友寄隆哉

ジャズはなぜ死んだか? ジャズから見る文化論

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         20:闘うのだ!(2002.1/17)



サイトを始めて1年になる。


どうしても避けられない事が、読者の日常に起こる。


生徒にも起こる。


できるなら、この事は、サイトでは述べないようにして来た。


しかし、これは、どんな世界でも「目覚めた人」には、起こりうる事である。


それは、自分を取り巻く「環境」は、このサイトで言っている事と正反対の人間ばかりに囲まれています。


、、という報告である。


私は、最初から、ここで述べている事は、「行動の人」にしか生涯理解できないだろう、と思っていた。


なぜなら、私が、見た事も聞いた事もない人たちの話しを延々と述べている、と思っている者ばかりであったからだ。


ここで述べている事を了解できる人間は、様々な体験を経た者でしかないからである。


しかし、そうした経験はなくとも、実際に、自分がそうした「未来ある」行動に出ようと動き始めた時、彼等は、ようやく「現実」を知る。



自分のまわりは、ここで取り上げられた人物で取り囲まれていた、という「現実」だ。


私が紹介した「リズム論」に興味を抱き、実際に自身のアマチュア−.バンドのメンバーに紹介した者は、まず、一笑され、無視される。


それが、若者バンドであっても変わらない。


年寄りバンドは、どうでもよい。


老後の「愉しみ」として音楽を演奏しているわけだからとやかく言われる必要もなし。



これは、どんな趣味の世界も同じである。


しかし、若者バンドですら、他のメンバーがいかに、本気でなかったか、という「現実」を知る。


30年以上経ても、成毛氏の当時と同じ体験をする。


これが、せっかく「燃えた」者にまずショックを与える。


彼等は、今までの自分をとりまく世界に失望する。



私が、あから様に批判する事を避けた「音楽教師」たちがいる。


私が、何気なくピアノで押さえたジャズ.コードを、「あ〜、やめて!耳が悪くなる!」と絶叫した、音大出身を誇る声楽家の女教師もいる。


大して魅力もない声をいくらトレーニングしたとて、誰も好んで聴く者はいないのが現実である。


その「あたりまえ」の現実に、彼、彼女等は、教育を受けていない、として一般の「歌い手」を蔑(さげす)んで生きる。



彼、彼女等よりは、ずっと魅力的な「声」を持っているにもかかわらず。


別にひどい音程、というわけでもない。


ひどい音程でひどい歌を唄っている者はいる。


しかし、彼、彼女等には、すべてが同列である。



オペラを否定した坂本龍一氏を批判しなければ、その存続も危ないから、彼は、生涯の「天敵」である。


したがい、毎年、恒例の「敵は坂本洗脳教育」がオペラ界で始る。


彼は、最悪である、という教育である。


正装もしないでオペラを見に来る者がいるんですよ、と急激なダイエット戦略で、「変身」したつもりの女流作家もいる。



どれもこれもが、私達は、最高のクラシック教育を受けた「エリート」です、と自信満々である。


なぜなら、今だ、次々と、「音楽大学幻想」を抱き現れる「生徒」も毎年自動的に誕生するから生活も安泰だ。



これは、国家が認めた「
白人音楽至上主義教育」であるからだ。


彼等は、また次の世代の「洗脳教育」を担当する「地位」を得る。


私もあなたも今日から「上流社会に生きる人間よ、けっして黄色人種の仲間なんかじゃないからね」と言う「教育」である。


ここにも、この事をもって「権威」である彼等を敬(うやま)いなさい、と言うできそこないの「儒学」の教えがかれこれ400年近く、はびこっている。


これは、時の権力者たちによって、反乱防止の策として導入された。


おかげで、江戸時代は、何百年も安泰した。


国家権力が認めた機関を出た者は、りっぱな人間であるから、彼等を敬いなさい、である。


ついでにキリスト教にも入信するともっと完璧ね、である。


問題は、キリスト教のせいではない。


それを「利用」する側の問題だ。


どこでも宗教の違いは、紛争のための大義名分として「利用」されるだけである。



こうして、自分を取り巻くすべてが、「偽物たち」に囲まれていた事をようやく知る、事となる。

しかし、これは、まわりが悪いわけではない。




昨日までの己(おのれ)自身が「偽物(にせもの)」であった証明である。


類が友を呼んだだけである。


偽物に進化はない。

飲み屋で知り合い意気投合した者を集め、禁酒を提案するようなものである。



しかし、世の中には、未熟な自己より、その能力のすべてに長(た)けた人間は、星の数ほど存在する。



一般の人間が、生涯をかけても彼等を越える事はないであろう、という者は星の数ほど存在する。



その中からりっぱな「師」を探すのは至難の技である。



技は、すぐれているが、人格の劣る者。

人格は、りっぱだが、技が伴わない者。



様々な、「師」が、各地に蟻地獄のように看板を掲げ、手ぐすねをひいて待っている。


その「全貌(ぜんぼう)」は、生涯、あなたくらいの修行では見えない。

彼等を「技」において越える事は、生涯ないからである。



ひよこは、殻(から)を破り、初めてこの世に誕生した瞬間に目の前に現れた生き物を「親」だと思うようになるという。


例えそれが猫であってもひよこは、その後をついて回るのだという。


しかし、やがて、ひよこは、親であるはずの「猫」の餌となってしまうのである。


この事は、弱者から見れば、例え、どんな「親」でも、自分の事を思っていてくれる愛情深き人である、と錯覚するのである。


親に暴力を振われ育った娘は、その不安定な、自我を持つ者がいる所こそが、自分の帰るべき「家」だと感じるのである。


毎日が、不安定でなければ、生きている実感がもてないのである。


したがい、娘は、自我が安定し、時折、暴力でも振ってみせる事もしない男には、何の魅力も感じなくなる。


平穏な日常が、もの足りない、のである。


娘は、こうして、常に、気むづかしい、自我の不安定な、暴力男に惚れるのである。


男子はまた、夜遊び好きな真っ赤な口紅を塗りたくった、愛情を差して示さなかった母に似た「女」を求めるのである。



その理由が、真っ赤な口紅にある、という事は、生涯気づく事もなく。



傲慢(ごうまん)な人間に先の「ひよこ」のような感情を抱き、ひたすら、彼、彼女等から嫌われたくない、と振舞って来た人間にとっては、もはや、幸福へ至る教えのすべては「拒否反応」の対象である。


何を拒否して、何を受け入れればよいのか、の判断もつかないまま、拒否の念がまず先に発生する。



自身もまた、他人へと傲慢な要求を重ねて行く。


その不当な要求を、社会は当然、無視していく。


こうして、自己を拒否された経験を重ねた後、彼、彼女等は、何が正当な主張であり、何が不当な要求であるのかがますますわからなくなっていく。


そのまま孤独感は助長される。


オレ、私の言う事は、誰も聞いてくれない、というのである。


終りのない「悲劇」が繰り返される。



彼、彼女等は、「師」を求めて書を読みあさった事もなく、旅した事もない。



ただ、近場(ちかば)の「猫」を「師」と崇(あが)め、いつかその餌食(えじき)となるひよこの類(たぐい)である。


人間を視る眼が、偏(かたよ)っているからその「鑑定眼」は、狂いっぱなしである。


差別意識の強い親を尊敬し、また差別意識の強い子供が誕生する。


闘った歴史も提示する事なく、自己を最上と崇(あが)めよ、と密室の教育が日夜、各地で展開されている。


偉大な彼、彼女等を判断する術(すべ)もない。



私は、300人という生徒数を誇る、ピアノ教師の「巨匠」を知っている。


生徒の大半は、ピアノを弾いてみたい主婦連合である。


彼は、たびたび、自己の「コンサート」を開いた。


客は、300人の生徒であるから「ライブ」なんかやっている場合ではない。


それは、「音楽による世界の旅」と称したコンサートである。


ただ、エレクトーンの様々なリズムに乗せて人気のある映画音楽などを弾くだけである。


ジャズ屋なら死ぬほど退屈な「一本指芸」である。


これほど、気楽にできるコンサートもない。


よほどの事でもないかぎりミスする事もない。


300人は、うっとりとその演奏を聴いている。

大儲けである。


その中の何人かが私のライブに来た事がある。

繰り返される即興演奏の数々に辟易(へきえき)となり、席を立つ。

巨匠とは比較にならない演奏である、というのがその理由である。


私は、いつでもこれくらいの巨匠のようには、演奏できる。

しかし、あまりにも恥ずかしいからやらないだけである。

なぜなら、それは、バンドマンなら誰でも日々やっているBGM業の類(たぐい)である。


それを「ライブ」だとか「コンサート」だと言うのは恥ずかしいからである。


300人の主婦の生徒を持った巨匠の教室は、ジャズ、ポピュラーが看板である。


次第に、巨匠は、自ら指導する事がなくなった。


海外旅行に明け暮れたからである。


現在、この組織は、崩壊した。


300人の主婦が自分でピアノ教室を始めたからである。


その程度の技量でよい、と教えてくれたのはほかならぬ巨匠自身であったからである。


巨匠は激怒した。


私は、門外不出とされている「テキスト」というものを見た。


それは、巨匠が、ただあらゆる曲集から抜粋し、コピーしたシートミュージックの譜面である。


市販のメロディとコードだけが記載された程度の譜面である。


何が、血と汗の結晶か、とパラパラめくって見ると、時折、手書きにより、簡単なキーへ「移調」された譜面があった。


何と、300人の生徒にとっては、「移調」は、高度な知識による作業であるとされ、なかなか、手頃なキーで書かれた有名な曲が入手困難であったのである。


有名な曲がハ長調で書かれた譜面は、大変貴重な「テキスト」であったというわけだ。

そうしてその中から、ねずみ構式に「先生様」が大量生産されていったのである。


自業自得な哀れな結末である。


おそらく中国ででも教室を開けば、このような現象が起こる事であろう。


まあ、長年、儲けて来たから晩年にそのツケを支払わされても仕方のない事である。



国家が決めた「権威」を崇拝せよ。



これを打破するために中国の毛沢東(もう.たくとう)は、「造反有理(ぞうはんゆうり)」を打ち出した。


簡単に言えば、尊敬に値(あた)いしない人間は、例え年長者であっても、権威であっても尊敬しなくてよい、とする思想である。



これが、今、各地で起こっている下克上(げこくじょう)から来る「反乱」の根本を成す思想である。


しかし、ここにまた、問題が発生する。



何を以(もっ)て尊敬に値いしないとするのか、と言うその論拠である。



若者の反抗の多くは、その「論拠」が「普遍」ではない。


単なる「未成熟」な認識能力による判断である。



例証として、青年将校らによる反乱、「二、二六事件」は、どうか。



したがい、反乱、反抗の前には、十分な論拠とその立証が不可欠である。


あいつ気に入らない、では、お話しにならない。


私のサイトには、その多くの論拠となるべき話題が提供されている。


こうした人物をどう思うか、という問いである。


本当に、すばらしい「教師」とは、どんな道へ生徒を導こうとしているのか、と明確に提示している。


あるいは、どんな態度の生徒が、正しい教えと出会うか、という問題提起をしてくれる。


この教師は「差別意識」を延々と伝承して行くだけなのだろうか。


この生徒は、生涯、変わる事のないままその人生を終えるのであろうか、という問題提起である。




時折、私も、もう少し、言動を控えてはどうか、と忠告を受ける事がある。


私の住む世界では、これはまだまだ大した指摘ではない。


政治、学問の世界は、もっと生々しい議論が展開されている。


今日のバブルの原因を作ったあの男は、アメリカであれば死刑にあたいする、と名指しで一人の男を指摘する本も一冊二冊ではない。



そうしたものに比較すれば、私の言動なんか取るに足らない「よもやま話」の類(たぐい)である。



今回、どうしても一言、言っておかなくてはいけない、とこの話題を取り上げた。


いちいち、一人一人の報告に答えるのも大変である。



もしも、自分のまわりが、このサイトの読者でもなく、どう考えてもその逆である、読んでも何者でもない自己からの偉そうな完全否定である、という、何ら障害しか生み出さない連中であった場合は、どうすべきか、という事である。


しかし、彼、彼女等を生涯、「技量」で越える事はない、という場合である。


要するに、禄(ろく)でもない「教師」や「先輩」を崇めなくてはいけない、という環境に身を置く者たちの事である。


彼等の言う事にしたがっていれば彼等になる、という現状である。


その「お山の大将」的地位にしがみつき、何でもかんでもわけのわからない指導をするのである。


レッド.ガーランドは、ピアニストとしては、最低のランクに位置する誰でも簡単に真似できるジャズ.ピアニストである、といった評を何も知らない未熟な生徒の前で披露したりする「教師連合」もいる。


そんなピアニストをマイルスが抜擢(ばってき)するわけがない。


クラシック.ピアノとセロニアス.モンクのスタイルを比較した場合の教育上の「合意」はあるのか、という問題もある。


彼、彼女等の教師連合にかかれば、モンクは、レッド.ガーランド同様、世の中に存在しなくてよいピアニストとなる。


グレン.グールド(クラシック.ピアノ)だけがピアニストではあるまい。


また、グレン.グールドが言わんとした音楽の精神は理解しているのであるか。


リズムの「ノリ」と言う問題がそう簡単に克服される事はない。


なぜなら、ジャズの一流とされる日本のピアニストであっても「ハネている」者が多数いるからである。


ましてや、クラシック.ピアノをやれば、ジャズなんか簡単に弾ける、と音大出身者の間でささやかれ続けている「常識」は、一体、何時、破壊されるのか。


彼、彼女等が、ジャズと格闘し、「発狂」した事は、ひたすら隠し続ける。


今だに根強く残る、白人至上主義としてのクラシック派と、黒人音楽に端を発するジャズとの対立である。


末端ほど著しい差別主義者である。


問題は、こうした者たちに囲まれた時、どうすればよいのだろうか、という事であろう。


私は、この事に関して、別段、何も思っていない。


自分の耳を鍛え、日々愛する音楽を増やし続け、自分で「本物」を見つける力を養えばよい、だけである。


何もかも最高の条件下で「修行」が行える、という環境は中々作れるものではない。


考え方も全く違う人種の中に生きなくてはいけないのが普通である。


私が、ここに提示して来た内容は、あまりにも傲慢(ごうまん)に嘘八百を説く者が多いから、こうした基準で彼、彼女等を「鑑定」して見たらよい、と言っているだけである。


彼、彼女等は、なぜ、こうもあからさまに否定するのだろうか、とまわりを観察して見ればよい。


偽物のあなたにふさわしい、偽物のつきあいがそこにある。


あなたが「目覚めた」時、彼等の未来があなたにも確実に予感できるはずである。


それでも、いくら言っても彼、彼女等は変わらない。


何を偉そうに、と拒否反応を示される不快な体験ばかりである。


だから、あなたは、彼、彼女等に何か言う必要はどこにもない。


彼、彼女等が、あなたの成立に興味を持ち、尋ねて来るまで、あなたは、ただ一人、自分の修行を続けておけばよいだけの話しである。


あなたは、まだ、彼、彼女等がその成立に興味を持つほどの「人間」ではない、という事である。


あなたは、彼、彼女等にとって、まだ、洗脳すべき対象でしかない、のである。


それは、あなたがまだ未熟であるからである。


自分を鍛える事もなく、強さを求めてさまよう一羽の「ひよこ」でしかないからである。


だから、様々な「猫」の出現にあなたは、翻弄(ほんろう)されるのである。


猫たちは、いずれ、あなたを食ってしまうために生かしているだけである。


世の中は、考え方の相違くらいでまわりを拒否していては、どこに行っても暮らせない。


このサイトにある事は、他人を判断するためのものではない。


自分を知り、成長させるためにあるのである。


ちっぽけな世界の住人としては、通用して来た者の意見などいちいち聴く耳をもたない。


私は、私自身を自分で「鑑定」する。


私が、愛し、私を日々守って来たミュージシャンの音楽のために私は、熱弁を振う。


よく、私の所に「あいつが、こんな事を言っていた、あいつも、、、」と密告する者がいた。


彼は、自分では、一切、闘う事をせず、必ず私につげ口し、私を彼の代わりに、気に入らない連中と戦わせようと日々策を練っていた。


彼は、なぜ、自分自身では闘わないのだろう。


彼には、多くの仲間がいる。


しかし、彼は、そうした仲間のかげ口をたたきながらも、仲間である、という顔を平然と装い、気に入らない連中は、私に密告し、代弁してもらうのである。


かくして、私は、まったく会った事もない人間たちの「敵」となるのである。


私は、こうしてサイトでいろいろ書いているが、実際の普段の私は、他人の事をあまり考えて暮してはいない。


毎日、別の事を考えて暮している。


でなければ、創作活動なんてできるものではない。


ただ、その場、その場で、それぞれの問題を真剣に考えているだけである。


ひどい環境にいるなあ、と時折、哀れに思う者たちがいる。


この中から「本物」は育たない、という事を長年の「歴史」が証明している。


彼、彼女等には、典型的なパターンが存在しているのである。


上手くなる者は、様々な環境からも生まれるが、潰(つぶ)れて行く者には、必ずある一定の「嗜好(しこう)」と、それを取り巻く「環境」がある。


本物と偽物を比較すれば、世の中は、圧倒的に「偽物」の数で溢(あふ)れている。


医者でもそうではないか。


なら「教師」も同じである。


医者の場合は、一生完治せぬまま、下手すれば死んでしまったりする。


医者も人間です、と医大生の間で出回っている「常識」を激怒する同胞もいない。


例え、そうであっても宣言すべき事ではない。



教師は、どうか?


教師なら、自分より優れた部分を吸収すれば事足りる。


その「技」だけ学べば十分である、とする教師は多々いる。


しかし、それには、自分も様々なメソッドを知らなくてはいけない。


こうしたメソッドの先にあるものは何か、と知っておかねばならない。


このメソッドの目的は何か、と常にそのゴールとなる先に何があるかを了解しておかねばならない。

現代において医者を選択する際の最低の自己防衛手段がここにも存在するのである。



したがい、修行にも、明確な「目的」が必要である。


そこで何を身につけたいがために師事しているか、と言う事だ。


技量を身につけるためであるのか。


譜面を読めるようにするためであるのか。


リズム感を身につけるためであるのか。


その環境から「何」を学ぶためであるのか、と言う事を明確にする事である。


人により、一切の修行にもならない「環境」に身を置く者もいる。


個人練習の日々がない、意味不明の、ジャムセッション大会参加者の類(たぐい)である。


しかし、これにも目的を見つける事ができる。


家にいると「さみしい」からお友達を作りたい、という目的である。


であれば、何も、毎日練習しなくても参加する事に意義がある。


どんな場であっても、例え、考え方の違いがどうであろうと、自分自身の修行は追求できる。


考え方が合わない、というだけで技量の修得を拒否する事は、まったく意味不明な行為である。


明確な「目的」さえしっかりしていれば、どんな人間たちの中にいようと自己の修行は遂行(すいこう)できるのである。


これは極めて部分的であり、実利的な、人間とのかかわり方であるが仕方ない。


そう簡単に近所に有能な「師」がいるわけではない。


昔の剣豪も「師」を求めて何千里も旅をしたのである。



様々な異質の世界の中で、信念を持って物事を学んで行く事である。


例え、まわりと考え方が違っていたとしても、そこには目的とする「技」の修行が存在するはずである。


学ぶためのベストな環境はどこにもない。


「技」と言う「宝物」を手に入れるために、様々な障害を乗りこえて「目的」へ到達するのである。


ただし、「目的」が明確でない者には、様々な試練は克服(こくふく)できない。



何のために、こういう修行をしているのか、という事をできるだけ具体的に認識する事である。


目的のために、黙して修行するのだ。


そこに何の価値も見い出せないとしたら、その時が「去る」時である。


そこで「快」を得るまでは、じっと耐え、がんばってみる事である。


そこでしか修行できないなら、そういう風に物事を考えて見る事である。


暗い、地下室の一室で、神経症の、飲んだくれのバンマスの信頼を得るまでは、と修行した者もいる。


もちろん、そこしでしか修行ができないなら、、である。


彼等は結局は、大して上達しなかったが、、、。


物事は意外に、「敵地」の中で緊張して学ぶ方が、「一日も早くここから抜け出たい」という願望が強くなり、身につくのも早いものである。


その方がヘマをしても赦してもらえそうにないからである。


そうした中でまず自分を作り上げて見る事だ。



そうした環境しかないなら、である。


自分の信念は本物であるか、という事を「敵地」の中で試して行くのである。


そうしてひとつの場所で「快」となるまで、がんばれば、次のステップが現れる。



本物の教師は、あれをやってはいけない、これはダメだ、という言い方はしない。



その「目的」はなんなのだ、とまず尋ねる。



友達がほしいからです!


うん、なら、それで、たくさんお友達ができるだろう。


有名になりたいんです!



うん、それなら、別に、できそこないの音楽をやる必要はないのではないか?


何か、かっぱらって捕まってしまえばよいではないか。


翌日には、新聞もテレビも大騒ぎである。



舞台度胸をつけるためです!


うん、それなら、話し方教室にでも通うとよい。



などなど、目的に応じて様々なベストな修行がある。

ベストな修行があるのにそれができない、という事は、その目的が「偽物(にせもの)」なのである。



もっとライブをしてセッションに出て見たい!。



ああ、なら、その前に音階くらいはまともに吹けた方がよい。


何のために、バンドを組んでいるのか?



上手くなるためです!。



嘘だ、そんなバンドをやってて上手くなるわけがない。



何でもよいからバンドを組んでライブをして、有名になりたいんです!



ああ、それなら、よくわかる。



こんな下手なぼくらでも好きになって下さいライブ」だな?



しかし、それにしては、ボーカルの女性がかわいくないのはなぜか?



それでは、目的は達せないぞ!



いずれにせよ、目指した目的を達成するために、ちゃんと、修行しているか、という事を考える事である。



楽器が上達したい、といいながら、意味不明な行動を何年にもわたって取る者は多い。


私は、彼等が還暦になる前にその事を教えて上げたい。


人生は、一度切りである。



そんな事をしていたら、こうなってしまう、と言える自信は、多くの人間を見て来たからである。



小学6年生より楽器を始めて、あれから30年は経ってしまったのだ。


だから30年分の例証には事欠かない。



私の回りに私と同じ考え方をする者など一人もいなかった。


彼等は、自己に今、何が足りないか、という自問がなかった。


ただ、まわりの意見に振り回され、日々、考え方を変えた。


自分の信念などどこにもなかった。


私の信念は、私が一人で考えたものではない。


様々な
尊敬するミュージシャンの言葉を真摯(しんし)に受け止め、その一つ一つを実践して行っただけである。


なるほど、上手い人は、こんなものの考え方をするものなのか、自分もこれからは、こんな風に考えるようにしよう、と日々、ちっぽけな自分から生まれる考えなど破壊した。


自己というものを一つ一つ破壊し、再構築させて行くのである。


その作業は、何度も何度も繰り返し行なわれる。


構築しては壊し、また新たな構築を始めるのである。


素晴らしい考えに出会えば必ず、その人の真似をした。


音を真似るのではない。


生き方そのものを真似るのである。


そうした日々から、本物の共感が生まれるのである。


今回のテーマは、少し異質である。


サイトそのものの大前提に触れる事であるからだ。


一番最初、サイトで述べたように、このサイトを読まない「権威者」は、やがて、民衆からの「造反有理」に合うであろうと予測した。


バカにして無視していた「権威」たちが悪いのである。


本当にその音楽を愛したリスナーの側が、自信を持って「これが、私が好きになったもの!」と叫び出す時が来るだろう。


狭い音楽観から物を言う「ミュージシャンもどき連合」に臆する事もない、自由な精神を持ったリスナーが生まれていくだろう。


それぞれが、自分の言葉で好きなものを語ればよいのである。


好きなもの、とは、共に、そばになくてはいけないものの事である。


いつでも自分のそばにいて、もう一度、別世界の旅へと導いてくれるものの事である。


それは、また音楽に限らない。


映画も同じである。


私は、よく、昔の映画を一晩中流して過ごす事がある。


ジム.ジャームッシュ「ストレンジャー.ザン.パラダイス」の頃もあり、
小津安二郎「晩春」だったり、と様々である。


それが毎晩、毎晩であったりした。



何日も続いたりする。



だからこうした様々な映画に関しては、私は、私だけの愛着がある。


私には、これだけで十分である。


私が、好きなのだからしょうがない。


誰からもその事で何も言われる筋合いはない。


毎晩、毎晩、そうした映画の住人となった私がいるだけである。


音楽も同様である。


それは、たぶん、日々の修行に耐えている私の唯一の無意識に取る安らぎなのである。


私は、その時、ようやく、「味方」に囲まれるのである。


こうしたものに接する事を「修行」とは言わない。



私は、私を温かく迎えてくれる、様々な味方に囲まれて暮している。


だから、私は、「敵地」へ乗り込み、一人闘えるのだ。


このサイトは、そうした私の長い闘いの記録である。



闘いの目的は、様々な「敵」を一人一人「味方」にする事である。


それが、人が人生を生きていく「意味」にもあたる。


そのためには、まずそこで「愛される」事である。



相手から好意をもたれない者の主張は誰も聞いてはくれない。



名乗るのは、それからでも遅くはない。


それで態度が一変する世界なら、そこから「卒業」である。


もう、そこには、学ぶ事は一切残っていない。



闘いは終った。



私は、こうして様々な世界を「卒業」して来た。





以上、参考にされたし。




反面教師として。




PS:


私は、今日は、風邪と闘っている。


一晩で治す!


にんにく、にんにく!

ビタミンC、ビタミンC!


にんにく、にんにく!

ビタミンC、ビタミンC!


CCレモン.ペットボトルがぶ飲み!3本!





2002年、1月17日(木)午前5時48分。



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