友寄(ともよせ)隆哉

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追加近況更新:2002年3月15日友寄隆哉   ともよせ たかや:Takaya Tomoyose  


1959年8月4日 (ルイ.アームストロングに同じらしいが、、本当か?)、沖縄県、那覇市生まれ。那覇市在住。作編曲兼ギタリスト。


小学6年より通信講座マニアとしてギターを始める。中学2年次に
成毛茂氏と文通しフォークからロックへ転向する。

16才よりバンドマン業後、1978年上京し沢田駿吾氏にジャズ.ギター、高柳昌行氏に音楽全般、大沢一仁氏にクラシック.ギターを師事。

1983年より帰郷し地元沖縄にてホテル、イベント等でバンドマン業。

地元ライブハウス「カムズハウス」「ジャズ.ボックス」にてライブ活動

ライブを「ジャズ.ボックス」のみにする。

急性腎炎で半年入院する。


入院中、
メイト音楽院、学院長、河井卓氏によるバークリー方式のジャズ理論初級から上級、アレンジングの懇切丁寧な添削指導付通信講座全課程を「高速」で半年受講し、ジャズ理論を学び直す。(病院ではやる事がそれしかなかったため「高速」となる。)


1984年〜1985年、母の故郷、離島「伊江島」に住む。

「フーテンの寅さん」のビデオ等を見て過ごす。

「島民」に怪しがられる。


コンピュータ.ミュージックを始める。


1985年、那覇に帰る。


1985年、地元ミュージシャンのアドリブ向上を目的に沖縄初のジャズ&ロックギター教室「サンパワ−ミュージック」を主宰。


仲本正國カルテット及びフュージョン.オーケストラ、西川勲(b)デュオ等を経て、國中勝男「el-b」とのデュオ。


國中勝男:沖縄県宮古伊良部出身。70年代末から80年初期、山下洋輔バンドのウッドベース奏者、ウッドベース奏者としてのリーダー.アルバム多数(梅津和時(AS)、向井滋春(TB)、共演等。全て廃盤)。変則6弦電気ベース、和楽器「ひちりき」「しょう」を経て、現在「ウード」と言う楽器奏者。当時の山下洋輔氏関係の林栄一(AS)、小山しょうた(Ds)、三上寛(フォーク.シンガー) 等と現在も共演中。過去業績検索不可。現在のCDは販売サイト「アマゾン」検索参照』

友寄隆哉過去全集第4集「ノイズ.インプロヴィゼイション」にて國中勝男の和楽器「ひちりき」での共演のライブ収録。この野外ライブはの模様は「東南植物園ライブ」と題してビデオ映像にても収録保管』


1987年
ジャズ.ボックス主宰による最終ライブ「ジャズはラブコール」と題して武田和命カルテット.ライブ『武田和命(ts)、小山しょうた(ds)、國中勝男(el-b)、友寄隆哉(g)』にて3日間の沖縄本島、離島ライブ。

(ギタリストをピアニストに替えたら旧、山下洋輔カルテットのメンバーになる事を後年気づく)

最終日のRBCホールの演奏が2週にわたってラジオ放送される。


武田和命氏(故人)との最後の共演となる。


この頃に、「
友寄隆哉過去全集全4集」の第2集、第3集、第4集の原盤となるカセット録音を完成させる。


1989年
、沖縄の「ジャズ史」を盛り上げた伝説のライブ.ハウス「ジャズ.ボックス」、オーナーの我部(がべ)氏の渡米をもって閉店。

(我部氏の弟は、現、琉球大学教授の我部政明氏「沖縄返還とは何だったのか」2000年著、NHKブックス、等)


県内でのライブ演奏の場をなくす。


1989年10月、再度上京、1990年4月、メーザー.ハウスのプロ.コースのオーディションを受け合格。「何しに来たのか、と事務局から言われる」


同学院にて
佐藤允彦氏に作.編曲を師事する。


学院の初日のラリー.コリエル(LARRY CORYELL:販売サイト「
アマゾン」検索参照)(G)セミナーへ飛び入りしギターバトル。(この圧巻のバトル模様を収録したビデオ保管。)


1990年、林栄一(AS)「横浜エアジン」セッション(林栄一「AS」、小山しょうた「Ds」立花泰彦)「B」友寄隆哉「G」。この模様もテープ収録保管。友寄「変態オリジナル編」の4曲収録)。

板橋文夫セッションにて「アケタの店」『板橋文夫)(P)井上陽介(B)岡田けいた(DS)友寄隆哉(G)』「新宿ピットイン」『板橋文夫(P)、井野信義(B)、岡田けいた(DS )友寄隆哉(G)』等に出演。


イベント会場設営解体のバイトに明け暮れる。(会社「スタッフ」)


晴海埠頭、幕張メッセ、流通センターが主な現場。


不愉快な、若者の「上司」に唖(おし)の如く無口に生きる



1991年〜92年
、プロコースの2年間在籍後、卒業証書を渡され追い出される。すぐに卒業証書を無くす。持病の腱鞘炎再発。


左手腱鞘炎のためバイトを転々とする。ビデオ屋でバイトするが、若者の「先輩」店員にいびられる。

唖(おし)の如く働くが「殺人だけはおかすまい」と3日で止める。


工場勤務を転々とする。


片腕でできる仕事を希望。


憲兵のような、監督に監視され、「最も働かないバイト人」、とマークされる。


殺人だけはおかすまい、と唖のように働く。


おそらく「コノ、ニホンジンタチニハ、コトバハ ツウジナイデアロウ」との判断から。


同じようにマークされた中国人の中年に好かれる。


(この辺の記憶定かではない。人間、つらい事はすぐに抑圧し忘れるものである。

いつの日か、とんでもない事を鮮明に思い出し、「あの野郎!」と突然拳を握るかもしれない。その日のためにバットを購入しておこうか。)


「貧乏」と闘えなくなり帰郷。




1992年
、ジャズ理論を学びたいと言う地元の志願者を対象に「公園、喫茶店、車内」等にて「ジャズ理論青空教室」を個人を対象に敢行する。


夏の公園は「熱い」ことを知る。


この頃、帰郷して初めて体験する、沖縄特有の居酒屋形式の何でも有りの「バカ騒ぎ」ライブ.ハウスの乱立に出演を拒否する。

客は、みんな「お喋り」に夢中で演奏はすべてBGM扱い、がその理由。

大手、居酒屋ライブ.ハウスより「ライブ.ハウス批判」と言う濡れ衣に「出入り禁止」を受ける。

例の沖縄1のジャズ.ミュージシャンを叔父に持つとされるオーナーが、演奏中、一番の「お喋り」であり、また、従業員も「あいさつ知らず」の無礼な若者なので「当たっているからまっいいか」とほっておく。

行っても注文を取らないか、来たとしても勘定でぼったくられる。

演奏は、一切させない、とされる。

県内、最大のアマチュア−.ミュージシャンの社交場として業界の中心となる。


『(
1993年頃)、この出入り出演を拒否されている沖縄の居酒屋ライブハウスが「渡辺香津美、井野信義デュオ.ライブ」を主催。

渡辺氏との共演も多い西川勲氏(b)が渡辺氏より「打ち上げ」に呼ばれ、当日、友寄トリオもライブ演奏をした後であったため無理矢理誘われ同伴する。

井野氏に「打ち上げ」で話しかける。

新宿ピットインの板橋セッションの事は「全く記憶がない」と言われる。


彼と同世代の地元のベ−シスト、ショーン.コネリー(イギリス映画俳優)似の、アメリカ白人兼沖縄人(「ハーフ」)の西川勲氏(B)の楽器を借りて80年代、沖縄にて西川氏とコンサート共演までしているが、西川氏も「記憶にない」と言われる。


同席の渡辺香津美氏が必死に西川氏を思い出させようとするが地元のミーハー取り巻きとの宴会に興じる。


無名ミュージシャンは覚えても益なしと学ぶ。

したがいお互いがサイドメンとしてのセッション共演者はすべて私への記憶はないであろう。

(ラリー.コリエル氏においては一切の私への「データ」は消去されているはずであるから、催眠術にかけてさえ、思い出す事は不可能であろう。なんとも悲しいプロフィールの列挙である。)


西川I勲(B:1952年2月生、沖縄生まれ/「ダブル」でない沖縄-アメリカ間の「ハーフ第1世代」)氏は地元ライブ.ハウス「ジャズボックス」時代、渡辺香津美(g)、山下洋輔(p)、辛島文雄(p)梅津和時(AS)、
本田竹曠 (p)との共演も多数。國中勝男(元、山下洋輔カルテット.ウッド.ベ−シスト)と双璧をなした県産のベ−シスト。國中氏とは対照的なプレイを提示。ライブ中心の貧乏生活は嫌だ、と地元にてバンドマン稼業を続けている。』



この居酒屋を「ライブ.ハウス」とは一切認めず。

ライブ.ハウスから「出入り禁止」となったのは、音楽生活で初めての体験。

音楽の目利きが利かないパーティ好きの素人オーナーが「音楽通」を気取りライブ.ハウス経営に乗り出すと碌(ろく)な事にならならない好例。

しかし、那覇は、ベンチャーズ.バンドの店「アパッチ」、沖縄市は、「モッズ」がライブの場を提供してくれる。

いつのまにか、先の居酒屋ライブ.ハウスが潰れる。

地元紙でも騒がれる。

県民は、音楽を舐めすぎている、と生涯にわたっての「怨念」が生まれる。

祝電を打とうとしたが、「大人」である事を思い出しやめる。


現在もこれを「伝説のライブ.ハウス」とする動きがあるが二度と再建させてはならない、パーティ会場である。


この事は、正しい「歴史認識」のために書き記しておく。

沖縄にて「伝説のライブ.ハウス」は、「ジャズ.ボックス」のみ。

これを証言する一流ミュージシャンは、多数。


先の居酒屋ライブ.ハウスを惜しむ者は、単に、夜更かしできる遊び場をなくした者たちだけである。

「ジャズ.ボックス」に関してはいずれ特筆する責務あり。

メンバーやバンド名を替え、毎夜のように、私が修行した演奏場であったからである。


閑話休題


1994年4月より全楽器対象ジャズアドリブトレーニング教室「サンパワーミュージック」を再開させる。

現在、第3期(教室移転回数)。


1994年、アルト.サックス奏者のポール石垣の沖縄民謡をBGMジャズで再現というコンセプトによるCD「ザ.トゥバラーマ」を仲本政國(シンセ、編曲)とともに制作する。『友寄アレンジは、伊江島民謡「砂持ち節(しなむちぶし)のみ。(「友寄隆哉過去作品集全4集第3集作編曲編」に収録。)、ギター演奏、全曲サックス.アドリブ譜を作曲』


(インディーズ系ミュージシャンのCDへの参加録音は省く。)



1994〜5年
、地元ライブ.ハウス「モッズ」「アパッチ」にて「友寄トリオ」ライブを試みる。(友寄隆哉過去作品集全4集、第1集、第2集に収録)



1995年12月、「友寄トリオ」解散。ライブシーン引退。


1999年12月より「ヒーホー.スタジオ(録音スタジオ)」にてアンサンブル科を主宰。

2001年、「ジャズ」を学びたい者だけを対象に個人レッスン生としてのみ受付。

「スターになりたい」という者には地元の音楽教室を紹介するようになる。

その音楽教室で半年で講師を抜いたらもう一度電話をくれ、と伝える。


1998年10月、自身の過去の演奏、作品(1983〜1995)を記録した[友寄隆哉作品集」全4集;「アコースティックジャズトリオライブ95」「エレクトリックパフォーマンス」「作編曲集」「ノイズミュージック編」を意味不明に県内各楽器店にて発売する。

1999年4月、毎月第1水曜日、ジャズ未開の地、沖縄市ライブハウス「モッズ」のオーナーの要望により西川勲氏とのデュオにてマンスリー.ジャズ.ライブを4年ぶりに再開。

再開後、沖縄市の現状は「ジャマイカ人に能を広めるようなもの」と認識する。

1999年11月にドラム(マナラスタス.ラスティン:フィリピンより沖縄帰化30年有余,年齢不詳)を復活加入させ「トリオ」にて演奏。

2001年2月の第1水曜日をもって、「ヘビメタと70年代フォークの街、コザにはジャズは合わない」と「友寄隆哉トリオ」解散。

2001年3月より観光地に不向きな、前人未踏の「無差別ジャンルのアコ−スティック.ギタ−即興ソロ演奏」に切り替えライブを継続。

客の数は「ひとまばたき」で数えるほどであるがオーナー及び熱狂的数名のファンの支持により続投。

演奏途中、急に用事を思い出し、席を立つマナーも悪い、前頭葉も退化し、芸術的感受性も皆無の、頭の堅そうな、宴会ショー.パブ.バンド好きな、偉そうな、文盲の飛び込み客を無視し「芸」を続ける事も「荒行」の一つと了解。

ライブは用事のない日に来てほしいものだ、と毎度案ずる。


上記のライブ.ハウスでは「場違い」なミュージシャンであるためリンク無用とホームページ作成も告知せず。

基本的に親戚縁者、友人知人、クラブ常連客、等への「接待ライブ」ではないため当日の各々の自主性にまかせて事前の「呼び掛け」は一切控える。

、、ていうか、該当する者に心当たりなし。


フォークのみ好き、ヘビメタのみ好き、土着貧乏ブルースのみ好き、大儲け願望スタイルのフュ−ジョンのみ好き、40年以上も前のウェス.モンゴメリーが一番好き、ビーバップ学習命、等の「大昔の音楽再現大好き」な者は、来なくてよし、とする。

聴いても気に入らないであろうからわざわざわ御足労をわずらわす事もない、との配慮から。


「自分は少し変な嗜好がある」と言う「刺激」を求めるめずらし物好きの「前頭葉」が肥大しているクリエーター志向のリスナーを希望。

基本的にどんなジャンルでも「素材」として取り上げるためジャズにくわしくなくても大丈夫。知ったかぶりしなくてもよいから安心して観戦されたし、と呼び掛ける。

アコースティック.ギタ−により、童謡、民謡、津軽もの、フォーク、ボサノバ、クラシック、ジャズ、フラメンコ、エスニック等々を様々な手法にて即興演奏。


アコースティックと電気ギターの両方を用意する事が面倒なため電気ギターの弦が錆びたままになる。

そのため手が汚れる、という理由で「電気ギター」に近寄りたくなくなる。

また、ソロにはアコースティックが適当かと判断。


一人一人の客の「おいたち」を推理してその日の「今日のメニュー」を決定するため時折、譜面がステージ上にばらまかれる。

拾わなくてもよし、とする。

拾ってくれたら「ありがとう」と言う。

休憩中、譜面をこっそり覗いても、ごく普通の譜面。「コピー譜」ではない。4小節ほどしか書いていないものあり。


ライブ観戦者に限り「
友寄隆哉作品集全4集」を各¥1,500にて発売するも一人として現れず。


店でも自分のCDがかけられた事はない。

CD販売に際し、当日の告知は一切ないため本人に申し出れば「笑顔」で応対。

ホームページ見てます、と言えばさらに破顔一笑し「メル友」に昇格。どんな質問にでも暴露記事満載で返答。

サインがほしい、と言わなければそのまま販売。

尚、ホストではないためこちらから声をかけるまで自分のテーブルへ「御指名」しない事を事前に警告。

歩み寄って声をかけてくれれば、「えへ?」と返答しギャグ満載のお喋りに明け暮れる。


2001年12月26日、ソロ.ライブの数有る「名曲」の中から数曲を抜き出し、新作オリジナル集「The Old Songs」を地元、ヒーホー.スタジオにて録音。


3年ぶりで、再び自主制作で発売。


好評発売


2002年、3月6日(水)

1999年4月より始めた西川勲デュオ、トリオ、ソロと変遷したモッズ定期ライブ(第一水曜日)をVOL.35の偉業を達成し約4名に惜しまれ終了する。

(21:友寄ミュージック感想集  「3:モッズ定期ライブ終了」参照  )


新聞紙上には「CD発売記念ライブ」と写真付で告知されるが、掲載写真の目付きが悪く「変質者ライブ」と評され敬遠される。


現在に至る。


2002年3月11日(月)


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 TAKAYA TOMOYOSE (guitar,comp,arr)