。


私は、「オレの新聞を読みもしないで、独占して!」と、相変わらずの人種に、うんざりした。

まあ、こうした、「読んでもいないのに独占する人たち」を見つけた場合、普段は、「新聞いいですか?」と言って奪って来るのだが、若い女店員を呼んで「ちょっと、あそこにある新聞を持って来てくれ」、と、マンガ喫茶でよくやる方法を取った。


すると若い10代の女店員は、「え?」と言って躊躇(ちゅうちょ)している。

マニュアルにないのだろう。

私の方がびっくりした。

「店員が取って来るのが普通だろう?どこでもやってんだから」と言った。


女店員は、しぶしぶ話し込んでいる客の所へ行き新聞を取って来た。

いかにも不快なぶっちょう面(づら)で私に新聞を手渡した。

私は、店長を呼べ!とは言わなかった。


なるべくサービスの悪い状況にも馴れておかないと人はボケるのも早い、と知っているからである。


こうした女店員たちは、私は大変「傲慢」な人間である、と証言してくれるだろう。


私は、こうして毎日、新聞を全紙見る、という闘いの日々を送っている。

主にスポーツ紙の「芸能欄(らん)」であるが、、。


なぜか、サッカーと野球は、飛ばしている。


団体競技は、苦手であるからだろう。



私は、このように、人の何千倍も傲慢(ごうまん)な人間であるから、私が私自身に「ルール」として課している事は、私から誰かに声をかける事をしない、という事である。

私は、要求の多い人間である。

こうした方がいいのではないか、と思う事が多いという事である。

だから、私は、人が聞かない限り、自分から答える事をしないようにしている。

去る者は追わず、来る者は、拒(こば)まず、というが、去る者は追わない事は当然として、来る者は、選ぶ、事がある。


これは、数々の経験からそうなってしまったのである。


言わば「知恵」である。


しかし、それでも、「人間」というものを信じている甘さがある。

人間は、「覚醒(かくせい)」すればいつからでもやり直せるのではないか、と思っている甘さがある。

だから「教室」と言うものをなんとかやっていけるのである。


先達(せんだ)ても、問い合わせの電話が入った。


「あのう、ブルースギターをやりたいんですがね」

「えっブルース?ジャズは、やりたくないのですか?」

「いや、ブルースですよ。ブルースを唄いたいんで、ちょっとアドリブもできたらかっこいいかなあ、と」


「あのう?どこで広告を見たのですか?」


「ああ、楽器店のチラシですね」


「、、、、まあ、一応、明日***時に申込みに来て下さい」


私は、広告ポスターを一切やめ、唯一、ある楽器店のみにチラシを保管してもらっている。


何となく、その「限界たっぷり」を予感させる者とのかかわりが嫌な感じがし、楽器店に確認の電話を入れて見た。


「そう言えば、チラシ広告があるけど、そこに、ブルース教えます、って書いてあったっけ?ジャズとは書いてない?」と聞いて見た。

もう大分前に作ったチラシ広告であるから記憶も薄れている。


「いえ、まったく書いてないですが?」


店主も6,7年在籍の長年の生徒の1人である。


「じゃあ何で、ブルースって言ったのかなあ?」


「たぶん、アドリブって書いてあるからじゃあないですかね?」


「でもその前に、ジャズって書いてあるでしょ?」


「ええ、でも彼等は、”アドリブ”って文字しか読みませんから」



私が、「ジャズ」とだけ、書いているのは、ジャズを学びたい者は、まだ、様々な音楽も学ぶ気があるから、というのが長年の「失敗」からの「知恵」である。


昔、「ロック&ジャズアドリブ」と書いたためにひどい目にあった事がある。


文字は見るのも書くのが嫌なんだ、という若者ばかりがやって来た。

ロックを好きな者にジャズを教えるのはむつかしい。

しかし、ジャズをやりたいという者にロックを教えるのは、わりあい可能である

そうした事から、まだ「ジャズ」と書く方が苦労しない、という結論を得た。


要は、音楽に頭脳を使う気はあるか、ないか、である。


中には、それでも「演歌を唄いたいんですが?」と言って問い合わせして来る者もある。

彼等にとっては、演歌をカタカナで書くと「ジャズ」となるのだろう、という認識があるようだ。


昔は、それでも金(かね)儲(もう)けを意識してやっていた。


これも食べて行くための「ビジネス」である。


しかし、彼等の思い通りにはさせない。


お客様としての「生徒」が神様ではない。


神様は、「先生」としての私である。

なぜなら私は、「教える」側の人間であるからだ。


しかし、医者は、サービス業である。


横柄な医者しかいない、とすれば、これでは、官僚天国である。

だんだん地域の病院も個人病院がなくなり、大手化して、医者を選べなくなって行く。


資本主義社会の中の「共産化」である。



しかし、こうした演歌志望の者がやって来ても私は、「演歌ギターをやるためには、まずボサノバ.ギターからです」と言ってレッスンを始めていたのである。


「フォーク」志望も大体、この調子で応対する。


こうでもしないと世の中の文化は「発展」しない。


大抵がしばらくして逃げ出して行く。


しかし、それは仕方がない。


ちゃんとチラシ広告の文字が読めない者が悪いのである。


自分の要求通りに、どこでも都合よく金を出せば学べると思っている者が悪いのである。

彼等の要求通り行なえば、彼等が今までやって来たような結末しか迎えない。

芸事の基本は、師匠に全面一任、という態度が必要だ。


それをクリアーしてから後の事は考えればよい。


だからその前に師匠をよく調べろ、と言っている。


さて今回は、例え、ジャズと書いてあっても、「ブルースのアドリブだけをやりたい」という歌手志望の者である。

私の顔なんかは、「ヘノヘノモヘジ」でいいというくらい、私の音楽にも興味がない人種である。


半年ばかり教えて、一切、他の音楽に興味を示さなかったら「卒業」としてほっぽり出そう、と考えていた。


大体、この「卒業」で、ほっぽり出している。


果たして、このブルース男はどうであろうか?


私の音楽にも、このサイトの文字も一切興味がないはずである。


翌日、そうした問題は、一切無用である事がわかった。


彼は、約束した時間には現れず、すっぽかされてしまった。


まさに「ブルース」である。



こんな事も日常茶飯事である。


来る者を拒(こば)めがよかった、とその度に思うのである。


もう少し危険を察知する能力を磨かねばならない、と改めて決意する。


それでも普通以上には慎重である。


レッスン時間の30分前に必ず電話で確認を入れるように個人レッスンの生徒には、課している。


これがなければ、「すっぽかして逃げた」と思う事にしている。


実際、習い事の教室へ来なくなる者の80パーセントは、これである。

後(あと)の15パーセントは、当日の必ず約束した授業時間に電話が来て「じゃあ、そう言うわけでやめますので、、ガチャン!」である。


どうせ「なまけ病」である。


残り5パーセントの者がちゃんと前以て退会日を予告し計画性のあるやめ方をしている。


私は、例え、相手が私が嫌いとする音楽を聴いていたとしても、その何百倍も私が好きな音楽を提示して見せる方がよい、と思っている。


しかし、基本的に私の音楽にも興味がない人間に、他のミュージシャンを紹介する事はない。


ミュージシャンとして「あたりまえ」の事である。


長年の自分自身との協議の末、「議長!これは傲慢な行動ではないのではないか」という結論に達している行動だけを取っているだけである。


私自身が傲慢な人間であるから、なるべく行動では歴然としたそうした行動を取らないようにしよう、と努めているのである。


好きな人に対し、ストーカーをしてでもいいからその近くにいたい、と思ってはいても、実際にその行動が他者に対して「傲慢」な態度である、と思えば、協議の末、それを行なう事を泣く泣く却下(きゃっか)する。


私は、よく、傲慢な人間は、相手が切手を集める事に喜びを見い出している蒐集家(しゅうしゅうか)であるというのに、自らが気入っている「コイン」をプレゼントする奴である、と言っている。


他人のために何かをする事は、常に「やっかい」でなくては、適確に相手を喜ばせる事はできない。

「やっかい」だから適確に行えるのである。


己(おのれ)の快感原則に従って動いたものは確実に的を外す。


そう言えば、あいつに何かプレゼントしなきゃいけないなあ。


あいつは、切手を集めてるとか言っていたなあ、やれやれ。


こうして彼は切手屋に行き、「何かコレクターが喜びそうな切手はありますか?」と言って買い求めるのである。


このプレゼントは的(まと)を得ている。


しかし、「これはオレが大好きなコインだから、大切に扱ってくれ。オレの気持ちだ」と言って切手蒐集家にプレゼントした場合はどうであろう。


私なら、ほっぽっておく。


彼が望んだ事は、彼の「おかげ」で、そのコインと出会い「感動」し、今日、この時から新たにコインを集める事となった人達が、何かにつけ彼がプレゼントしてくれたコインを引き合いに出し感謝する、という、話しを生涯にわたってしてくれる事を期待する行為なのだ。(ちょっとややこしかったか?よく読め!)


私は、ある個人的なエピソードを取り上げ、いかにも特定の人物を中傷しているように見せる事がある。


実際にそれもある。


サイトでの「日本人と模倣」の「非常識系生徒」に上げた者たちはその典型である。

(現在、彼等は、自然保護運動コンサート活動に意義を見い出している。自然を破壊して乱立されるリゾートホテルで日々演奏をしながら、である。「むつかしい事はわからない」そうだ。まさに何をさせても「非常識系」である。「かっこ良ければ」なんでもいいのである。私は、「かっこ悪い」と思う。死ぬほど「恥ずかしい発言」と思う。)


彼等は、「特殊」である。


意外に、その華々(はなばな)しい悪行(あくぎょう)が「個性的」である。


彼等独特のものなのだ。


他に類を見ない。


彼等のような人間がそう簡単に出てくるかもあやしい。


しかし、それ以外の人物に関しては、どこかに「普遍性」が潜(ひそ)んでいるのである。


この「普遍性」を典型的に現すエピソードとして登場させているに過ぎないのである。


彼等には、「個」を感じないのである。


どこかしら時代の「犠牲者」的要素が内包しているのだ。

したがい、彼等のような「人種」は、今後もさらに増殖して行く気がするのだ。


「その音楽は聴くな!」

「あいつは偽物ってみんなも言ってたんだ」

「ふ〜ん、インテリじゃあない人がリズムの話しねえ」

「私は、、何でもマスターしておりますら、皆さん、知らない事は、私に聞いたらよろしいです、私にかかれば一晩もあればどんな真理でも探り当てる事ができます。」


(これって受験勉強の一夜づけだな?)


彼等には、なぜ「個」がないのであろう。


昔、伊丹十三(いたみ.じゅうぞう:「マルサの女」等の映画監督)氏が言っていた。


日本語には、英語で言う所の自分を指す第1人称の「I (アイ)=わたし?」にあたる言葉が存在しないのだ、と言う。

これは、そもそも日本語に訳せない言葉だと言う。

なぜなら、これを日本語に訳してしまったら必ずそこに「他者との関係」が入り込んで来るのだ、という。


以下は、私なりの解説である。


「私」:敬語を使わねばいけない相手か、あるいは、自分の品をある程度限定してしまっている。

「オレ」:相手が目下の者か、あるいは、自分に少し酔っている。またこれは、ある地方では男女区別のない方言の第1人称でもある。そこには丁寧さもぞんざいさもない、という。沖縄では、同様に「わん」がそれに当たる。これも本来、男女の区別がない1人称である。年輩の方言は男女の区別なくこれである。

「あちき」:これは、出身の方言を隠すための花魁(おいらん)言葉(遊廓:ゆうかく)である。


「ぼく」:これは、深い階層を持つ幅広い言葉である。ある程度相手との関係に親しみのある1人称である。


最近では、「私的(わたし.てき)には、、、」という1人称もある。

しかしこれでも、今度は、その人の自我の主張が少し濃厚(のうこう)である。


以上、「I 」を日本語にしただけで、既にどんな相手に向けて「気を使っている」か、という事が現れてしまうのだ。


ところが、この英語の「I 」は、「無色の言葉」である。

何ものとも比較していない「絶対的存在」なのである。


これを伊丹氏は、フランスの俳優、故、ジャン.ギャバンが椅子に黙って座っているシーンのようなものだ、これがまさしく「I」にあたるのだ、と言った。(伊丹氏が出た、テレビを見た。私と同じ歳か同世代の「戸川純」もいたNHKの番組。)

何者とも相対(あいたい)しない、既にそこに存在している1個の生命体としての「I」なのである。


(この「自立」の概念は、「他者否定」で、「自己肯定」でもない。ひたすら一つの独立したものとして存在している、というだけである。他者否定は、他者に「依存」しているから否定しているのである。この点から私は、数少ないリスナーに「依存」している、と言える。)


この「I 」が、日本人にないもの、なのである。

私がこう言うとすぐにまた、自分は、既に「I 」である、とする者が出て来るのが日本インテリ気取り社会である。


(んなわけあるか!その会社やめて見ろ!)


これでは、せっかくジャン.ギャバンを出して来た伊丹氏の思考も無駄となろう。


そういう者は、一体、自分のどこに「日本人と違う」要素があるというのかを探して見ればよい。


これは、何事にも、何者にも「依存」しないで存在している、という事なのである。


闘い抜いた1人の人間が何ものにも依存せず、何年にもわたり、しっかりと大地に立っている姿そのものなのである。


日本人が使えるのは、常に「We 」である。

海外に出れば「We Japanese ]である。

無理して「I 」を多用しても既にその生き方そのものが「依存の変遷の歴史」である。


自分が、見つけたものを、誰か他の者に確認を取らねば「不安」になる。

既に、それは「権威」となっているか、を必死で調査し安堵(あんど)する。

何か買い物でもすれば、必ず、それが他の者にとっても「価値ある物」であるかを確認するのである。

個性的を装っても必ずそこには、同様な「集団」がある。

また、それが、意外に「主流」であったりする。

常に「We 」となるまで彷徨(さまよ)い続けるのである。

「I 」の集合体としての「We 」ではないのである。

「We 」を解体して見ればそこには、何も存在しないのである。


私の大好きなミュージカルに「サウンド オブ ミュージック」がある。


子供たちの家庭教師として雇(やと)われたジュリ、アンドリュースが子供たちに拒否され、意気消沈している。

ある晩、雷(かみなり)がはげしく鳴る。


ジュリの部屋に、雷(かみなり)を怖がる子供達がやって来る。


子供たちが自分を頼りにやって来た事を知り、ジュリ、アンドリュースが様々な歌を唄い出す。


その中の一つに、「マイ フェイバリット シングス(私のお気に入り)」と言う唄がある。


雷を放つ天へ届けとばかりに、ジュリは、「私の好きなもの」を列挙し唄い出す。


興味があるなら歌詞でも調査すればいい。


私なら、青色のゴム草履(ぞうり)、茶色のTシャツ、ハットづくりの麦わら帽子、BB キングのスイカでギターをつくったジャケットのアルバムとか、いくらでも列挙する。


それは、本当に自分だけの「宝物」。


誰にも、とやかく言わせない。


いくらでも言える。


小説、ジャズ.カントリーの少年の言葉を26年ぶりに「今」思い出した。


ぼくは、ぼく自身でありたいんだ、ぼく以外の何物にもなりたかないんだ!


そうだ、16才の時、そう決めたんだ。


大人になった「ぼく」が、何とかして上げようって四苦八苦しているだけなんだ。


抵抗勢力は、たくさんある。


このサイトに一切の「広告」「リンク」がつけられないほどである。


大手の音楽学校は、高額な暴利を貪(むさぼ)っている、としただけで、彼等も支持しなくなる。

そのかわり、私は、「私塾」の復活をその希望に溢れた未来の存在として提示して「あげて」いる。


世の中は、予備校閥(ばつ)と言うのがあって、あらゆる「メディア」にそこの出身者が存在していて、一地方の「文化」は、彼等の管理下にある、と言った。

だから彼等からも私は「敵」である。


高柳昌行氏は、雑誌社とライブ.ハウス、評論家の結託(けったく)を暴露(ばくろ)してライブ.ハウスから一切の締め出しを喰らい演奏場をなくしてしまった時期がある。


私は、一地方のジャズ文化は、窓口となる店を経営しているオーナー、ミュージシャンによる「ライブハウス」によって決定され、その「派閥」に属しないミュージシャンは、「文化外」の取るに足らない存在になっている、とした。

彼等は、けっして、「技量」によって君臨したわけではなく、生き残ったのは、単に、その「経営手腕」にある、と指摘した。


一地方の音楽組織は、ある宗教団体組織の幹部や、かつての進駐軍時代に棲息(せいそく)した「亡霊」たちにより相変わらず握られている、とした。

その組織は、やがてかつての「同級生」が幹部となったメディアや地方自治体と結託し、より年功序列の組織を形成している。


年寄りががんばっているのではない。年寄りが政治的手腕により「君臨」しているのだ。


リズム論を展開するにあたり、必ず、そのマスターレベルに達していない大多数のプロ気取りミュージシャン側からの妨害、中傷に遭う事も心得ている。


念のため言っておくがこれをクリアーしている1流ミュージシャンも多数いる。

クリアーしていない有名ミュージシャンもまた多数いる。

したがい、クリアーしていない者たちから見れば、この概念を伝える人間もまた「敵」となる。

彼等の「餌(えさ)」として飼われている、彼等の言いなりとなっていた「ひよこ」たちからの疑問に答えられない「猫」たちばかりだからである。


今の時代は、大人たちが営利を貪(むさぼ)るために子供たちに「芸能」を仕込み、これを「売って」いるいわば「
角兵衛獅子(かくべいじし)の時代」である。


(子供に芸を仕込みこれで稼いでいた親方たちが暗躍した。中にはさらわれた子供もいる。「私は悲しい越後獅子」とばかり唄う美空ひばりの子供時代の映画もある。世界中にある「サーカス伝説」である。今は、子供が進んで芸をしているのである。彼等は、そこで生きる事しか人生の価値を見出せない世界観しかないからである。)



このサイト自体が、何かしらの「利害」にかかわる事となれば、抹殺(まっさつ)されてしまう事であろう。


こうした事を考えて見ると、どこにも私を支持する「味方」は、存在しない事がわかる。


私を支持している、という事を表明しない方が「賢明」と言える。


これは「隠れ友(トモ)タン」と呼ばれ、いずれ、私のCDを踏んで見ろ、と自民党政権に検閲(けんえつ)されるであろう。

その時は、躊躇(ちゅうちょ)なく踏んで破壊してもよい。

なぜなら、本来のキリスト教同様、「信じた者は既に救われている」からである。

それは、内的な信仰心を意味し、けっして外的な忠誠心を求めないものであるからだ。


また、私にして見れば、再度注文してくれれば、それだけ商売も上々である。


あるいは、自身がこのサイトの読者である事をひた隠し、生涯の伴侶(はんりょ)を得る。

そして何年か経る。


ある日、夫が、私のサイトを発見し、「おい、見てみろよ、こんなバカな事を書いているサイトがあるぞ!阿呆めが、こんなもの掲載しやがって!とんでもねえ奴だ」と言ったとしよう。


その時は、躊躇(ちゅうちょ)なく、「ああ、ついに見てしまいましたか、しかもそんな発言まで、、、、」とお別れを告げ、空に飛び立って行く事もあろう。(「鶴(つる)の恩返し」、團伊玖磨作、日本オペラ「夕鶴」より)


しかし、私は、このサイトの断末魔の「叫び」の中に、辛(かろ)うじて許された「言論の自由」の真の「享受(きょうじゅ)」を見る。


私は、けっして他人に乗せられ調子に乗って書いているわけではない。


ああ、これを書いたら終りだな、とそのひとつひとつに「お別れ」を告げているのである。(しかし、これでもまだ100分の1しか書いていない。)


何時でも、ああ、これで終りだな、と思い続けて「創作活動」を続けて来た。


しかし、様々な、抵抗勢力が手を結び、さらに巨大な勢力となったとしても「未来」はある。


すべては、民衆の「認知」から始まる。


まず、事実の「認知」から始まるのだ。


こうした事が実在して君臨している、という提示と、それを「認知」してくれる「未来」が、ある。


ごく少数の者に托(たく)された「未来」がある。


インターネットの世界に、この事を「提示」し、「未来」を托(たく)している。


見返りは、何もない。


(これは、未来形ではない。現在完了形である。)


いつか、未来の私が、私を「見つける」。


彼は、さらに私を「進化」させる。


そこに太古の昔からの「口承(こうしょう)」を見る。


私には、エリック.ドルフィーが、理論オタク族が水戸黄門の印篭(いんろう)の如(ごと)く自分だけがいち早く理解した、と主張する、今から40年以上も前の理論、「リディアン.クロマティック.コンセプト」に従い自身の音楽を再現しているという話しに納得が行かない。


(彼等、理論オタク族は常に、その主張を変化させ都合のよい地位に自分を「君臨」させている。)


彼、エリックは、すべての「権威理論」を否定し、ただ1人、「自由」に演奏しただけではないか、と思うのである。


それは、まさしくエリックにとっての「言論の自由」であったのだ、と思う。


彼は、偉くもなく「インテリ」でもなく、ただ、そうせざる得なかったのだと思う。


生きている時は、大して面白くもないナイト(NIGHTS)を重ねていたのだと言う気がこの頃して来るのである。


まだ「若造」でしょ。


彼は、あの頃。


人が何かを極める年頃ってのがある。


天才たちの中には、まだ、ちゃんと生きてる者もいる。


大概、高齢まで生きた。


そんな歳じゃあ無理だよ。


何かの「理論」に従うなんて。


どう考えたって。


私は、弱い者たちに「知恵」を与えているだけなんだ、と思っている。


誰にも喰われないように。


彼等が、やがて自分の力で闘えるようになるまで。


そして私を封じ込めている「抵抗勢力」をいつの日か追い払ってくれるだろう。


各自が手分けして。


その時は、少し、休憩がしたい。


その時は、何十年ぶりかで、夏の夜風を感じながら、ちょっとばかり長めに寝てしまおうか。




”今は、黙してゆかん。

また、何を語るべき、、、”って。



(小林旭 唄「北帰行」より)



みんなが闘える力がつくまで、何年も待ってんだ。


人は、幸せにならなきゃ生きている意味はないんだぜ!。


これもリズム論なんだ。


わかるかなあ?、わかんねえだろうなあ。


以上、「抵抗ウィルス」の主な、特徴を述べておく。

後は、各自の中で培養させた「撃退ウィルス」で応戦されたし。





後記:




何年もNHKの深夜テレビ番組「映像散歩」を聴きながら過ごしている。
午前3時くらいから始まるかな。「神」が降りて来る時間だな。

みんなが寝静まった頃にね。とってもセンスがいいスタッフの仕業(しわざ)だな。

あそこで音楽と映像を選択できる仕事で食えたら、それで十分だなあ。

他にやる事もあるしね。

ぼくは、ちゃんと聴いている。


今はね。








2002年5月6日(日)午前4時50分


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3:リズム孝:序文 「2002年6月8日(土)」


「短気連載」としてスタートした「リズム」に関する話しなのだが、実は、あまり気乗りがしない。

なんだか一番日本人好みの恰好(かっこう)の話題ではないか、と思えるからである。

これは、まさしく、かつての「日本人と英語の発音にまつわるコンプレックス」に代表される話題にしかなりえないからだ。


日本人が外国語を「教養」ととらえてしまい、一種の「教養勝負」となってしまった現象に同じである。


要するに、「外国語ができる=頭がいい」と思い込んでしまった所に問題があるのだ。


リズムがよい=頭がいい」である。


外国語の成績の良さは、学校教育の一つとなってしまい、どうしてもその成績の優劣(ゆうれつ)で人間を判断してしまう人間を何十年も大量に輩出してしまったのだ。

語学ができる、できないに関して、「落ちこぼれ学生」にとっては、どうでもよい話しなのだが、実際にそのコンプレックスを持った者は、やっぱりまたまた「インテリ気取り族」なのだ。

頭がいい=存在価値のある、、と長年の教育でインプットされてしまった人種である。

だから、総じて「真面目(まじめ)」ではある。


この「真面目」が禍(わざわ)いしているのだ。

「こんなに真面目に努力して来た俺様がなぜマスターできないのだ!」という「怒り」である。


元々の「劣等生」は、外国人に道を教えただけで得意満面であり、生涯の目的は達成された、とする者だ。

あるいは、専門用語を駆使して何とか言いたい事を伝えただけの者だ。


ところが「似非(えせ)インテリ族」はそういうわけにはいかない。

発音も文法も「完璧(かんぺき)」でなくてはならない、としている。


では、その「完璧」と言う事は何か?という事を追求していくと、これは、国家がらみで、「
白人、中流、都会生まれ」の者をもって、これを「スタンダード.イングリッシュ(標準語)」とする、という、白人語学産業のビジネス戦略であった事が判明して来る。

英語を母国語としている国は、たくさんある。

フィリピン、ハワイ、マレーシア、等の「アジア」諸国のような、「白人でない」国もある。

かつて、「外国人と英語で喋(しゃべ)ろう」という企画で、英語教育を目的とした語学研修が日本の学習者に対して催(もよお)された。

しかし、実際に控(ひか)えていた「外人」は、すべてこうした「白人でない」英語を母国語同然としていた連中で構成されていた、という。

その研修へ応募した多くの日本人は激怒し、その参加を拒否し帰っていった、という。

この話しは、十代の頃、「外国語読本(河出書房新社)」の中の「イデオロギーとしての英会話」という本の一部掲載で読んだ。(著者「C.ダグラス.ラミス」)

あるアメリカ人の白人英語教師が、なぜ日本では、自分のようないいかげんな英語教師が、何年も真剣に英語を学び教えている日本人英語教師よりも人気があり、特別視されるのだろう、という疑問から発した一つの「手記」である。


今では、こうした告発文などからの反省により、「発音」は重視せず、よりコミュニケーションの能力の方に重点をおいた教育が説かれるようになった。

あれから大体、20年以上は経っている。

しかし、まだ当時の「インテリ」の生き残りで、そうした「現状」を把握(はあく)できない者は、「なんだ、あんな発音で!文法だって変じゃないか!」と、軽蔑(けいべつ)する者もいる。


あんな「発音」で喋るくらいなら、死んだ方がましだ、というわけだ。


銃口(じゅうこう)を突き付けられ、英語で「何しに来た!」といっているらしき事を問われても、その信念は相変わらずなのであろうか。


しかし、こうした状況は、長年の努力によって改善されて来た。

今では、様々な人種の英語を取り上げた番組もあろう。


だが、私が日頃、黙って観察している中では、「リズム論」は、まだそのレベルに至っていない、と思われる事が多々ある。

まず、長年、音楽を齧(かじ)って来た者は、「音楽理論」同様、大変な「自信」をそれぞれが持ってしまっているのだ。


そして誰もが、「リズムとはねえ、、」と何かしらの一家言(いっかげん)を長年の「独習」で身に付けてしまっているのだ。


もちろん「糞(くそ)」がたむろして言っているにすぎない。

(私は、本来「教師」ではない。)


ここには、何の、確固たる「基準」もないのだ。


「おまえは、ダメ」「あっ、おまえはいい」と言うような調子で、貧乏な教師稼業の者に指摘されたから、と一体、そこに何の説得力があろう。


世の中は今、「
彼は、お金を稼いでいる。ゆえに、彼の指摘に従うと言う事は、自分も金持ちになる」という論法の時代である。

そこには、普遍の「美学」も存在しない。

ただ、ただ、「彼のようなお金持ちになりたい」、という論理しか残っていない。

実際、「リズムが悪い」とする者でも、大金を手にしているのが現状だ。

それは、「音程が悪い」としても同じである。

しかし、何をもって「音程が悪い」とされるか、とつめよる事は可能である。

そこには、私なりの「明確」な、「快の原則」が存在しているからである。


「不快」なものは聴かない、読まない、つきあわない、相手にしない。


そこに何らかの「修行」がないものは、いともたやすくその心を踏みにじり、ポイと捨てる。


「俺は、努力して、こんな悪党になったのよ」、と言う者があれば、十分に耳を貸す。

そこには、必ず、何かしらの「教え」がある。


生きる事は、学ぶ事


「学(まな)ぶ」は、「真似(まね)ぶ」。


「真似ぶ」は、「工夫(くふう)」


「工夫」は、「発明」


「発明」は、「創造」


「創造」は、「破壊(はかい)」


「破壊」は、次なる「創造」


「創造」は、「工夫」


「工夫」は、「真似ぶ」


「真似ぶ」は「学ぶ」


学ぶことは、生きること


人生は、この繰り返し。


少しづつの「変化」を求めて。


この複雑な難題は、時折、こうして触れる事としよう。


私の、「超自我」が、やがてみんなの「無意識」となるまで。


これは、ひとつの「回想録」である。


もっともっと世の中に従順だったら、私のリズムももっともっと「教科書」になれたのに。


私にとっては、それだけの違いである。


今は、私流(わたくし.りゅう)に、「快」を追求している。


しかし、まあ、郷(ごう)に入(い)っては郷に従え、という事は、基本である。


ブードゥー教を説いているわけではないからである。

また、理性を失った者の「リズム」も嫌いである。

あるいは、理性を誇示したために「無個性」となった者の「リズム」も嫌である。


「音楽」は、その人のすべての「
思索の結実」の証明である。

私にとっては、生理的な「快」を感じる事は一切ない。


私が「快」として感じるものの一つは、「
潔(いさぎよ)い屈服(くっぷく)」と「さわやかな選択」の歴史からの報告である。

その痕跡(こんせき)さえも見当たらないものは、たんなる、「阿呆」が、世の中をちょっとばかし騒がせたい、という「野望」を抱いただけの「産物」でしかない。


そんなもの、今日食べた「朝ごはん」とともに見事に忘れて見せよう。


飯(めし)は、箸(はし)で食うもの、剣では食わぬ」と宮本武蔵は、言っていた。


武蔵は、とうとう「仕官(しかん)」できず、修行した「剣」では食えなかったから、やけくそで言っていたのである。


なんとも、複雑な心境である。


誰でも今日から「ジャズ.ミュージシャン」となれる土地には生まれてはいるが、、、。


今日、朝刊を開くと、「安定したベースを弾く男」と題して、40歳を過ぎてからナイト.クラブでジャズを始めた男のライブ宣伝文が並べ立てられていた。

これが、本物の武士なら、上機嫌で帰る所を、斬り付けてみてもよいのではないか。

この手の人間は、総じてスーパーマンである。

何でも、ちょいちょいとやれば、マスターした側の地位を手に入れる。

よくもまあ、こげな、かっこ悪い「大人」になったものよのう。

すべては世渡(よわた)りの出来(でき)不出来(ふでき)よのお。


ロックンロールの世界では、30歳を越えた「大人」の言う事は聞くな!って「格言」があるぜ。


DON'T TRUST OVER THIRTY!


つべこべ言わずに、弾いてみな!


私は、二十歳を越えた奴は、基本的に信用していない。


荒行(あらぎょう)なくして彼の未来が変わる事はないからである。


二十歳なら一日に5册くらいの本でも読めるだろ?


阿呆な「大人」の話し聞いているよりはずっといい。


ここまで読んだ者は、一応、20册くらいは読んだ事になる。


今日一日もよかったね。



2002年6月8日(土)

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4:大地のリズム 「2002年7月4日(木)」



さてリズムとは何だろう、という難題を抱えた中学2年の頃、そう言えば、家には古びたエレクトーンが捨てられていた、という事に気づいた。

エレクトーンには、「リズムボックス」が内蔵されていたからである。

意味不明のまま、私は、そこにある「8ビート」というボタンを押し、毎晩これを聴きながら「睡眠学習」をしてみよう、と試みた。

当時の「リズム.ボックス」から演奏される「リズム」を聴いた事があるだろうか。

これは、何とも悲しい場末のキャバレーの世界である。場末のクラブで一人演奏するギタリスト叉はピアノ弾きが、「おまえだけがオレの唯一のメンバーであり、オレを裏切らない信頼のおけるドラマーだ、なぜならおまえはギャラを要求しないから」と愛用している。

私は、毎晩、「ツツポン、ツツポン」というリズム.ボックスの音を聴きながら床に就いた。

「ツツポン!」である。

睡眠学習を試みた者は、誰でも経験があるだろう。

うるさくて眠れないのである。

これは音量が小さければ小さいほど「うるさく」感じるのだ。

案外、大きな音量ではさほど感じないのだが、小声であればあるほど、となりの部屋が気にかかるのだ。

おかげで寝不足の日々が続いた。

それに、何か、リズム感って、そんな事じゃあないかもしれない、とうすうす感じてはいたのだ。

リズムボックスは、基本的に、リズムのない民族が、無理矢理、機械音の繰り出す「一定」の世界を再現しようと合わせているにすぎない事がわかる。

これを勘違いして、クラシック教育の中から「1分間当て勝負」というのを取り入れ、ゲーム感覚で、誰が一番近いか、という事をよくミュージシャンは暇つぶしでやって遊ぶ。

時計を見ながら、「5秒前、4,3,2,1,スタート!」とキューを出し、後は、一人一人が、その1秒間のタイミングを利用して60を数える頃に「ハイ!」と合図をするのだ。

「ああ、惜しい、57秒だ」「何だ!1分13秒だぞ!」とか言って騒ぐのだ。ベ−シストとドラマーは、必死になってやっていたりする。でもまあ、総じて、よいベ−シストは、近い所で合図してたりする。

私なんかが参加すると、大体、実施中の者に、あれやこれやつまらない話題の話しで話しかけたりして妨害する。

どんな騒がしい場所でもリズム隊は、キープできなきゃいけない、とか何とか言ってこれを正当化するが、自分の番になると、「うるさい!オレは、騒がしい所では弾かないのだ!」と言ってごまかしたりする。

でもまあ、これは単なる「馴れ」であるが、プレーヤーとして優秀な者は、大概、しっかりした強さでもって指先でカウンターを叩いてはいる。

素人は、とにかく弱々しくつぶやいて何となく当てたりはしている。

本来は、腕立て伏せ60回で調査するゲームではないか、と思う。

しかし、いずれにせよこれは、「タイム感覚」というだけのもので、実際の「リズム感」とはあまり関係ない。

中学生のブラスバンドあたりでは、面白がって夢中になるゲームの一つとなっている。

その証拠に、どんな名盤のレコードであれ、正確なテンポをキープしているものはない。

近年の機械のクリック音に従って終始演奏しているものは、また別である。

チック.コリア(ジャズ.ピアノ)ですら曲中のテンポは、どんどん加速して行っている。

バーデン.パウエル(ボサノバ.ギター)となると、一体、何に合わせてそんなに元気よく弾いていたのかも不明である。


当然である。


興奮すると人間の心臓の鼓動も加速するからである。

これが「自然」な人間の行為である。


そんな中学2年生の頃、寝不足の日々が続くある日、本屋で
メキシコ、ミュンヘン、モントリオールと、連続日本代表のオリンピック、マラソンランナーとして参加した宇佐美彰朗氏(2時間10分37秒8:1970年当時、世界歴代3位・日本最高の「走れ、走れ」という本を見つけた。

読んでいくとそこに、「走るということは、大地のリズムを感じることだ」という一文があった。

私は、「これだ!」と思った。

しかしこの「大地のリズムを感じる」という境地はわからない。

もともと短距離型の私が長距離マラソンなんかには手を出さない。バレー部でもあった。背の低さを垂直飛び90センチ!という驚異的なジャンプ力で補っていたのだ。

現在は、17キロばかり体重も重くなったので、17センチくらいだろう。(全身、無駄な「筋肉」である事だけは付け加えておこう)


おそらく当時は、「リズム」という言葉がつけば何でもよかったのかもしれない。

体内リズム、健康的な生活リズム、リズム体操、バランスのよい食生活のリズム、などなど、、、。

私のアンテナはこの「リズム」というキーワードに常に敏感となった。

そうして出会ったのが、クラシックの指揮者の岩城宏之氏の「岩城宏之の音楽教室」という本である。今では絶版であろう。

一般大衆向けに出版されたおもしろ本のようなものである。

その本のある章にあったのである。

「ジャズのスウィングのリズムとは何か?」というようなタイトルである。

当時の私は、ロック少年でありジャズはまったく知らない。

岩城氏は、かつての往年のジャズ.ドラマー白木秀雄氏との交流に触れ、この一文を書き記した。(芸大の打楽器科の同級生だったと思う。もう30年も前の記憶だ。白木秀雄という人に関してはここでも語らない事にする。石原裕次郎「おいらはドラマー」である。)


岩城氏によれば、「スウィングとは文字通り”揺れる”である」としていた。

そこで岩城氏は、この「スウィング」を体感するために、紐(ひも)に重りをくくりつけ、これを指でつまみ、左右に揺らして見ればよい、と書いてあった。


中学2年生の私は、さっそく凧(たこ)を上げる際の「糸」と、測量などで使う鉄性の二つの円錐(えんすい)を合体させた釣りの「ルアー」のようなものを手に入れた。

なるべく長い紐がよい、としていたので、私は、椅子に立ち、この重りをつけた紐を、指先でつまみ左右に揺らした。

学校から帰るとすぐに、椅子に上り、この「スウィング感養成マシーン」をつまみ何度も何度も左右に揺らして見た。


私は、この「修行」にさらに独自のアイディアを追加し、紐をつまむ指は、私がギターを弾く際にピックを持つ事を想定して、人差指と親指のみにした。

まさにこの感じは、ピックを持って演奏するギターの世界でもあった。

1メートルばかり下にくくりつけられた紐は、左右に揺れている。

それをつまむ指先の支点は、固定し、動かさないように努めた。

そして、その行為のあまりの単純さに、これを克服するためにと、私は、そこに「瞑想(めいそう)」をも取り入れた。

当時、「自己コントロール」という暗示の世界を兄が凝っていたから、という事もある。

あの頃はまだ、現在のように「幸福、不幸」「金持ち、貧乏」「権威、山師」「成功、失敗」という立場の違いを表す図式が兄弟間でもさほどはっきりと見られなかった頃である。


共に何でも夢中になった。

ただ私は「音楽」を選んだ。


私は、この手製の「スウィング感養成マシーン」をつまみ、椅子に立ち、これをゆら〜り、ゆらゆらと揺らしてから静かに目を閉じ、瞑想に入った。


(くれぐれも椅子から落ちない事である!大変危険な修行である事がこの事からもわかるであろう。)


ついでに部屋の電気も消した。(私は「修行」というと何かと部屋を暗闇にする)


そんな日々が、かれこれ1年ほど続いた。


私の後継者が現れないのも今にして思えば納得が行く。


今日は台風なので久々に昔を振り返って見た。


修行を順を追って振り返っている。

修行とは、ブルース.リ−の言うDon't think! just feel! (頭じゃない、身体で覚えるのだ!)である。


続きは、また台風の日にでも。



還暦までには終るはずである。



この沖縄、いや、日本の地では「無価値で、ああはなりたかない人種」の一人となってはいるが、このサイトを通じ、すべての修行がいずれ明らかになる事であろう。


豚に真珠。

猫に小判。


英雄も従者の前ではただの人。

私も映画「グリーンマイル」の囚人同様、他人の未来が見える種族である。

見えないのは、自分の未来だけである。

言っておくが、私に見えない事は私以下の者には、当然見えるわけがない。


何でもかんでも「還暦」になれば自分でもようやくわかる。


あせる事はない。


だから今は言わない。


一応、気まぐれに続く。





2002年7月4日(木)


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5:機械のリズム「特別実践編」 2002.8/16


このサイトには、基本的に、あまり実践的な「音楽修行課題」というものがない。

大抵が「啓蒙(けいもう)的」な内容のみで成立している。

なぜか、と言えば、具体的な「課題」というものは、様々なアイディアが盛り込まれており、私は、これをトレーニング課題として「売り」、商売をしている「商売人」であるからだ。只(ただ)で教えるわけがない。

また、教える「理由」も見当たらない。

もともと、大して、人は、関心を示さないだろう、という事を取り上げ、指摘しているに過ぎない。

そうは言っても、自分の作品を購入してくれた人の質問には、丁寧(ていねい)に答えているつもりである。

全作品購入となれば、もう、これは、わりと親身になって、一つや二つばかりの「課題」を紹介している。紹介、と言っても実際、自分の教室で取り入れているものである。

世に数々の「課題」はあるが、それを誰しもがやっている、という事は、みんな似たような人間が生まれる、と言う事をも意味している。

だから取りたてて、その行きつく先の全結果が判明しているものを、今さら導入しても、その結末は、どこにでもいるミュージシャンの一丁上がりである。

もちろん、最低限の共通した「基礎」というものはある。

この修得だけで、還暦を迎える者もいる。

もし、それらを律儀(りちぎ)に、忠実に、何万時間とかけ練習して見たとて、そのゴールにあるのは、やっぱり、それらを真面目(まじめ)にやったんだろうなあ、と誰しもが納得する「模範(もはん)演奏家」しか生まれない。

模範演奏家は、常に、「模範演奏」をして暮せばよい。

しかし、そこに、何らかの「個性」を重視する教育は、やはり、その「修行」も独特なアイディアに満ちている。

これは、マンガ「巨人の星」での、星飛雄馬(ほし.ひゅうま)が、いかに思いもよらない修行により、数々の「大リーグ.ボール」を編み出して来たかということを振り返って見れば、なるほど、と容易(たやす)く理解できるだろう。(木に吊るした5円玉を、足場の不安定な船の上からボールを投げて当てる、、、など)

また、それを打つ側の修行も、独特なものになった。(対、大リーグボール2号のために、目隠しして鉄級を鉄バットで打つ花形満「みつる」。ふらふらになりながらバットを振り大リーグボール3号を打つ伴宙太(ばん.ちゅうた)。)


基本をマスターした者たちにとっては、その後は、いかに独創的なトレーニングを開発するか、に面白さがある。

しかし、ここで、そうした「独創的」なトレーニングを「商売人」の私が紹介するわけはない。

今や、私の音楽教育メソッドは、とんでもない世界に突入している。

毎年、ころころ、とその教育メソッドを改良している私にとっては当然の進化である。

あれもこれもマスターしなくてはいけない、と言っていた事が、これとこれ、、、といった指摘をするだけに年々変化し、次第に、これをやれば、あれとこれはやらなくてもいいだろう、と新たな課題を発明したりしている。

これは、どんな学問の分野にも言えるはずだ。

小学生が、中学生から算数を習うのと高校生から習うのとでは、その選んだ演習問題にも差が出て来るはずだ。

数学者なんかは、常に、これだけでよい!という問題を作成したりしている。


誰しもが、文句も言わず、真面目に重い石材を運んでいては、ベルトコンベアーは、発明されない。

発明は、必ず、「真面目ななまけもの」によってなされる。

みんなと同じように重い石材を運ぶのではあるが、一方で、何とか楽して短期間に早く済まされないものか、と日夜考えている者にしか発明は生まれない。(参照: 22:私が考えるこれからの沖縄1/30 15:番外アメリカ.テロ事件あれこれの考察日記より)

一流の演奏家にかかれば、いとも簡単に「常識」は、覆(くつがえ)される。

還暦を過ぎて、発見された?、日本人ピアニストのフジコ.ヘミング女史(クラシック.ピアノ)によれば、単なる指の体操でしかない「ハノン教本」など、無用の練習、という事になる。

だから、偉そうに、素人演奏家が、聞きかじりで「***の練習をした方がいいよ」なんて書いてある掲示板を、無料だからと、真に受けたりすると、後で、ひどい目に遭うだろう。

そんなものをやったから「そいつ」になったのだ。

音楽修行もまた、よいトレーナーに出会わないと、せっかくの人生も、あっと言う間に「還暦」となる。

どんなによい設備をそろえようと、格闘競技「K-1」の大会では、突如(とつじょ)、貧しい出のファイターが、優勝をさらったりしている。いくら朝から晩まで、よい設備の下、トレーニングできる環境を手に入れたとしても、クロアチアのミルコ.クロコップなんかは、警官業の合間に、トレーニングをしていたりする。

必要なものは、まず「才能」と「ハングリー精神」と「優秀な頭脳としてのトレーナー」である。

「才能」は、あっても、他が足りなければ開花しない。

もし、そのどれにも見放されている、という者があれば、この場合は、いくらかその「最上の設備」も助けとなるだろう。

その証拠に、アマチャアーの中には、あれやこれやの機材に溢れ、辛うじて、毎年、1センチ.メートルばかり進化している者も多々見られる。

毎年、1センチ.メートルも進化するだけで「ありがたい」と思わなくてはいけない。すべては、その、最高の「設備」のおかげである。

それがなければ、何十年経ても、何の進化も見られなかっただろう。

もちろん、「一流」ともなれば、毎年100メートルは「進化」しているのではあるが、、。彼等と比べて、へこむ性格もまた、進化しないアマチャアー特有の尊大さでもある。

音楽は、律儀に「暗記」して、真面目に「練習」すればいい、というものではない。

それは、料理人の世界も同様であろう。

いくら、色んなレシピを「暗記」して再現したつもりでいても、肝心の「味覚」が、どうしょうもなければ、そのできは、塩かげん一つで「無限」の差が出て来てしまうだろう。

もともと「味覚」もない者が、料理人を目指すから悪いのである。

「味覚」も「才能」の一つである。


そうした「味音痴」な種族にまで、「料理人」になる事を錯覚させ、それを煽(あお)る、料理学校の宣伝もその原因の一つではある。

世の中は、何でも「平等」に目指す権利はある、というわけだ。

しかし、まあ、当然、その才能のなさを様々なメソッドや「実践を試みる努力」や、最適な「設備」によって補(おぎな)い、ある程度の「進化」を見ることもできる。

最もひどい者は、その古ぼけたメソッドを実践してみる努力もなく、また才能もなく、ひたすら楽器の上達を夢見ている夢想家たちである。

その原因は、当然、それらを食い物にしている音楽産業側にもある。

これが、各種専門学校の類(たぐい)である。

当然、私の教室もその集合体の片隅(かたすみ)に位置しているわけである。

やれる事は、どうしたら彼等でも上達するのであろうか、という日々の実験とそこから次の実験を考え出す「思考」である。

しかし、せめて、、「努力」だけは、してもらわないと、どうしょうもない。

まだ、睡眠学習で、楽器が上達する、という科学教材機器も開発されていないから、何とかこれだけは、クリアーしていなくてはならない。

でも、ダメな者は、ダメであるが、、、。

何がダメって、その「努力」をしようと「努力」してもダメ、という種族である。

案外に、、この種族は、多い。

なぜか、と言えば、「音楽」が嫌いなのに、音楽で有名になりたい、という事だけは、業者の「広告」に踊らされて「夢見て」しまったからだ。

運動する事は嫌いだが、サッカー選手にはなりたい、という者たちだ。

あるいは、映画は見ないが役者にはあこがれている、という者だ。

ゆえに、数少ないデータの中から唯一記憶している者を真似る事になる。

それが、松田優作モドキになったとしたら、人は、観るか?。お笑いに進むなら納得は行く。

音楽も同様である。

こうした連中は、「音楽」も基本的には、好きではないから大して何も聴いていない。好きだ、と錯覚しているだけである。洗脳が行き届いている。

ただ楽器を弾いて、活躍する自分を夢見ている。

他のミュージシャンの名は、せいぜい数名知っている程度である。

つまり、その「脳」に「音楽」の蓄積(ちくせき)が圧倒的に足りないのだ。

「替え歌」と「新作」の違いも判別できない。



さて、そんな前置きは例によって「置いといて」、今回は、ちょっと「課題」を紹介しよう。

大サービスであるが、これは、プロの間では、「常識」となっているリズム.トレーニングであり、また、何の効果も人によっては生まなかったものでもある。

これは、別に私が考え出したトレーニングでもなく、大昔からあるトレーニングで、10代の頃、ロック少年だった頃に、ロック雑誌のセミナーにもあったほどの古典的メソッドである。

先に、これは人により何の効果も見なかった、と言ったが、実際そうであるから仕方ない。


そうした種族のために、先に述べておくが、これから紹介するトレーニングは、メトロノームを利用した、御承知の「裏取り」の事である。

ああ、それなら、何度かやらされた事がある、と、そこのあなたが既に知っているトレーニングの事である。

効果があろうがなかろうが、一応、これくらいは、できなくてはいけない「常識」の一つである。


まず、電子メトロノームを用意する。ぜんまい式は、あまり酷使(こくし)して働かせ続けると、次第に疲労が来て、テンポも落ちて来るからよくない。また、いちいち、平面を見つけて設置するのもめんどくさい。はっきりとしたクリック音も出ない。

私のものは、ポッケット.サイズで、定価で2,000円もしない。(SEIKO DM-20、DEGITAL METRONOME)

これがすべての「設備」である。



1:まず、この電子メトロノームの「beat(拍子)」という所を、0拍子か1拍子にする。この違いは、単なる音の大きさである。

(要するに、音と音の間に「区切り」をつけない、という事だ。2拍子、3拍子、4拍子、となると、第1拍目にアクセントがついてしまい、ひときわ音が高く鳴っているはずだ。そういう状態を回避している。音と音は常に同じ大きさの音量に保つために、0拍子か1拍子にしている。)


2:テンポは、最初は、「50」〜「60」あたりから始めて、クリアーするにしたがい段々と上げて行けばよい。(120くらいは「普通」である。)

(ちなみに、テンポ表示としては、奇数は、公式としては存在しない。練習する事はあってもだ。つまり「50」はあるが、「51」はない。「54」はあるが「55」はない。「72」はあるが、「73」はない、という事だ。偶数が基本である。単なる「慣習」である。)


3:以上、電子メトロノームのテンポを「50」〜「60」に設定し(これ以下は、遅すぎて、よけいにむつかしくなるのでやらなくてもよい。上級者向けの領域である。)、「beat=拍子」を0拍子か1拍子に設定し、これを鳴らしたとする。


4:次にこの音と音の間に、足のステップを割込ませるのである。

ステップの踏み方は、2通りあるようである。

a:足の踵(かかと)を床につけ、つま先を上下する場合

b:つま先を床につけ、踵を上下させる場合


一般的なものは「a」であるから、まず「a」でやって見ればよい。最終的には、どちらでもできるはずである。これは、リズムの「取り方」の問題であるから「脳」の領域であり、足の運動能力の問題ではない。運動能力を自慢したいのなら「a」と「b」を交互にやって見せればよいが、こんな事を問題にしているトレーニングではない。

右足か左足かは、どちらでもよい。途中で疲れたらスイッチして変えてもよい。ただし、左足は、右脳に関係している、と言っているので、左足からが簡単かも知れない。右足は、理屈っぽい「左脳」の介入で、いちいち文句をつけ、スムーズに事が運ぶのをいく分じゃまするかもしれない。音楽は、「右脳」を中心とした産物である。しかし、最終的には、どちらの足でも可能になるのが望ましいから、やっぱりどっちでもよい。


5:こうして、音と音の間に、足のステップを入れた、とする。「a」の場合で説明しよう。つま先を床に付けた時が、音と音の「間」になっていて、つま先を上げた時が、電子メトロノームの「音」が鳴っている時である。(右利きのドラマーなら右足でバス.ドラムを踏む事である)

普通は、これが逆である。メトロノームの音が鳴っている時に、つま先が床を踏んでいて、鳴っていない時は、上げている。

これは、このまったくの「逆」である。

注意してほしいのは、「つま先を上げる」という行為もちゃんと一つの意識された「動き」として行なってほしい、という事だ。

つまり、この一連の動作は、二つの動きの連動である。「踏む」「上げる」である。踵(かかと)は、床に「支点」として付いたままである。

よくいるのが「踏む」という行為だけで、「上げる」は、その惰性(だせい)で、単なる次の「踏む」という行為の事前の動作、としか考えていないだけの者だ。「踏む」「踏む」「踏む」で、その直前に少しだけつま先が「上がって」いるだけになっている。これが、日本人特有の「意識」である。必ず、つま先を「上げる」という動作も「意識」する事である。


6:さて、こうして、メトロノームの合間に、足を踏み(=ステップ)、音が鳴っている時に足を「上げる」、という状態になった。

今度は、ここに口で、つま先を「踏む」と同時に、「1=いち(叉は)ワン」と声に出して言う。つま先を「上げる」と同時に、「2=に〜(叉は)トゥー」と音に合わせて声に出す。この次の音の間に足を「踏む」と同時に「3=さん(叉は)スリー」と言い、メトロノームの「音」に合わせて、つま先を「上げる」と同時に「4=し〜(叉は)フォー」と言う。

全体として、1拍目と3拍目の際につま先が「踏み」になっていて、メトロノームの音と音の間になる。2拍目と4拍目が「上げる」になり、メトロノームの音と同時である。

この状態で、「1,2,3,4」を延々と繰り返して行く。


(実際は、「カウント出し」をする要領で、まず大きめに、2分音符のつもりでワ〜ン(踏む)、トゥ〜(踏む)、と言い、次に4分音符で、ワン(踏む)、トゥ(上げる)、スリ−(踏む)、フォー(上げる)、を繰り返して言ったりする。足の動きは、変わらない。つま先を上げている時は、常に、メトロノームが鳴っている。鳴っていない間は、足を「踏んで」いる。これは、2分音符に合わせている。曲を始める際の「カウント出し」の号令を聞いた事はないか?「ワ〜ン、トゥ〜、ワン、トゥ、スリ−、フォー」、である。これは、2小節分の長さの単位をくり返している事になる。)


このメトロノームの活用のしかたは、要するに、ドラマーが、8ビートの基本パターンを叩く際のスネア.ドラムの「合(あい)の手」に