友寄隆哉のジャズはなぜ死んだか?ジャズから見る文化論

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     7:私の宗教理解 その1 「2001年10月26日(金)」



イエスはキリスト教徒ではない。仏陀(ぶっだ)も仏教徒ではない。


これは20台の頃読んだ、作家「ひろ.さちや」氏の本にあった言葉である。


宗教上の様々な「宗派」は後の人の「解釈」によって様々に変化するのである。



私は日頃から、「ジャズ」というものもない、と考えている。


あるいは「空手」もない、と言える。



「キリスト教」も、「イスラム教」もない、とも言える。



「日本人」もない、「沖縄人」もない、「アメリカ人」もない、みんな、ないないない、と言える。



実際、様々な異民族によって統治された歴史を持つ中国は、「中国人」という厳密な意味での民族は存在しない。



「中国」のために生きた者はみんな「中国人」である。


これと同じ事が様々な事象に言える。



ジャズ、空手、キリスト教、イスラム教、仏教、と一つに括(くく)って言う事は困難である、という事だ。



したがい、そんなものは「ない」とも言える。



なぜなら、それら内部の者と見られる者が互いに「それは本物ではない!」と言い合っているからである。



なら、外部の者から見ると、では、そんなものは「ない」と考える方がよいのだな、という結論に達する。



あるのは、マニアックな判別とその認識だけである。



この事を指摘する人を私は私以外知らない。



なぜなら、あまりにも「コロンブスの卵」的主張であるためバカバカしい指摘であるからだろう。



『実は、私は、指摘、主張して初めて、その問題に関しての読書をして、誰か権威が同じ事を言っていないかあわてて探す、という読書パターンである。だから探せば誰かいるであろう。その逆をしては、私は「ナマケモノ」になれないからそんな人生は嫌である。しかし、わからない事は黙って聞いているだけである。もう何十年も「宇宙人はいるのか?」に関しては点目になって黙って聞いているだけである。たぶんこれも「宇宙教」である』




宗教にも様々な宗派がある。



みんな自分が「主流」と主張する。



ジャズは、ディキシーに始り、スウィング、バップ、モダン、と変遷して行く。


そのどれかを選択して「これこそがジャズだ」というと、反発する者続出である。


また、まとめて「ジャズだ」というには流派が違い過ぎる。



流派が違うという事は、人間も違う、という事だ。



「あんなのプロレスじゃねえ!」と言って各団体は生まれているではないか。



「空手」であっても様々である。



古い型ばかりの暗記を繰り返している流派もある。


自己の手足をひたすらバットのようなもので叩き続けている流派もある。



「マゾ空手」である。



かと言って実際に闘う事はない。



寸止めである。



しかし、実際に当ててもよい、としても顔面は禁止であるから互いが「見つめ合って」ド突き合う流派もある。



大山倍達氏は、これを「相撲(すもう)空手」(又は「お見合い空手」)と言って自己の流派を戒(いまし)めた。



『大山氏と言えば、最近では、10年以上も前に、沖縄には既に「極真館」の道場が存在していると思っていたのだが、最近、地元のテレビでは、「ついに極真館が沖縄上陸!」としきりに宣伝している。

私のような「なぜなぜ?屋」がいる島というのに、あからさまな「お家騒動」である。当然、取り上げる。

では今までの道場は何であったのだろうか。

無知な島民と思って舐めたらあかんぜよ。

(沖縄へは「七戸(しちのへ)極真沖縄支部道場」が10年以上も前に上陸し土地に土着しているのだが、、、不可思議也。)』



そうした分野でも唯一共通している部分はある。


ジャズで言えば、「楽器を弾いてアドリブするが、ちょっとコードがむつかしい」という部分だけである。


それくらいしか共通項は見当たらない。



空手で言えば、「とりあえず手と足を使う、たまに頭部も使う」という事だけである。



手を使うから、とりあえず、サッカーではないな、とは推測できる。



したがい、キリスト教、イスラム教と言っても様々である。



そんなものはない、とも言えない事もない。



なぜなら、その宗教内部でも、「あれは本物ではない」といった主張が飛び交っているからである。


あれは空手ではない、と言う事と同じである。



それぞれの流派は、みんな自分の方が本当の「空手」だと思っている。



ましてや、宗教となるとその例証は豊富に存在する。



「オーム真理教(現「アレフ」)」であっても「仏教」だと言っていた。



一つの宗教があると必ず様々な宗派が存在し、お互いが争っている。


互いが「自分の方こそが本物である」と主張している。



私も私の教室だけが正しいジャズの教室なんだからなあ〜、とわめいている。



そんなわけで、昔から、これがキリスト教だ、これがイスラム教だ、という解説には疑問を持っている。

仏教などもあまりにも混沌(こんとん)としているので、「そんなものはない!」と言ってしまった方がすっきりする。



本家インドの戒律(かいりつ)だらけの仏教と、戒律がない日本の仏教ではもうまったく別の代物である。



それぞれを個別に把握し理解するしか方法はない、と思っている。


したがい、私は、ディキシー.ジャズとモダン.ジャズを同じものだとは思っていない。


スイング.ジャズでも同じである。



それぞれみんな「別物」である、と思っている。



でなければ、様々な宗派、派閥を持つ世界など到底理解できるものではない。



つまり、ギターってどんな音楽をするもの?、という質問に答えるようなものである。


他の楽器と違い、ギターだけは、様々な流派がある。


ロック.ギター、ボサノバ.ギター、ブルース.ギター、カントリー.ギター、フォーク.ギター、クラシック.ギター、フラメンコ.ギター、etc.......。(何と忘れていた。「ジャズ.ギター!」なぜすぐに出て来なかったのだろうか10月30日)



ミニ音楽用語知識:よく混同する人がいるがこれらは各音楽「ジャンル」の名前を取り、ギターでその奏法上のスタイルの違いを区分けして言っているのである。

だから一本のギターですべてのスタイルのギターを弾く事もできる。


しかし、ある種の楽器(ギター)が一つのジャンルにのみ対応して制作されている場合がある。両者の中でその名称が一致する場合があるため、他の音楽もすべてそんな楽器(ギター)が存在するかのように錯覚するのである。


実際に一致するのはわずかである。フォーク.ギター、クラシック.ギター(ガットギターと呼ばれる。本当はガット「羊の腸からつくった」ではなくても呼称は慣習である。「ナイロンギター」と呼び改めた方がよいが賛同者がいない)、スチール.ギター(鉄の弦のみ)、フラメンコ.ギターなどの楽器は存在する。

電気(エレキ)と生(なま)の楽器を区別したアコ−スティック.ギター(生(なま)ギター)という総称はある。


私は、電気ギター、生(なま)ギターと言っている。


また、「ボサノバ.ギター」「ブルース.ギター」「ロック.ギター」「ジャズ.ギター」等という楽器(ギター)は存在しない。』





これだけ色々な流派がある楽器はギターだけである。

「ロック.ピアノ」も「ボサノバ.トランペット」もない。



もし、統一された一つのイメージしか持たない世界があるとすれば、それはそれだけ、巨大な勢力を持つ何者かによって「独裁」が行なわれている事を意味する。



「沖縄そば」ってどんなもの?


「カツ丼」ってどんなもの?


「カレーライス」ってどんなもの?


「これがラーメンなの?」



能書きはさておいて、アメリカ.テロの根底にあるキリスト教とイスラム教の世界を今回はめずらしくお勉強して見ようと思う。



とりあえず、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の元となっている「旧約聖書」の共通部分を抜き出して見よう。(ユダヤでは、「モーセの五書」の部分は「トーラー」として聖典となっている)


しかし、旧約と言えど、全39巻もある。(新約は全27巻)



したがい、これを聖典とするための様々な編纂法が存在する。




まず、創造主(ヤハウエ)は、天地をつくり、自分に似せてアダマの土の塵(ちり)でアダムをつくった、とされる。


鼻から命を吹き込み、こうして「人間」が生まれた。


『この、神と同じ形をしている、という所から人間があらゆる生き物の上に位置している、という人間至上主義(
ヒューマニズム)が生まれている。「ヒューマニズム」の言葉の使い方がみんなおかしい。』



人間は、こうして「土」からの肉体と、命の源である息(霊)でつくられた。



ここに、身体と霊(スピリッツ[SPIRIT])は、別である、という思想が生まれた。



アダムが寂しくないよう、そのあばら骨(一番心臓に近い大切な骨)から、女性のエバ(英語:イブ)をつくる。


『先に様々な生き物をつくったがアダムは満足しなかった。エバはその最後の創造物である』



そして
女性であるエバが悪魔(サタン)の化身(けしん)のヘビに誘惑され、創造主から食べてはいけない、といわれている禁断の実を食べてしまう。アダムもエバに進められ食べてしまう。(まず女性が罪を犯す)



この二人が神に逆(さか)らい禁断の実を食べた、として「エデンの園(その)」を追われ、以来、人間は、これを「原罪」とし、その「罰」として「死」が必ず訪れる事になる。



そのアダムとエバの子がカインとアベルの兄弟である。



兄のカインは土を耕しその実りのものを神に捧げ、弟のアベルは、羊を飼い、その最初に生まれた肥えたオスを捧げる。



神は、カインの捧げものを喜ばず、弟のアベルの血のしたたる羊の初子(ういご)を好む。



神は常に「血」の捧げ物を好む、と知る。




その事で兄のカインは弟のアベルに嫉妬し弟を殺害する。



人類最初の殺人、となる。




このカインとアベル、さらにはその両親アダムとエバの子孫が、すべての人類である。




ここでダーウィンの進化論、
人間は猿から進化した、と矛盾する。



アメリカでは進化論を小学校の教科書に載せてよいか、という議論が繰り返されている。



これは、
キリスト原理主義の主張である。



「原理主義」と言う言葉は、キリスト教が起源の言葉である。

つまり、


1:聖書に書いている事はすべて正しい(聖書の無謬「むびゅう)性)。



2:キリストの処女(マリア様より)生誕 



3:キリストの贖罪死(みんなの犠牲になって罪をつぐなった死)



4;キリストの肉体の復活



5;キリストの神性とその再臨



これがキリスト教原理主義5つの基本原理である。


(「イスラムと近代」中村こう治郎、1997年 岩波書店より)




『元々、イスラムは「聖書(キリスト教で言う「旧約」)」に次ぐ「聖典コーラン」の言葉は神の言葉であり一切の間違いはない、としているため「原理主義」というキリスト教側の言葉を使用するのは不適当である、とする。イスラムにおける「原理主義」という立場は、
国はイスラム法学者によって治めるべきである、という立場の者の事になる、という』




したがい、人間は、創造主ヤハウエの創造物(アダムとエバ)で、猿からは進化していない、というのがキリスト教原理主義の主張である。



イスラムと違い、政治とはあまり無関係な立場である。




アメリカは、戦後、天皇は太陽神の子孫ではなく、人間は猿の子孫である、というこの「進化論」を何よりもまず日本人へ教育しようとした、という。(山本七平氏による)



しかし、日本人は既に当然の如く「進化論」を知っていた。



この事がアメリカ人を驚かせたという。



日本は、ホンネとタテマエを使い分けていたのである。



現在でもアメリカ人はこうした少数の原理主義者に対しては、「まあ気持ちはわかる」としている。



1996年にカトリックでは、ローマ法王が「ダーウィンの進化論を認める」と発言。



それ以前(1996年まで!)は、神が天地を創造した、として進化論を否定している。



『しかし、山本七平氏によれば、旧約聖書の始り「はじめに神、天地をつくりたまえり、、」という冒頭の箇所は、ヘブライ語の文法から見て「神が天地を構築したとき、、」となり、既ににその材料は存在していた、としている。神は無から創造していない、と指摘している。「旧約聖書物語」山本七平著、徳間文庫1988年』


話は、跳んで、紀元前2100年頃(とされている)。



アブラハムという男がいた。(イスラムにとって信仰の最高の手本となる人物である)



ノアの方舟の予言者ノアの10代目の子孫にあたる。



アカバ湾(紅海)に近いウルの出身。



父と一緒にハランに移り住んでいた。



ある日、神、天地の創造主、ヤハウエから啓示を受ける。



あなたは故郷を捨て私が示す土地に行きなさい、と。



アブラハムは、南下してカナン地方を通り、エジプトまで行く。



そして、最終的にカナン、現パレスチナ地方に住む。



創造主は、アブラハムに、「見えるかぎりの土地を永久にあなたとあなたの子孫に与える、そしてその子孫は砂粒のように数え切れないほどになろう」、と伝える。(「3日でわかる聖書」、ダイアモンド社)



しかし妻のサラ(サライ)との間に子供はなかなかできなかった。



妻の提案で、妻の召使いハガルにアブラハムの子供を産ませる。



これが息子の「イシュマル」(このイシュマルがイスラム教徒の祖先系列である)。


しかし、ついにアブラハム100歳でサラ90歳の時にようやく念願の息子「イサク」が生まれる(このイサクがユダヤ教、キリスト教の祖先系列である)。



二人はイサクを愛する。



ある日、創造主(神)は、そのイサクを殺して見よ、とアブラハムに言う。



信仰心の篤(あつ)いアブラハムは、その息子イサクを山(「モリヤの地」)へ連れて行き殺そうとする。



神は、アブラハムの信仰心が本物である事を知り ”満足”して、すんでの所で、「もうよい!」と止める。



『イスラム教では、先の妻の召使いハガルとの子イシュマルが捧げられたとされる。イスラム教の聖地メッカでは今もハガルとイシュマルを記念する巡礼がされている。』



神の命令の前に、人間の考えなど無用である。



人間は既に、アブラハムの先祖である「アダムとイブ」によって神に逆らい知恵の実を食べたという赦し難い「原罪」がある。



神は、もう人間など信用しない。



つべこべ反論する者は、信仰心のない傲慢(ごうまん)な「人間」でしかない。



息子イサクにはエサウ、ヤコブという双子が生まれる。



長男のエサウが本来、家督を継ぐはずであったが、次男のヤコブは、自分の方を兄エサウより愛していた母と共謀してその権利を得る。



ヤコブは、兄エサウの怒りを買い、命の危険を感じ家を出て伯父のところで暮す。



そこで伯父の娘、姉のレアと妹のラケルの二人と結婚する。

(聖書の登場人物と近親相姦の問題はこの際おいておく)



妹ラケルと恋に落ちたのだが、結婚は年齢の順に、とする伯父の策略で顔を隠した花嫁との初夜が姉のレアであった。



しかし、やがて妹のラケルとも結婚し12人の子供をつくる。(姉妹がそれぞれ召使いとの間にできた子供も含む。聖書と不倫の問題もおいておく)



その後、伯父の度重なる策略が嫌になりヤコブは、家族と財産すべてを持って父イサクの土地に帰る。



兄のエサウは、ヤコブを赦しヤコブはペテル(神の家)に住む。



そこでヤコブは、神より、「あなたの名は、ヤコブではなく「イスラエル」となり、あなたから一つの国民が出る、あなたの腰から多くの王たちが出る、あなたに続く子孫にこの土地を与える」と伝えられる。



「イスラ」は「戦う」を、「エル」は、神を表す、と考えられている。



『山本七平氏によれば、イスラエルは「神と争う者」の意味ではなく、「神が統(す)べたまわらんことを」という意味であるという。「聖書物語」』



ヤコブの子孫は、イスラエルの民族となり、
12人の子供たちがそれぞれイスラエルの12の部族の粗となる。



『しかし、パウロの「ローマにいる人びとへの手紙」に記されている、「イスラエル(ユダヤ人)から出た者が全部イスラエルなのではなく、またアブラハムの子孫だからといって、その全部が子ではない、、、(中略)、、
立法を守らないものは、たとえアブラハムの子孫であっても、イスラエルではない」とする箇所から「キリスト教徒こそ真のイスラエルであって、ユダヤ人は、たとえアブラハムの子孫であっても、それはイスラエルではない」とする考え方を生む:山本七平「聖書物語」』



カナンの地(パレスチナ)は、アブラハムが神から与えられた土地である。



しかし、カナンの地は、やがて不毛な地となり、アブラハムの子孫は、これを見限り去る。



その子孫が、イスラエル(ユダヤ)の民族である。



ユダヤの民族は、やがてエジプトの地で奴隷として生きる事になる。


それを神からの声を聞いたというモーセがユダヤの民族をエジプトから脱出させる。


『山本氏によれば、これは「脱出」ではなく、「出発」が正しい訳という。

遊牧民にとっては身体的拘束や何らかの義務を課せられること、また組織的統制に服することを本能的に拒否する。

現代も変わらず「勤勉の美徳」は否定する。

彼らは国家も国境も認めていない。そんなものは関係ない。

あるのは、血縁と宗教である。守るのは水と牧草地である、という。

したがい現在でも、どんなに親切にされても勝手に井戸の水を飲んでしまったら殺されるかもしれない、という。

こうした気質が、エジプトでの義務に反発した。義務とは租税と徴兵である。彼らに様々な免除を与えていた王の死後、次期エジプト王が彼らにそれらの義務を課した。そのためエジプトを「出発」するのである。』



そこで、再び、神ヤハウエは、カナンの地をユダヤの民に与えた、とモーセに伝える。


何十年か経て、モーセは、カナンの地に着く直前に死ぬ。



モーセに代わり、ヨシュアが民を導く。



そこで、旧約聖書の「ヨシュア記」である。



『「ヨシュア」という名は、ヘブライ語である。「
イエス」の事である。イエスには姓はない。ちなみに天皇家も姓がない。「キリスト」は、「油をそそがれた者=神に祝福された者=救世主」の意味である。ギリシャ語で言う「クリーストス」である。アラム語では「メシア」、ヘブライ語で「マーシア」となる。


砂漠では身体から水分の蒸発は命取りであるからこれを抑えるために油を塗って送りだすのである。つまり「神より油をそそがれし者」とは、「神より選ばれし者」の事である』


ヨシュアが活躍し、カナンの地に住んでいた民族を、子供から大人、家畜までを皆殺しにする。



「皆殺しにせよ」というのが神の意志だ。




神の命令は絶対だ。人間の考えなど一切無用である。




神の命令なら息子でも殺せるアブラハムこそがすべての「信仰の父」である。



特にイスラムにとっては、
アブラハムの信仰のあり方こそが窮極の信仰のお手本である。



神との直接の関わりである。



(アブラハムは、何かと問題を引き起こす人物でもある。念のため。)




このカナンの地で殺された民と所縁(ゆかり)がある民がパレスチナ人である、とされる。


『しかし、実際は、イスラエルの民とカナンの地の民は、長年にわたり交流して行き、カナンの地をわずかに支配していたエジプトの衰退にともない、イスラエルの民が征服した、とされる。まず両者の共存があった、としている。山本七平「聖書物語」』




以下は「パレスチナ」笹川正博 朝日撰書、朝日新聞社1974年からの抜粋である。

シオニスト:

1885年になって、ウィーンの作家ナターン.ビルンバウムがシオニズムという言葉をつくる。(同書P74)

     (中略)


ダビデの子ソロモンは、通商を奨励し、エジプトからメソポタ
ミアへ、南アラビアから地中海へ通じる当時の通商の要路をおさえる。

エジプトの亜麻布、レバノンの杉、南アラビアの香料などは当時のオリエントの重要商品であったが、ダビデ王国はそのキャラバン.センターとして繁栄を極める。



ソロモン王はまたエホバ(ヤハウエ)のために壮麗な神殿を構築した。



いわゆる「ソロモンの神殿」である。


神殿は「シオンの丘」の上にあった。



この「シオンの丘」は現在のエルサレム旧市の南端にあったもので、現在の「シオンの丘」はそれよりも西にある。



神殿の完成とともにエルサレムはイスラエル民族の政治と宗教の中心となった。


「シオン」は旧約聖書の中でエルサレムの別称として用いられているが、のちユダヤ人が世界に四散するにつれて、彼らの望郷の思いがこもったきわめて情緒的な言葉となった。ユダヤ人の祖国回復運動
シオニズムの名はこのシオンからとった。


ソロモンの死後、ダビデ王国は南北二つに分裂する。



北の部族は「イスラエル王国」を、南の部族は「ユダ王国」を建てる。



首都はそれぞれサマリアとエルサレムであった。



イスラエル王国は紀元前721年にアッシリアに滅ぼされ、再び立ち上がらなかった。

そのあとイスラエル民族の宗教、文化はユダ王国によって引き継がれる。



この時から
イスラエル人はユダヤ人になるわけで、われわれが現代、いわゆるユダヤ的なものとして了解しているのはすべてユダ王国の伝統文化である。(同書P18~)




” われわれ日本人は、石油のことは多少わかっていても、パレスチナ問題となると、まだ一種の神話的な世界に住んでいる。たとえば「アラブとユダヤ人は、パレスチナで数千年にわたって血の抗争を続けてきた」と、いまでも考えている人がある。これは完全に誤りである。

(両者の争いは、1917年の「バルフォア宣言」以来、半世紀の話で、それ以前は仲良くしていたのだ)(同書「はじめに」より)


バルフォア宣言:


1894年は、パリで「ドレフェース事件」を報道していた。ドレフェース事件とはフランスの砲兵大尉ドレフェースをめぐる売国疑獄事件であるが、当時のフランスには反ユダヤ主義が起こっていたため、最初から彼がユダヤ人であるが故に告発されたのではないかという疑惑があった。

     (中略)


この事件にショックを受けたウィーンの青年ジャーナリスト、テーオドール.ヘルツル(1860-1904)は、1896年「ユダヤ人国家」という論文を発表する。


百ページくらいのパンフレットで、一般にはこれがシオニストによる最初の国家建設提案であるかのように信じられているようだが、そうではない。


ユダヤ人国家の建設案はすでに述べたように、ピンスケルの「自力解放」によってなされており、ヘルツルの思想もピンスケルのそれと全く同じであった。


ピンスケルが「パレスチナまたは
ほかの場所」といったように、ヘルツルも「パレスチナまたはアルゼンチン」と書いている。

さらに、ヘルツルが最初は「同化」ユダヤ人(註:四散して他国の国民になっているユダヤ人、ヘルツル自身の両親も同化ユダヤ人、ヘルツルは二世)で、ドレフェース事件のショックでシオニストになったという点でピンスケルと似ている。(同書P74~75)


『註:ヘルツルは後に感化されやすい「おぼっちゃま」的資質を発揮する。彼は
同化ユダヤ人の家庭に生まれ育った。彼は自分の境遇とは違う、哀れな、虐げられたユダヤ人を救済しようとしていたのである。


ロシア生まれの(ユダヤ人)イスラエル初代大統領
ワイツマンは、何世紀にもわたって世界中に散っているユダヤ人が失いかけている民族の伝統や道徳観念を民族の故郷で土と親しむ生活によって復活させることが本当のシオニズムであるとし、絶対パレスチナの地でなくてはならない、と主張。

一方ヘルツルは、安住の地はパレスチナでもアルゼンチンどこでもよかった。両派は対立したが、ヘルツルは1904年、44歳で死亡した。(同書P83)』


      (中略)


1848年にベイルートで「芸術学術協会」というささやかな団体が名乗りを上げた。(中略)これにあきたらぬ人たちが1857年「シリア学術協会」をつくった。



本部はやはりベイルートであった。(当時はいまのレバノン、シリア、ヨルダン、パレスチナのあたりはすべてシリアと呼ばれた)。



1868年のある日、この協会の会員であった詩人イブラーヒーム.ヤセジは、オスマン.トルコ帝国官憲の目をかすめて開かれた秘密会議で一編の詩を読み上げた。


「立ち上がれ、汝(なんじ)アラブよ。目覚めよ」と題する愛国賛歌だった。



趣旨はアラブ民族の栄光ある歴史を、アラビア文学の美わしさを讃え、アラブは過去から学ぶことによって新しい未来を築くべきだというもので、回教徒(イスラム)とキリスト教徒の宗教的な対立の打破を訴え、オスマン.トルコの失政を糾弾し、アラブが打って一丸(いちがん)となってオスマン.トルコの支配を断ち切ることを叫んでいた。



この詩はアラブ人の間で口から口へと伝えられ、
アラブ民族主義の情熱をかき立てた。(同書P77~78)




1908年、オスマン.トルコでは革新派の「青年トルコ党」が政権を掌握、一時アラブ民族主義との間に蜜月(みつげつ)時代が生じるが、アラブにとっては「青年トルコ党」も結局圧政者にすぎなかった。



ただ、この時期にアラビア半島ヒジャーズのシャリーフ.
フセイン.ピン.アリ−が、メッカの太守(たいしゅ)に任命されたことに注目すべきだろう。



シャリーフとはマホメットの子孫に与えられる称号であるが、フセインの所属するメッカのハーシム家は代々この称号をもっていた。(同書P79)



フセインがメッカの太守に任命されたころ、シオニストたちによる最初の植民地事業がパレスチナで始ろうとしていた。


(中略)


実はそのころシオニストたちは別のことに忙殺されていた。


1:
同化ユダヤ人が政治的シオニズムに強く反対し


2:祖国実現の手段についてシオニストの間に見解の対立があったからである。



第1点については、西ヨーロッパのブルジョワ.ユダヤ人はほとんど全部同化ユダヤ人で、パレスチナに祖国をつくることは
貧しいユダヤ人に対する救済対策としか思っていなかったことが指摘できる。



ロンドン、パリ、ベルリンの同化ユダヤ人たちにとってはシオニズムは全く不可解であった。


彼らには資産も地位もあり、現在の地の市民権も確保された以上は、むしろ
ユダヤ人であることを忘れることこそが幸福と安全につながる道であると考えていた。



彼らは「ユダヤ民族なるものは存在しない」とさえいっていたのである。



宗教だけはユダヤ教であったがユダヤ教はユダヤ人だけの宗教とはせず、キリスト教のように普遍的なものにすることがユダヤ教徒のあり方である、というのが彼らの信条であった。



だから、いまになって祖国復帰運動などを起こすことはかえって反ユダヤ主義の古傷を広げることになると危険視したのである。




だが、彼らとて虐げられたユダヤ人がロシアやポーランドにいることは知っていた。



だから同じユダヤ人としてこれらの人々を救済するためカネを出すことには反対しなかった。



一つの適例はイギリスとフランスに地盤をもった大財閥ロスチャイルド家であった。



この一家はヘルツルが登場する以前からパレスチナへ移住するユダヤ人のために資金を出していた。(同書P80~81)


*二つの民族主義



アラブ民族主義とシオニズム----は第一次大戦とともに運命的な対決の時代に入るのだが、その発展の過程そのものにも、ある運命的なものを感ぜざる得ない。



シオニストのモーゼズ.ヘスが「ローマとエルサレム」と書いたのが1862年、それから六年後、「シリア学術協会」の秘密会議でイブラーヒーム.ヤゼジが「立ち上がれ、汝アラブよ」の詩を発表している。



1880年に、ベイルートの秘密組織がアラブ独立のプラカードを街々に張りつけていた。




その二年後には、シオニストのピンスケルが「自力解放」を発表した。



フセインがメッカの太守に任命されたのとパレスチナに初めてWZOの事務所が設置されたのは同じ1908年であった。



しかし、
アラブ民族主義者とシオニストはお互い接触することもなく、同じヨーロッパの民族主義の影響の下で、それぞれの民族意識を次第に高め、第一次世界大戦を媒介にして、これをさらに深化させ、強化していくのである。



たとえていえば、
一本の軌道を互いに逆方向から突進して来る二台の機関車であった。(同書P89)





第一次世界大戦開戦の翌1915年7月14日、メッカのフセインはカイロ駐在のイギリス高等弁務官ヘンリー.マクマホン宛に書簡(しょかん)を送った。


(中略)


要するにフセインは、現在のトルコのアナトリア地方南部からアラビア半島全域にわたる地域にアラブの独立国(複数)を樹立(じゅりつ)するために
イギリスの協力を求めたのであった。むろんこの地域にはパレスチナも入っていた。



この書簡を皮切りに
マクマホンとフセインの間で書簡のやり取りが行なわれた。


全部で八通あり、「マクマホン.フセイン往復書簡」と呼ばれている。(同書P92)





『第一次世界大戦中、ドイツの同盟国であったオスマン.トルコ帝国は中立を保っていたが、イギリスはトルコがドイツ側に立って参戦すると予想していた。イギリスは、
アラブの独立への意欲を利用してイギリス側に協力させようと画策し始めた。アラブの独立、という約束を餌にした。(同書P94)』




1915年1月、メッカのフセインのもとへシリアの秘密組織「アル.ファタート」から密使が到着する。


(中略)


それは、
1:シリアとイラクの民族主義者たちはアラブの独立達成のため反乱を起こす用意がある。


その中にはトルコ軍に籍をもつアラブの高級将校も含まれている。


2:閣下は反乱を指揮することに同意されるかどうか、もしその用意があるなら、謀議のためわれわれの代表者とメッカでお会いくださるか、それともダマスカスに信頼できる人物を派遣していただけるかどうか、ということであった。



密使の伝言はまさにフセインの心であった。



(中略)



フセインからイギリス政府の反応を探ってもらいたいと依頼した。


(中略)


こうしてフセインは七月、マクマホンに最初の書簡を送ることになるのである。




フセインの書簡を受け取ったイギリスにはさまざまな事情があった。



一つはフランスであった。



フランスは16世紀の初めからシリアに商人や宣教師が入って活動を開始しており、19世紀の初めには貿易、商業、布教活動でオスマン.トルコかあ特権を獲得していた。



従ってフランスは、シリア、とくにレバノンにおいてキリスト教の擁護(ようご)、フランス文花の伝播(でんぱん)という使命感も自らに課していた。



パレスチナにも宗教的利害関係と経済的利権をもっていた。


第一次大戦のころまでには、フランスはシリアをあたかも植民地のように考え、オスマン.トルコも黙認していた。



こうしたわけでイギリスとしては戦争の同盟国としてのフランスを無視するわけにもゆかず、結局オスマン.トルコ帝国が解体した後にもフランスと、シリアの指導権を分割せざる得まいと考えていた。



帝国ロシアも小アジアのあたりの利権をねらっていたが、それはアラブの要求とは競合しない性質の問題であったから、当面イギリスとしては
フランスとアラブの双方の顔を立てた回答を出す必要があった。



問題のパレスチナについてはすでに
シオニストを利用してここをイギリスの拠点とする考え方があったので、ここだけは何としても確保する必要があった。



だから当然フセインの条件をそのままのむわけにはいかなかった。



マクマホン(イギリス)はとりあえずイエスとのノーともはっきりしない回答を送る。


*イギリス、アラブの領土を示す



アラブにとって対英協力のかなめである領土問題が回避されているのにいらだったフセインは催促の返事を送る。




これに応じてイギリスが問題の、歴史的な書簡(しょかん)といわれる回答を送ったのは10月24日になってからであった。



この書簡でイギリスは始めて領土問題について具体的に言及したのである。要旨は次のとおりである。



1:メルシンおよびアレクサンドレッタの地区(DISTRICT)およびダマスカス、ホムス、ハマ、アレッポ各地区の西側のシリア領は純粋にアラブとはいえず、貴下(きか)が提案された領域から除外されるべきである。(以下2〜5項目省略)(同書P100)



この書簡を読めば、イギリスが
フランスの権益を考慮しつつ、一方イギリスの勢力範囲ではイギリス人の顧問は官吏(かんり)を通じて影響力を一手に確保しようとしていたことが明らかだが、それよりも重大なことはこの書簡は将来のフランスとの勢力分割交渉、アラブへの約束の範囲、パレスチナはアラブのものか否かなどをめぐってつねに問題とされたことである。(後略)(同書P102)


*あいまいな領土規定



だが、その後1922年、当時のイギリス植民相ウィンストン.チャーチルはこう説明した。




”DISTRICT(地区)とはアラビア語の
ウィラーヤトのことである。


ダマスカス.ウィラーヤト(註:「シリア.ウィラーヤト」のまちがい?)にはヨルダン川の東岸が含まれている。



だからヨルダン川の西側、つまりパレスチナはマクマホンが留保した領土に含まれる。”(以上、チャーチルの弁)



当時の地図を見ると、アレッポ.ウィラーヤト、シリア、ベイルート.ウィラーヤトは存在するが、ダマスカスはただの町である。



もしチャーチルが
シリア.ウィラーヤトといおうとしてダマスカス.ウィラーヤトといい間違えたのであったとすれば、パレスチナはアラブの独立国の範囲内から除外されたことになる。



当時はすでに
イギリスのパレスチナ委任統治が決定してしまった時で、そう解釈しないと発言は意味をなさない。



それにしても肝心の発言でとちるとは植民相としてはお粗末であったといわねばなるまい。



「アラブの目覚め」の著者アントニウスは次のように解釈している。



DISTORICT(地区)はダマスカス、ホムス、ハマ、アレッポ四都市およびその周辺地区という意味に解しないと、マクマホンの表現は意味を成さない。



すると、マクマホンの除外地区はこれら四都市と周辺地区を連ねた線の西側、つまり北部シリアの海岸部ということで
パレスチナははいらない


さらに、マクマホンとフセインのすべての往復書簡を通じて「エルサレム.サンジャック」(註:オスマン.トルコ帝国が設定した直轄州)という表現が一回も使われていないことに注目しなければならない。



現在のパレスチナ(註:アントニウスがこれを書いた頃は1939年)は元のエルサレム.サンジャックとこれに隣接した元のベイルート.ウィラーヤトの一部から成っている。



マクマホンがフセインと文通していた間、留保したち地域の名前を明記した

(ベイルート.ウィラーヤトについては、マクマホンは彼の三回目の書簡で、「それはアラブの居住地だ」というフセインの反論に対し「この地域にはフランスの権益がからんでいるので慎重に検討したい」留保している。それでもパレスチナ委任統治の領域の一部にしか当たらない)


にもかかわらず、一回も、いな間接的にも、「エルサレム.サンジャック」に言及していないことは
イギリスがアラブに独立を約束した地域からパレスチナが除外されているという伝統を打破するものである、と。



これがアラブの歴史家の代表的な立場であり、現在もそうである。



だから、アラブはパレスチナについてこの時から
イギリスにだまされたと思っているのだ。


(ただし、
シオニストは「パレスチナはマクマホン書簡で除外された」と、解釈しており、イギリスはマクマホン書簡の表現はともかくその後の態度から見ると、明らかにパレスチナを除外している




『要するにイギリスは中東に関して全く無知であった。ただただアラブを味方に取り込むため、アラブ独立の内容は、フランスとの利権の調整を取るためあいまいな表現を取った。これがアラブとの間で問題を起こすことになる(同書P104)』




イギリスはインド洋への通路の確保を狙っていた。



すでにフランスに代わってエジプトを支配し、スエズ運河の防衛にも自信をもったイギリスは、それだけでインドのみならず、アフリカへの交通の要衝(ようしょう)を確保してはいた。



しかし、近代兵器の発達によってシナイ砂漠が、スエズ防衛のための天然の要衝ではあり得ないことは戦争の進展によって明らかになりつつあったし、将来を見こしてフランスのシリアでの権益との間に緩衝(かんしょう)地帯をおく必要があった。



パレスチナはその要求をみたすものであった。

パレスチナはイラクとペルシャ湾への陸上通路の入口でもあった。




イラクにはすでに油田が発見されており、イギリスの食指(しょくし)をそそっていた。

イギリスはまたシオニストの歓心を買えば、彼らを利用してアメリカの参戦その他アメリカから有利な援助を得られるかもしれないとも考えていた。



ワイツマン(註:前述、初代イスラエル大統領)はそういったイギリスのハラを見抜いていた。


     (中略)



ワイツマンは特殊なコネも築き上げた。



彼は著名な化学者であった。




1916年の初め、イギリス海軍省に請(こ)われて就職し、コルダイト爆薬の溶媒(ようばい)として必要なアセトンを大量に製造する技術を開発し始める。


     (中略)



ワイツマンは開発に成功する。



この時ウィンストン.チャーチルと知り合う。



後年シオニストの熱心な支持者となったチャーチルは海軍大臣だったのである。



仕事を通じてワイツマンはイギリス政府のさまざまな要人と知り合う。



その中にはチャーチルの後任となった後年の外相(がいしょう)
バルフォアもいた。


14年の末に会ったロイド.ジョージは軍需大臣となっており、ますます親密になった。



いささかオーバーだとは思うが、ロイド.ジョージはその回顧録の中で「バルフォア宣言を発表したのには、私が首相になった時、ワイツマンの戦争に対する貢献にむくいるという気持ちもあった」と書いている。(同書P107)




1916年末、ロイド.ジョージが首相となり、バルフォアが外相となった。



ワイツマンに絶好のチャンスがめぐってきた。



戦争は中東に波及しており、マレー将軍を総司令官とするイギリスの「エジプト遠征軍」がスエズからパレスチナをうかがっていた。



イギリスは戦後処理の計画をいっそう具体的に進める必要に駆られていた。



シオニストの存在はそうしたイギリスにはきわめて有利に見えたのである。



つまり、
イギリスの眼にはすべてのユダヤ人はヨーロッパ人として映っていた。



ワイツマンのような「非同化」ユダヤ人でも西ヨーロッパで教育を受け、西ヨーロッパを基盤としてシオニスト活動を行なっていたのだから、イギリスがそう思うのは無理もなかった。



第一、ワイツマンはイギリスに帰化したユダヤ人であった。




そうしたところから、要衝(ようしょう)パレスチナを確保する最も安全な方法は、そこに
気心のわかったユダヤ人の国をつくることである、という信念がイギリス政府の中にできたのである。



ただ、これを実現する形式の上でワイツマンには満足できない点があった。



それはイギリスがパレスチナの国際管理、英仏または
英米による共同管理などを検討していたことであった。



ワイツマンの目標はパレスチナをイギリスの保護国とすることであった。



むろん、イギリスの保護下で、ユダヤ人の国づくりが促進されるという確信があったからである。



彼はイギリス外務省内のシオニズム理解者を次々と訪問して「
パレスチナのユダヤ国家こそがイギリスの安定勢力である」と説いて回り、次第に理解者をふやした。




奇妙なことに、そういったワイツマンの活動に対して最も強力に反対したのは同化ユダヤ人であった。


   (中略)


”「ユダヤ人とは宗教的な存在以外の何ものでもない。ユダヤ人は民族郷土を要求すべきでない。現在パレスチナにいるユダヤ人にとって必要なことは宗教的、市民的自由、移民と植民のための合理的便宜(べんぎ)であり、それ以上ではない」”


(上文、1917年ロンドンの「ザ.タイムズ」紙において、イギリス.ユダヤ協会会長のモンテフィアを中心とする同化ユダヤ人指導者たちによる長い声明文が掲載される)



ワイツマンは同化ユダヤ人たちと対決すべき時が来たと決断する。



ワイツマンはロンドンのロスチャイルド卿とともにバルフォア外相を訪問し「イギリス政府がわれわれのために明確な支持と激励の宣言を行なう時期が来たと信じる」と申し入れる。



バルフォアは同意し、「君たちが草案を書き上げてきたまえ。そうすれば閣議で検討する」と返事を与える。



1917年7月18日、ワイツマンらは最終草案を書き上げる。



以下全文



”イギリス政府は世界シオニスト機構の目的を検討した後、パレスチナをユダヤ人の民族郷土(ナショナル.ホーム)として認める原則を受け入れ、戦争が成功を収めた後、講和の成立によって設立されるべき保護の下でパレスチナにユダヤ人がその民族として生存を確立する権利を認める。


イギリス政府はこの原則を実現するために、パレスチナのユダヤ人に自治を与えること、ユダヤ人の移民の自由、パレスチナの最建と経済発展のために「ユダヤ国民植民公社」の勅許状は、イギリス政府の見解によれば、世界シオニスト機構の代表と詳細に検討し、決定すべきものとする。”


      (中略)



ワイツマンは8月17日、アメリカの同志に対し「草案は外務省の賛成を得た。ロイド.ジョージ首相の承認も獲得した」と打電している。



問題は閣議であった。



9月に開かれた閣議で草案アは討議されたが、モンテーギュー.インド担当国務相の反対でたな上げとなった。



モンテーギューは同化ユダヤ人で、シオニズムを認めることは祖国イギリスに対するユダヤ人の反逆をそそのかし、その結果かえって反ユダヤ主義をあおることになるというのが反対の理由であった。



閣議は10月に再び草案を取り上げるが、この席でもモンテーギューは猛烈な反対論を展開する。




モンテーギューの反対、また同化ユダヤ人たちがそれまでに展開してきた宣伝戦などのため、閣議は次のような妥協案を作成してワイツマンの意見を求めてきた。




”イギリス政府はパレスチナにユダヤ人のための民族郷土を設立することに賛成、この目的の達成を容易にするため最善の努力を払う。

ただし、パレスチナに現住する非ユダヤ社会の市民的、宗教的権利および他の諸国におけるユダヤ人の享受(きょうじゅ)する権利と政治的地位をそこなうことはしないむね明確に了解される。1917年11月2日”



この妥協案はシオニストにとって大きなショックだった。




シオニストの原案には「パレスチナ
ユダヤ人の民族郷土として認める原則を受け入れる」とあるのに対し妥協案は「パレスチナユダヤ人種のための民族郷土を設立することに賛成」となっている。(註:「を(OF)」と「に(IN)」の違いに注目)

(以上同書P108〜P112)




しかし、このワイツマンの言葉からいえることは、シオニストがパレスチナをわが郷土とすることを急いで、ほとんどまたは全然
アラブの存在を無視していたことである。(同書P114)






以上、長々と部分抜粋してきたのは「カナン=パレスチナ」をめぐる近代のイスラエル国家設立までの歴史的戦略である。





では、視点を変え、聖書に記されているパレスチナの先住民「カナン人」とはどんな種族であろう。




同書からそれらしき箇所を抜粋して見る。





”(前略)、、、「
カナン人もアラブ人である


          (中略)


現在のパレスチナ.アラブとは、ペリシテ人、カナン人以来、混血しながらパレスチナに住み続けてきた彼らの子孫で、七世紀にたまたま回教徒(イスラム教)となったにすぎない。

          (中略)


イスラエル(ユダヤ人)は古代、現代を通じてアラブの
あとから侵入してきたよそ者である。パレスチは土着の人間である現在のアラブのものなのだ。

          (中略)


パレスチナに最初の
ダビデ王国という強力な政治的な総合体をつくったのはイスラエル(ユダヤ)で、アラブがそれを実現するのは七世紀のウマイヤ王朝になってからである。

          (中略)


アラブにとってイスラエルは不正義だ。”


(以上「同書」、P40~からの抜粋)





続きは後日にしよう。



2001年10月26日(金)

追記:



しかし、ここまで来るともう誰もついて来ないだろう。

もはや、ついてくるついて来ない、の段階ではない。


権威主義に凝り固まり、読まない方が悪いのである。


おそらく百冊分ほどの考えが放り込まれているからである。


読んでいる者にとって読まない者は、もはや取るに足らない「無学の人」である。それは職業に関係がない。政治家を見ればわかるであろう。

「ああ、こいつは耳学問でもの言ってるな」である。

一般インテリ族で言えば、「あっ、テレビと同じ意見言ってる」である。


ならちゃんと「テレビで言ってたのだが、、」と前置きした方が過大評価されなくてよい。


コピー.ジャズしか披露できない「インテリ族」に多い性質である。


すぐれた内容をもつ音楽には相手が好きも嫌いもないのである。


そうして物事は学ぶしかないのである。


必聴!、必読!があるのみ。


2001年10月26日(金)午前6時10分


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     8:私の宗教理解 その2 「2001年10月27日(土)」




話しを再び、旧約聖書の世界にもどり進めてみる。



やがて、そのイスラエル(ユダヤ)の民から、私は、神ヤハウエの息子である、としてイエス.キリストが誕生する。



彼は、ユダヤ教の様々な儀式を否定する。



そして、
私の力を信じるだけで救われる、と説く。



悪人であろうが、善人であろうが関係ない。



私を「信じる」だけでよい、と説く。



あなたがたは何の努力をしなくてもよい。



ただ、私の言う事を一日も早く世の中に広めてやがて来る「最後の審判の日」に備えなさい、という。



キリスト教では、最後の審判はすぐに来るとし、ゆえにイエスは、
一日も早く、自分の教えを世界に広めなさい、としている。



『一方、イスラムは「最後の審判」は、やがてイスラムの人間が「天国」へ行くための審判の日であるがそれが何時だとは言っていない。(小室直樹「宗教論」徳間書店参考)』



キリスト教は、最後の審判は、もうすぐだ、と言い続けて2000年ほど経っている。

世の中は、天国としての神の国へ住む者と地獄へ落ちる者は既に神によって決定されている。



あなた方は、その事に大してどうする事もできない。



できないまま、最後の審判は、やがてすぐやって来る。



その審判では、既に亡くなった者も肉体を取り戻し再び生き返り、現在、生きている者と一緒に審査され、天国へ行く者か地獄へ行く者かの「宣告」がなされる。



この審判には逆らう事はできない。



既に、これから何をしようが、その運命は神により決まっている。



あなた方にできる事は、ただ私の奇跡を信じ、できるだけ多くの人に「やがて最後の審判が来る」という事を伝え、私を信じ、ひたすら神に祈り、自分の運命をいさぎよく認め、最後の審判を待ちなさい、とイエスは説く。


どんなに善行を重ねても、悪行を行なっても、この運命からは逃げられない。(小室直樹、同書)



ただ、私は、常にあなた達と共にいるから安心してその運命に従いなさい、と説く。



「儀式や戒律など守らなくてよい、ひたすら私の存在を信じなさい、それだけで十分」とするイエスは、ユダヤ教の儀式を司(つかさど)る権力者集団等の陰謀によってローマ総督により十字架に張り付けにされる。



また、イエスを、イスラエルの民を独立させてくれると信じ、ユダヤの救世主として信じていたユダヤの民もイエスが目指す「神の国」は、ローマ帝国を滅ぼして後に築かれる「国」でない事を知り失望する。



イエスの説く「神の国」は、心の中の世界であった。



時のローマ総督は、どうしてもイエスに罪を見出せず、また、殺したくなかったため「過越祭(すぎこしさい)には、誰かひとりを釈放する事になっている」として、殺人の罪で捕らえられている極悪人「バラバ」とイエスのどちらかを釈放しなくては、ならない、という機転を思い付きどちらを助けるか選択せよ、と言う。


民が、まさか極悪人「バラバ」を選ぶわけがない、と考えていた。



しかし、その思惑ははずれ、民衆は、イエスの処刑を要求する。



バラバの釈放でよい、とする。



イエスは、処刑されるが、予告通り、肉体が復活する。



このイエスの処刑により、人間がアダムとエバ(イブ)により犯した罪は、すべて無くなり、神が人間に与えた「死」という罰もなくなった、とされる。



これにより人間は再び不死の存在となる(はずである)。



『ユダヤ教は、イエスをメシア(救済者)として認めていず、単なる預言者としているためアダムとエバが楽園を追放されて以来、民はその原罪を背負ったまま今日まで来ている、としている。まだ、メシアは現れていない。』



この救世主イエスの復活によりやがて悪魔との戦いに勝ち、再び神により統治される「神の国、千年王国(ミレニアム)」が出現する。



キリスト教の言う「神の国」は、あくまでも現世の世界である。



この現世が「神の国」になるのである。



キリスト教では「天国」がどういうものであるかは書かれていない。




『イスラム教においては「天国」は具体的である。

今、現在の肉体を持って天国で快楽の極地を体験するのである。



イスラムの「聖戦」(宗教のための戦い)に参加する者は、最後の審判を待たずして死んだら即「天国」へ入る事ができる。

だから、いかような目に合っても平気なのである。

足が無くなろうが、手が無くなろうが、、、。とにかくも「天国」は、快楽の極地の日々が送れる土地である。水や緑が豊かな。』




この「神の国」の出現を信じているのがキリスト教である。



再三、言うがそれがどんな世界かは具体的にはない。(同著、小室直樹)



キリスト教の使命は、とにかく、その事をできるだけ一日も早くみんなに伝える事にある。



なぜなら、最後の審判(一人一人の人間の天国行きか地獄行きか審判の日)では、既に天国へ行く者(「エリート(選ばれし者)、地獄へ行く者は、神の自由意志により決定している。



『イスラムでは、右肩に善行を成した帳簿が、左肩に悪行の帳簿が記されその「貸借(たいしゃく)対照表」により決定される。


予言者マホメットは商人出身である。


だから何でもよいから、何時来るかわからない審判の日までにできるだけ多くの善行を重ねよう、とする。


例え、道を知らなくても、道に迷った者へなんらかの示唆(しさ)をして通り過ぎる、という。


少しでも善行の点数を得るためである。


「困っている人を助けようと思った私の行為は、例え道がデタラメであったとしても善意より出た行為である」、と自己を納得させている、という。信じるか信じないかは相手の問題である。(「日本人の知らなかったイスラム教」佐々木良昭、青春出版1987年より)』



しかし、キリスト教は、天国がどういう所であるかは一切聖書には書いていないため、そこがどんな所かは実際は不明である。



また、地獄へ行く者、天国へ行く者もすべて最初から決まっていて、何をしてもそれは変えられない。



要するに、じたばたせず私を信じてすべてをあきらめなさい、である。



この、どうする事もできない人間界の生活をめぐってキリスト教同志の
血の内乱が繰り替えされていく。



どうせ決まっているのだから
人間の事は人間同志で決めるべきだ、とする一派(原始カトリック)と、否(いや)、聖書にしたがいイエスのように禁欲的な修行あるのみ後はすべて神イエスが人間の是非を決めるもの、とする一派(原始プロテスタント)など、が生まれる。


さらにその中でもイエスは人間か神か、という
血の論争が起こる。



現在は、イエスは、神であって人間でもある、現人神(あらひとがみ)である、という会議での決定が基本となる。(「ニケア公会議、325年」、「カルケドン信条、451年」)



イエスは人間である、とする一派は、邪教とされ撲滅される。


そして、このユダヤ教、キリスト教の後に、商人のマホメット(ムハマド)が突然、神により
最後の予言者として選ばれる。



マホメットが偉いわけではない。マホメットは神(アッラー)の声を聞いて伝えているに過ぎない。


したがい、マホメットの発言は、神の言葉である。



『預言者に選ばれるのも神の自由な意志による。その者が善行をしたとか、悪行をしたとかは一切無関係である。モーセしかりイエスしかり。イエスは、その地位を越え、自分は「神の子」である、とした所からユダヤ教との確執が始ったのである。イスラム教では、ムーサー(モーセ)もイーサー(イエス)も単なる予言者の一人である、としている。』



ユダヤ教における神ヤハウエもイエスの父である神もイスラムで言うアッラーの神も同一の神であり、
世界の創造主の事である。



それぞれが「一神教」と言う事である。


基本的には同一の神である。


しかし、ここにそれぞれの対立がある。



まず、ユダヤ教もイスラム教も
集団救済の宗教である。



個人の救済などどうでもよい。




民族全体の救済が第一である。



しかしキリスト教は、
個人救済の宗教である。



民族全体の幸せよりも、個人個人の心の救済を方が大切である、とする宗教である。



まず根本的に、この点が重要な事である、としている。



「儒教」もこの点で「個人救済」などどうでもよい。



だから「儒教」を説く者は、みんな貧しい。



どんなに極めても貧しいままである。



要は、国家救済の「宗教」である。





また、キリスト教には、「三位(さんみ)一体(いったい)」の概念がある。



三位一体とは、イエス(ヨシュア)とその父、ヤハウエ(エホバ)と天使(精霊)は一体である、という考え方である。

偶像を崇拝してはならない、とするイスラムでは、電話、テレビでさえも普及するのに抵抗があったという。

電話を通じて聖典「コーラン」を朗読させ、これが悪魔の発明品とすればコーランは正しく伝わらないはずだ、という一休さんのような弁で、法学者たちに導入を認めさせた指導者に始るという。



以上の偶像崇拝と言う点からキリスト教の三位一体は一神教ではなく三神教であり、これにマリア像を加えれば
四神教となるではないか、とユダヤ教、イスラム教の側からは指摘されている。(同書、小室直樹)


しかし、現在、イスラムは、最も他の宗教崇拝には寛大である。



『イスラムにはすべての国民に一律の所得税らしきもの(ザカート税)がある(所得は自己申告、嘘をつけばアッラーが赦さない、とする。そのかわり学校、病院は無料。異教徒の住人には納税の義務がある。したがいイスラムばかりでは国の経済が成り立たない。(「日本人が知らなかったイスラム教」青春出版1987年より』



ただ、アッラーこそが最高神であるのに、残念ではある、という立場である。

『まず、基本的な事実は、1917年に「バルフォア宣言(前述10/26)」が出るまでアラブとユダヤ人は平和に共存してきたということである。


むろん、例外的な事実ある。古い例では、1世紀のころユダヤ人の反乱を討伐(とうばつ)するためパレスチナに来たローマ軍に、アラブといわれるナバテア人が合流していた。


また、マホメット自身もユダヤ教徒を殺したことがある。


最初熱心にユダヤ教徒の改宗を試み、これに失敗すると手兵をもってユダヤ人の部族を襲い、一部を殺し、他を追放し、残りを強制的に改宗させた。626年の事件である。


アラーの指示によりマホメットがお祈りの方向をエルサレムからメッカへ変えさせたのもこのころであった。


下って、11ー12世紀にスペインを支配した狂信的なアル.ムラービト、アル.モハド両王朝はユダヤ教徒を弾圧、殺害または追放した。



だが、これらはいずれもアラブとユダヤ人の正面衝突とはいえない。ナバテア人の場合、衝突したのはローマとユダヤ人であり、ナバテア人はユダヤ人と共存していた期間の方が遥かに長かった。



確かにマホメットはユダヤ教徒を嫌ったが、キリスト教徒とともにユダヤ教徒を「教典の民」(同じ神の啓示書をもった民、という意味)と名づけ、他の異教徒よりも一段と高い地位を与えたのはマホメットその人であった。



「これら両教徒もイスラームへ改宗させる努力はしなければならぬが、失敗したら人頭税の支払いと交換に彼らの生命、財産と信教の自由を保証すべきである」---これがマホメットの本音であった。(「パレスチナ」朝日撰書、同書よりP52~53)



しかし、この事を上げるなら、その何億倍も中東世界に対して残虐な殺戮(さつりく)をしたキリスト教の1099年7月エルサレムでの「
十字軍」の話をしなくてはならない。


十字軍:


ローマ教皇に救いを求めたのは聖地のキリスト教徒ではなく、ビザンツ皇帝だった。



皇帝は、当時アナトリア半島にまで進出して来たセルジューク.トルコの圧力に耐えかね、傭兵隊の派遣を要請したのだったが、その際教皇の関心を引くため、「聖地で迫害が起こっている」とウソをついた。



そのウソを真に受けた教皇の心の中では、援軍よりも十字軍派遣の構想の方が巨大化して行く。教皇は現地の事情に暗く、兵士はさらに無知だったから、1099年7月、エルサレムになだれこんだ彼らは、原住民をユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒の区別なく虐殺(ぎゃくさつ)し、喜びにむせび泣きながらイエスの墓に詣(もう)でた。

肩に十字の布切れを縫いつけ、女子どもの区別なく殺しまくる彼らは、当時高度な文明社会に住んでいた現地の人びとにとっては、蛮族以外の何ものでもなかった。

(学研雑誌「最新中東論」1991年P29~、牟田口義郎氏執筆部分、』


イスラム内部でのスンニー派、シーア派、というのは、マホメットの後継者をめぐって、その血族とすべき、という一派(シーア派)とマホメットの側近により始る一派(スンニー派)の確執(かくしつ)である。


シーア派は、血縁の者しか認めない一派である。



マホメットの娘ファティーマの夫アリーをその後継者とする一派である。



しかし、アラブでは「力ある者が首長(しゅちょう)」という原則がある。


アリーは、それに値しなかった、がために暗殺される。



二人の孫である兄のハサンと弟のフセインも悲惨な死をとげる。



この悲劇が、イスラム史上で重要な「
カルバラーの悲劇」である。



最初のアラブ帝国となったウマイヤ王朝に反抗する人びとが、アリー、ハサン、フセインの三人を殉教者として聖化されウマイア王朝の御用学者たちの教えとその宗教法に対抗する教義をつくる。



これが「シーア派」の起源である。



しかし、これはあくまでも大儀名分で、実際は宗教上の問題ではなく政治上の反逆のための大義名分としている。(「イスラムからの発想」大島直哉 講談社現代新書1981年)



しかし、シーア派であっても、スンニー派を名乗る者ばかりである、という。

なぜなら「スンニー」とは「マホメットの言行に従う者」という意味であるからシーア派であってもスンニー派であると国勢調査では主張するのだという。


したがい、実際の「シーア派」の実体は正確な数字ではない、という。



これを判別するには、孫のフセインが、イラクのカルバラーの地でウマイア一族と戦って戦死した「殉教の日」であるイスラム歴(太陰暦)の第一月のムハッラム月の10日を見れば「シーア派」の異様な行事が始る、という。


裸体の男の信者たちが鎖やムチで自分の背中を本気で打ちながら行進する、という異様で凄まじい行進をする行事がある、という。


血も流れる。


スンニ−派の人びとも「気違い沙汰だ」と言って見ているという。


行進が終ると、広場や野原でフセインの殉教のシーンを再現し、いっそう激しく悲歎にくれる。


夜になると、子供たちもフセインの死を悲しむ唄を合唱しながら歩き回る、大人は家にとじこもり忍び泣きを続ける。町中が悲しみで満ちる。

(同書「イスラムからの発想」P131)


こうした各宗教の内部の実体は様々である。


キリスト教であっても例外ではない。



カトリック、プロテスタント、ギリシャ正教、クリスチャン.サイエンス(「生長の家」に影響を与えた)、モルモン教、ものみの塔(エホバの証人)、世界基督教統一神霊教会(原理運動)、「イエスの方舟」というものもあった。(「宗教の時代--人はなぜ神様にシビレるのか?」小田晋著、はまの出版1986年より)


キリスト教は、一応、内部の「血の抗争」の時代は既に終っている。



キリスト教が外部の弾圧を逃れ、生き延びて来た最大の理由は、内的信仰心と外的な行動を分離させた事にある。


外的な支配には従う、しかし、内面の心までは支配されない、という内としての心と外としての行動を峻別(しゅんべつ)した事が最大の理由である。


つまり、その国の政治には従う、という信仰である。



これが政教分離に発展して行った。



したがい、キリスト教はあらゆる国に拡がって行く。



日本での「踏み絵」は、その教義がまだ確立されていなかった不幸である。



心と行動は別なもの、という信仰である。



長い間の宗教弾圧の歴史による「知恵」である。



マルチン.ルターの宗教改革の主な原因は一般に言われているカトリック協会が「免罪符」を売りさばき、勝手に人間の罪を解消し営利を貪(むさぼ)っていたからではない。



免罪符はルターの出現よりも二百年以上も前に既に売られていたからである。


あくまでもカトリック教会が、心の中でのイエスへの信仰を絶対としないで、外面的行動によっても救済される、という教義を打立てたからである。


金銭を免罪符発行によって得ていたから、ではない。(同書、小室直樹)



ここで中近東のイスラム社会が西欧のキリスト社会を嫌う最大の理由がある。


それは、
キリスト教はもともと我々が教えてやったもの、という事実である。


イスラム社会から外来した言葉で我々になじみのあるものは色々ある。


「アルコール」「コーヒー」「アラビア数字(1,2,3,4、、、)」などがある。




『余談だが、イラン人によればペルシャ語と日本語の接点も指摘する。


「チャランポラン」「ホーメン(方面)」「ナーム(名前)」など。


奈良時代の木像彫刻が波渡人(ハッシ人「イラン人の祖先」)という祖先をモデルにして、鼻が高かったり目が大きかったりしている。


また、日本人がイラン人をアラブ人と誤解しているのが悲しい、という。


イランは中東ではなくアジアの一国である、と主張している。


(レザ.アミリ「保名貿易 代表取締役」、学研雑誌「最新中東論」1991年P121~)』





簡単に言えば、当時、中世ヨーロッパでは民衆の識字(しきじ)率は相当低い。2パーセント以下とも言われていた。


カトリック僧侶ですら、ギリシャ語が読める人はほとんどいない。


それに対して11世紀の
サラセン(昔のアラブ、イスラム教徒の呼称、しかしこれはヨーロッパ人が外から見て名付けた呼称である。アラブ内では使用されていない)諸国では識字率は100パーセントに近い。


ギリシャ語を読む者も多かった。



イスラム教においても「旧約聖書」の多くが聖典とされている。


(「旧約」という言い方はあくまでもキリスト教側の呼称。「原理主義」と同様。)


さらにギリシャ哲学も研究されていた。(当初、西欧社会は軽視していた)


したがい、ヨーロッパの有力な神学者がサラセン諸国に留学してキリスト教神学を学んでいる。



イスラム教徒にしてみれば、「キリスト教でさえ、我々がキリスト教徒に教えてやったんだ!」という立場である。



この事をイスラム教徒は忘れていない。(同書、小室直樹)




つまり、これは、お金持ちとなって成功した、かつての「弟子」たちの恩知らずな言動、行動に対する「怒り」が根底に常に流れている、という。



この例えは、私にはよくわかる。



これには、
人間はなぜ過去に尊敬していた人をやがて見下げるようになるのか、という深い思索もある。(岸田秀「嫉妬の時代」飛鳥新社1987 年)



したがい、当時のヨーロッパのカトリック教会では、信者は聖書なんか読んでいない。



賛美歌を歌ったり、祈祷(きとう)書を読んだりしてごまかしていた。



ラテン語の聖書さえ5世紀初頭にできあがっている。



それまでは、ヘブライ語とギリシャ語の聖書である。



各国語訳の聖書は、マルチンルターの「宗教改革」の後でありプロテスタントによってなされた。



『信者は聖書を読まない?これは昨今もあやしい。

バンド活動の方は夢中である。

まあ、しかし、日本における宗教は、サークル活動的快感による。

要するに、社会においての疎外感だけ解消されれば何でもよいのである。

新興宗教であれ、既存のものであれ、仲間がいればそれで十分なのである。また、実際それで、十分救済されている。』




さて、こうして大分いいかげんにはしょってユダヤ教、キリスト教、イスラム教の「共通項」を見て来た。



こうしたテーマで常に、弾(はじ)き出されているのが「パレスチナ人」である。




以下は「パレスチナとは何か」岩波書店1995年よりの抜粋である。

掲載されている写真とその解説が絶品の書である。



”1948年(イスラエル建国)以降、私たちの存在は、ずっと軽視されてきた。私たちが、これまでに経験してきたことの多くは、記録にとどめられていない。私たちの多くが殺害され、また多くが負傷し発言権を奪われても、何の痕跡(こんせき)も残っていないのである。



そして私たちを表象するために用いられるイメージの数々は、現実の私たちの姿をさらに矮小(わいしょう)化するばかりなのだ。



ほとんどの人々にとってパレスチナ人とは、主に闘士、テロリスト、始末に困る浮浪者(パーリア)としてのみ目立つ存在である。


試みに「テロ」という言葉を発してみるがいい。


クーフィーヤ(頭巾)と覆面(マスク)を身に着け、カラシニコフ銃を携(たずさ)えた男の姿が、すぐさま眼前(がんぜん)で跳梁(ちょうりょう)するであろう。


寄るべない難民の哀れを催す姿も、近頃ではある程度まで、「パレスチナ人」の真正な偶像としてのこのような威嚇(いかく)的なイメージによってとって代わられてしまっている。


そうした間にも、パレスチナの人々を取り巻く状況の大きな変化は、ほとんど毎日のように私たちの現実を込み入らせ続けている。



ある時期には、イスラエルの指令を受けて行動するレバノンのマロン派キリスト教徒の国民兵たち(くどい言い方のようだが、いったい誰の責任があるのかを念入りにはっきりさせておくことが重要である)によって、幾人(いくにん)ものパレスチナ人がサブラーとシャーティーラー(西ベイルートにあるパレスチナ難民キャンプの名前)で虐殺(ぎゃくさつ)された(1982年9月16日、
二千から三千人の無抵抗の難民が虐殺された)。



また別の時期には、おそらくシリアの命令に従って行動するシーア派の軍事組織アマルが、同じサブラーとシャーティーラーのキャンプで包囲して、ほんの少し前にイスラエルの残虐性の恐るべき象徴となったばかりのものと同様な残虐行為の多くを犯したのである。(同書P4)



(中略)



アイデンテイティー、私たちは誰であり、どこの出身で、何であるかということ-------を流浪(るろう)の身で維持すことは難しい。


他の大部分の人々は、アイデンティティ−など自明のものだと思い込んでいる。


パレスチナ人の場合、そうはいかない。


大なり小なり絶え間なくアイデンティティ−の証拠を示すことを要求されるからである。


私たちがテロリストと見なされているということばかりではない。


(他のどこにでもなく)パレスチナに本源的な所有権を有する土着のアラブ人居住者として私たちの存在が、否定もしくは疑問視されているのだ。


しかも、それがすべてだというわけでもない。


そのようなものとして私たちの存在は、イスラエルの民主主義や偉業や興奮に対する讃辞(さんじ)と否定的に結びつけられるのである。


大半の西洋的レトリックにおいて、私たちは、ナチや反セム主義者が占めている場所にいつの間にか滑り込まされてしまう。



政治的な無名性と再移住を除けば、私たちが集団的に抱負を持てることなど、ほとんどありはしない。



私たちが有名なのは、実現を見た偉業や尊敬に値する特徴などのためではなく、もっぱら中東の平和を乱した厚かましさによるとされるのだ。


西岸に移住したイスラエル人のなかには、こう言う者がいる。


「パレスチナ人がここにとどまるのは構わないが、あくまでも諸権利を持たない外国人居住者としてである」。


他のイスラエル人の主張と比べれば、これでも、まだ親切なほうだ。


確かに私たちには、輝かしい業績という遺産によって自分たちを保護してくれるアインシュタインやシャガールやフロイトやルービンシュタインのような(友寄、註:全員、ユダヤ人)著名人はいない。


私たちには、世界中の同情を味方にできるようなホロコースト「大量虐殺」の経験もない。


私たちは、「他者」であり、対立者であり、移住と出国「エクソダス(友寄、註:聖書「出(エクソダス)エジプト」よりもじり)」の幾何学(きかがく)における汚点なのだ。


沈黙と慎重さこそ、痛手を蔽(おお)い隠し、身柄(みがら)の捜索を遅らせ、喪失感が疼(うず)くのを和(やわ)らげてくれるものにほかならない。(同書P22~23)



私たちはユダヤ人ではないし、外国人居住区として以外にイスラエル内に占め得る場所などなく、つまり、アウトサイダーにほかならない。


アラブ諸国においては、私たちは、それは異なった位置にある。


そこでは私たちはアラブ人なのだが、国民化の過程が私たちを排除するのである。



エジプトは、エジプト人のためのエジプト人による国であり、イラクは、イラク人のためのイラク人による国なのだ。


どちらにしても、パレスチナ人を容認することは不可能な体制であり、パレスチナ人の熱烈な民族復興は、それらとは切り離された現象だということになる。


つまり私たちは、他のアラブ人とは同じでありながら、やはり違っているのだ。


私たちは、アラブ人としてしか存在しようがない。


ただし、他の「アラブ人」はレバノン人、ヨルダン人、モロッコ人、クウェート人等々として別個に存在しているのである。(P47~48)


(以上、「パレスチナとは何か」AFTER THE LAST SKY エドワード.W.サイード著、ジャン.モア写真、島弘之訳、岩波書店1995年より抜粋)





『では「アラブ」とは何か?


まず、アラビア語である。語源に定説はない。


しかし、ヘブライ語の「アラーバー(砂漠)」エチオピア語の「アブラ(乾く、荒れ果てる)」との関連を上げている。


イギリスの中東研究の権威であるバーナード.ルイス教授(「アラブの歴史」著)は、「アラーバー」を「暗い土地またはステップ地帯」という意味だと解している。(「パレスチナ」笹川正博、朝日撰書18、朝日新聞社1974年)


コーランの中で「アラブ」といえば「ベドウィン」(アラビア半島の遊牧民)を意味するという。


一般的な概念として、先の教授は、「アラブ民族主義運動の理論家にとっては、アラビア語を話し過去のアラブの栄光を記憶にとどめ、慈(いつく)しむ者はすべてアラブである」、としている。(同書、)』




最後に、イスラム教のハディース(伝承)が教える ”終末の日”が来る前兆を上げる。


1:智が影を薄くし、時は光りとともに移る。災禍が連なり、生命が軽んじられる時


2:性の別の壁が厚さを減んじる時。


3;女が家の内と外をひとつにし、装いを軽くする時。


4;人が高所を好み、居をかまえることを競う時。


5:親と子の絆(きずな)がゆるみ、子が忘恩(ぼうおん)になる時。


6:価値が軽んじられ、価値をもてあそぶ時


7:権力が強者から弱者に移る時。


8:覇者の契(ちぎ)りが裏切られる時。


9:大地が波打ち、寝所が姿を消す時。


10:疾病(しっぺい)が流行り、人が癒(いやさ)る術を失った時。


11:救い主が求められ、降臨(こうりん)の日が近づいた時。


(「日本人が知らなかったイスラム教」佐々木良昭 青春出版1987年より抜粋)




今回はこのくらいだろう。




2001年10月27日(土) 午前6時14分



追記:



宗教の問題はうっとおしい。


何かしらの宗教の信者が私を勧誘しようとする事がある。



例えば、何年もキリスト教関連の本を読み続けていたとしても、突然、キリスト教の洗礼を受けた、とする信者からキリスト教の教えを説教される事がある。



洗礼を受けた者が一番の理解者である、というエリート意識に支配されてしまっているのだろう。


しかし、その本質に従えば、聖書だけあれば十分である。


さらに本質をたどれば、できるだけ多くの者にその教えを伝える事が使命である。


しかし、私をいくら勧誘しようとしても無駄であるのに、様々にかき集めた俄(にわか)知識を披露してくるのである。


哀れな。


これでは生涯、救われる事はない。


宗教の問題は、そこに書かれている事をどれくらい信じているか、の度合いによって「救い」の度合いも比例して来る。



これは「理解する」こととは別である。


宗教の目的は「救済」である。



ある宗教が蔓延(まんえん)すると、その体制からこぼれた弱者、あるいは貧者の「苦」を救うために新たな「宗教」は発明されている。



それはまさしく「救済」である。


なぜなら、救われた強者より、常に救われない弱者の方が多数派であるからである。



しかし、再三言うが現在の日本では宗教は単なる「仲間づくり」のサークル活動でしかない者が大半である。教えは何でもよい。


つまり「ごっこ」である。「宗教ごっこ」である。



秘密少年少女探偵団である。



その証拠に、彼らの言動、行動はしばしば社会的ルール外にある。


その疎外感が彼らに仲間意識を植え付けたのである。



なぜなら、彼らはその疎外感の発端が自己の言動、行動にある、とは考えなかったからである。


考えないまま、相変わらずの常識感のまま社会に生きる。



そしてまた、その疎外感は、サークル内でも再び同様な「社会」を形成する。



終らない旅である。



ともあれ、このページの一文が私への宗教勧誘を断念する者を生み、巷(ちまた)の宗教知ったかぶり合戦から撤退できる機会を与えられる事が本望である。


私は単なるヒマ人の宗教ワッチャーであり、こんな時代にあり、仕方なく音楽に関わっているのだ、という事がわかってもらえたら諸々の手間が省けるのである。


私は、元々、こうした視点からジャズを視ているのであり、けっしてジャズの視点からこうした事を視ている種の人間ではない、という事である。


したがい、私は、すべてにおいて「部外者」の視点を持つアイデンティティーというものが存在しない種の人間の一人である。


ゆえに、パレスチナ人が少しは理解できる、と思うのである。


「テロ」の事ではない、念のため。


作家で尼僧(にそう)の、瀬戸内寂聴(じゃくちょう)は「報復攻撃」への反対を念じ3日間の断食に入ると言う。


弱者の境遇を我身に感じるための「行(ぎょう)」なのであろうか。


しかし、高齢である。


(80歳、イラン、イラク戦争の時は、7日間の断食がやれたそうだが今はこれが限界だという。断食の期間は、ひたすら写経するのだという、外国人も含めて150人がつきあったそうだ。)


世を憂う「大人」の一人である。


非力な自己にできる事をやっているのである。


自己の信じたものに従って。



そこからまた新たな活動の「エネルギー」を授かるのである。




一昨日偶然、深夜のテレビで「被爆したマリア様」を見た。



我々にできる事は「祈る」日々を送るだけである。


今回の連作は、人類が滅亡するまでの永久保存版の「常識」である。


音楽で言えば、ドレミファソラシド の類である。



しかし、本当にみんな「
しい」のだろうか。



問題はそこにもある。




是非は問わず。







2001年10月28日(日)





PS: 10月31日、水曜日、午前1時より午前5時30分まで配線工事のため「停電」するという。



何という独裁であろうか!


私にとっては重大な事件である。


この時間こそが私にとっては貴重な時間である、というのに。ふざけやがって!


深夜のテレビが見れないじゃないか!


人生を根底から変えてくれる番組があるかもしれない、というのに。


唯一、私が真面目に人生を考える時間である、というのに。


この際だから私も、暗闇の中で「瞑想」して見ようか。


まさか24時間のマンガ喫茶にいるわけはないだろう、フフフ。



2001年10月28日(日)、午前7時42分


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    9:殺す人殺される人 「2001年11月4日(日)」




うだうだしていたら「朝まで生テレビ」が始った。



(だから私の所が停電したら日本文化にとって大損失だって。今日でなくてよかった!)



ちょっと実況中継してみよう。



アメリカ.テロ事件の事で議論している。



専門家があんなに集まってもなかなか意見の一致を見ない。



ああ、そうだったのか、という意見を言い始めると司会の田原総一郎氏が「そんなことより、、」と言ってすぐに話題が変わるから集中できない所がある。



一般の見学者の若者の一人が「日本はアメリカとばかりつき合わないで中国ともっとつきあうべきだ」と言ったら、田原氏が「具体的に言え、何を中国としたらよいのか、同盟国となればいいのか!」と噛みついた。




一般の客などで行くもんではないな。



みんな早口だな。



出席者には、アフガン人の貿易会社の社長もいる。



あっ、アフガン人の意見を無視した。




現地の声はさほど重要じゃないようだ。




今度は、アメリカの戦略の攻撃の仕方のまずさを言い合っている。

こんな所では何を言っても無視されるな。




私のような「プロ」のテレビマ.ニアではない「素人」の視聴者が見ると一番大声で喋った者が優秀なように映るだろうな。




考えながら英語を喋った奴が「しどろもどろ」に見えるような感じだ。




昔、朝まで生テレビで「テレビ」の問題を取り上げた時、テリ−伊藤氏が「なんだよ、そんな言い方ねぇーだろ!」と司会の田原氏に噛み付いたが、あれは「有効」だったな。




大声には大声、怒りには怒りだ。



あっ、デイブ.スペクターが「大体、日本のインテリはみんな反米なんだよ、この番組はそんな者が集まっているんだよ」と言った。



田原氏が「何を言ってるんだ!この番組は中国問題でもロシア問題でもなんでも言える言論の自由を与えているんだ!そんな事言うのはファシズムだ!」と怒った。




「大体、デイブみたいな発言をする奴がいるから反米になるんだよ」と付け加えた。




うーむ、見終ってもさっぱりわからない。




”物言えば唇(くちべる)寒(さむ)し秋の風 ”、かあ。



芭蕉(ばしょう)も朝まで議論したのだろうか。




というわけで、何を言っても埒(らち)が明かない。




なぜ埒が明かないのか、考えて見た。




わかった。




これは、「あいつの性格は良いか悪いか」を全く関係のない人たちが話しているからだ。




あいつはこんな所が悪い、否(いや)、ここは良い!




等と言っているからだ。




それで、そいつと実際つきあっている奴はいないのか、と尋ねたら誰もつきあいはない、という「落ち」だ。




うん、これならどんなに騒いでも結論は出ない。




「当事者」が不在なんだから結論だって別にどうでもよい。



この場合、当事者は自衛隊である。



私とも無関係である。



身内にもいないからどうでもよい。



世の中は何でもかんでもこの理由でこと足りる。


しかしまあ、テレビはわかっててやってるんだろう。




何を話しても何の役にも立たない。




しかし、この番組の進行はすべてを空虚にさせるある「しくみ」がある。




例えば、議題が「三億円事件」だったとする。




誰かがこう言ったとする。




「私の調査によればですね、犯人は***という男がやったという事がわかったわけです」



ここで視聴者は、「え〜!本当か!」とびっくりする。



しかし、即座に司会者が、今はそんな事を議論しているんじゃないでしょ!あのオートバイは中古か新品か、という事を話しているんだから、と即座に制止する。




すると視聴者は何だこいつちゃんと議題にそって発言できないのか、という印象を持つ。



こうしていとも簡単に話しは否定される。



常に、「問題はそんなことではない」と言って提示された情報が無意味なものとして否定される。




とにかく朝まで引き延ばさないといけないので「決定的結論」を出されては困る。




今回も、パレスチナ問題にふれた時、投獄されたパレスチナ解放運動に参加した元過激派の母を持つ娘が一般人の席に居て、「パレスチナ人は水も出ない地域に押しやられて水さえもイスラエルから買わなくてはいけない」と指摘した。



ここで、視聴者は「なるほど、そうだったのか」とびっくりする。



これに関して権威ある専門家らしき者も「まあ、一面当たってはいます」とその情報を認めた。



しかし、ここでもまた本当の「当事者」の声は無視され、それ以上はこの話題にはふれなかった。




つまる所、こうした議論と言うのは
「当事者」の領域に入ってしまえば部外者は何も「語る」べき事はなくなってしまうのだ。



おそらく沖縄の基地の問題を論じても「沖縄」の住民の声は、「はいはい」とすぐに無視されてしまうだろう。




この「しくみ」がわかっていなかったらとても真面目に参加できるものではない。



恐ろしく何の影響も与えない空疎(くうそ)な議論大会だからである。




何を話しても視聴者の意見は最初から決まっているし、参加を呼び掛ける割りには紹介されるのは1万分の1ほどの視聴者だけだ。




それで見終ってもさっぱりだ。




ただわかった事は、あの「総理総理」と連呼する女性議員を除いてほぼ全員がアフガニスタンへの自衛隊派遣には賛成である、と言う事だ。




アフガニスタンからの者もこんな事(アメリカ.テロ)でもなければタリバン政権は倒せない、と発言している。




とすれば、自衛隊もOKであるし、何か有事があって自衛隊の数が足りなければ真っ先に徴兵される若者の側も関心がないわけだからすべて円満解決、という事になろうか。




とにかく屠殺(とさつ)業者と同じですべては自分以外の誰かがやってくれる「しくみ」があるからなのだろう。




若者の側から何も言って来ないのだから何でも参加して見ればいいのではないか。



とにかく私が兵隊に行く可能性は低いから私こそが本当の部外者である。




真っ先に行かされる若者の側の問題だ。




ただ、先に目覚めた「大人」として彼等が「目覚める」までの間、考えて上げているだけに過ぎない。




番組は、最後の方で、田原氏が、「しかし、我々の世代はどうもアメリカに弱いから物が言えない。もう世代交代して若手が物を言うべきだな」とつぶやいた。




これが「結論」だ。




これで見る意義は十分にあった。(なくても見てたりする番組はたくさんあるので本当はこんな理由はいらないが)




ちょっと視点を変えよう。




その前に、宗教問題の補足をしておこう。




イスラム教の人は、聖戦となると誰でも平気で死ねる、と思っている一般人がいる。




そんなバカな。


あの一部の連中は戦争が唯一の仕事だからやっているわけだ。


その証拠に兵士の仕事中の休憩らしい実にすがすがしい光景が映像に映っていたりするではないか。



あの笑顔は、「働く者」の笑顔である。



彼等に取っては、戦争こそが唯一の「仕事」なのだ。




日本の戦国時代だと思えばよい。



仕える主君(しゅくん)は誰でもよい。



要は、そこで手柄を立てられるかの「業績」だけが重要だ。



イスラムは、片手にコーラン、片手に剣、とか言っている者がいるが、あれはキリスト教側が言った言葉だ。



日本でコーランが破られて「コーランは例え自分の親が破っても殺す」とか言っていても実際はそうではない。




一日5回の礼拝だってマホメットがお告げを聴いた時は50回だった。



それを「50回は多すぎる!」と交渉して5回となった。



人間は忘れる動物である。



神との契約だってすぐ忘れる。



だから一時足りとも神と「契約」している事を忘れないようにほとほと人間に呆れている神が課した「戒律」だ。



これにより人間同志の「契約」なんかより神との「契約」の方がいかに大切であるかを忘れっぽい人間共に教えている。



知らなかった、と言えば、何でも食べてよい。



ナンパをして女の子をデートに誘っても慈悲深い神は大目に見てくれる、と平気で答える。



断食の月だと言っても、日が沈むまでだから夕方からは普段ない特別なごちそうをたらふく食っておく。



おかげで、翌日は満腹でほとんど動けない。



昼頃までボーッとして過ごす。



しだいにまた腹が減る。



ますますボーッとなる。



そうこうしている内にまた日が暮れる。



この繰り返しの月だ。



病気や外国旅行中の者には適応しない。



だから金持ちは外国旅行に出る。



酒は禁止だ、と言ってもそれはそれこれはこれだ。



あの世では死ぬほど飲めるとわかっていても、もともとそういう民族だから「戒律」となったのだ。



沖縄にも禁酒を戒律にした方がよい地域もある。


酒の席の事件が絶えない。



「武士」の人前での振るまい、と思えばよい。



昔のカトリックの司教だってその実体は凄かった。



あまりの腐敗に自戒して聖書にも書いていない「独身」を戒律としてしまったのだ。



そこまでしなければ世間もローマ皇帝も納得させられなかったのだ。



しかし、それでも不思議と子供はあちこちに生まれる。



しかたないから「後任は、私の甥(おい)です」と言ったのだ。



世間は、「おいおい、また甥かよ」と呆れていたのだ。




人間のやる事はどこでも同じである。



違いがあるのはその風習と常識観である。




この違いが最も大切である。



人間には元来、特有の「癖(へき)」がある。



その「癖」が、それぞれの「風習」や「しきたり」などに支配されてお互いの「共存ルール」を築いて行く。




沖縄の人間は元来、時間にルーズである。



8時に約束したら8時に家を出る。




バス亭でも並ばない。



互いが思い思いの位置にいる。




そしてまたルーズなバスが来ると、あちこちから人が集まり順に乗り込む。



その根底にあるのは立とうが坐ろうが関係ない、という「癖(へき)」である。



年寄りがいたら「え〜、おばあ、ここに座れ〜」と席を立つ。



おばあは、「ありがとう、兄さん、てんぷら食べるねえ」と言う。



ジェントルマンはバスの中ではてんぷらは食べないから断る。



魚てんぷらかイカてんぷらなら考えてもいい。



イモくずてんぷらは、時と場合による。



人間には話してわかる奴とわからない奴がいる。


そんな人種が
いるだけだ。




「愛護姉妹」(「日本人と模倣(5:技術と日本人)」の項参照)に何を言っても無駄である。



後は各人が思い思いの対応を個別にすればよい。



相手を見てその都度、考えればよい。



一貫した対応はない。



しかし、より多く取る態度はある。



これは普遍とならないからここで発表する必要はない。





私は、人間にとって最も大切なものは何か、と問われたら、即座に「経済だ」と答える。



すべてはその次に発生するものだ、と考える。



経済的基盤の安定こそ人間を人間たらしめんとしている最大の要因だと思うのだ。



例え、貧乏でも幸せに暮している、あるいはホームレスであっても平気だ、と言う者があるかもしれない。


それでは、さらに厳密に言えば、
経済的危機に陥(おちい)るという不安感が最も人間にとって永続的な恐怖を感じる要因である、と言える。



人間は、
衣食足りて礼節を知る、動物なのである。

『管子(牧民)「民は生活が豊かになって初めて、道徳心が高まって礼儀を知るようになる」。広辞苑』




したがい、私は、今日本にとって最大の問題は
とばっちりテロなどではなくリストラ、失業にある、と考える。



人間を飢えさせてはいけない。



明日をも知れぬ未来を与えてはいけない。




なぜなら、この経済的基盤を無くした時、人は、すべての道徳、倫理観に無関心となり、もはや、どんな事象に対しても「それ所ではない!」という自己防衛本能の崩壊(ほうかい)にすべては倒錯(とうさく)するのである。



借金返済に追われる私は身を持ってこのことを思い知るのである。




他人の事を憂うのは、その人間に余裕があるからこそできる事なのだ。



指導者は裕福な家庭から育った者ではないか。




貧乏では明日の事しか考えられない。




明日のパンさえもありつけぬ身では人間の自我は崩壊するのである。



厳密にはその恐怖と言った方がよいであろう。



すべての夢を捨て、ひたすら「生きる」ために自己の生命を維持する者は即物的に生きる動物に同じである。




二.二六事件が起こったのもそんな時代であった。




二.二六事件:1936年2月26日、陸軍の皇道派青年将校らが国家改造、統制派打倒を目指し、約千五百名の部隊を率いて首相官邸などを襲撃したクーデター事件。


内大臣齋藤実、大蔵大臣高橋是清、教育総監渡辺錠太郎らを殺害。


永田町一帯を占拠。


翌日戒厳令公布。29日に無血で鎮定、事件後、粛軍の名のもとに軍部の政治支配力は著しく強化された。(以上、「広辞苑」)』




この頃の農村は貧乏で娘を売った。



それを見た青年将校が憤慨して、財閥を倒せと立ち上がった、というのが一般的な常識としての大義名分である。



しかし、実際は、娘が売れないときは一家離散になるが、それに比較すれば売れるだけマシだったというもう一つ裏の常識も存在していた、という。



道徳的に一般化できない実体であるが、当時はもっと現実的に対処していた、という。


売られた娘は親孝行で褒められたし、また高く売れたということは美人の証拠で、本人も自慢だった。


芸者になっていい旦那が付くと、人力車に乗ってきれいな着物を着て帰り、まさに故郷に錦を飾った。



田舎の子供たちは憧れて、後ろをついて歩き、店では相撲取りや映画俳優と並んで芸者のブロマイドを売っていた。



当時は、女の子が生まれると、これは売れる(就職できる?)と喜ぶ者もあった。



女の方が就職は楽だった。



紡績の女工になる、喫茶店でウエイトレスになる。



学校へ進学させる必要がない。



女中さんになれば多少送金してくれる期待もできる。



美人なら言うことない。



農村が貧しかったのは事実であるが、娘を売ったのは農村の一部で、その原因は親が怠けて真面目に農業をしなかったという場合もあった。



しかし、そうは言いにくいから、天候不順による不作を理由にする。



確かにそれが大きな理由である事もあったが、そこへ高利貸しが来る。



気の弱い者がうっかり借りる。



翌年から高利に苦しめられて、一家離散になる。



その一歩前のところで女衒(ぜげん)(女を遊廓(ゆうかく)に斡旋(あっせん)する商売人)がやって来て、そこで契約が行なわれる。



「借金の ”かた”に娘を連れて行くがこの娘が働いて返し終ったら自由」という契約をする。



前借金は上玉だと300円、並だったら200円という具合。



そのカネで土地を売らないですませ、もっと働けば将来娘を買い戻せる。



日本の古くからの習慣で「抵当物件は使用してもよい」という常識もあった。


それが「利息」に相当する。



紡績会社のリクルーターも来て、村から10人、20人と少女をまとめて汽車に乗せて連れていく。



女の子たちは、給料はもらえる、大都市見物ができると喜んで行く。



ところが二年くらいすると結核になって帰ってきて、死んでしまう人がいる。



その後、村から行く女の子がいなくなる。



そこでリクルーターは、もっと山奥の村まで出かける。



というような事が、大正から昭和へかけて、日本の紡績資本が発達した時代に繰り返されていた。



たしかに、女工に行って結核になり、死んでしまった女の子の話しは悲しい事である、としてはいる。(これは私の父の姉も同じである。「弟」は、70歳を越えて急に悲しみがやって来るのである)


しかし、当時の常識では、結核にかかることで誰かを恨んではいない。




結核は、誰でもかかった。


二十歳くらいで結核で死ぬのは自然現象のようなものだった。



だから当時は、子供を五、六人も産んだ。



国民の六十パーセントが農家である。



所有した農地の規模から見ると一家の労働力が余ってしまう。



工場でもなんでも、外に仕事があればよい。



工場や町へ働きにゆくと結核にかかりやすいことは分かっていても働きにゆくのは、家計を助ける”口べらし”であった。



これが農村の女子の世界。


男子の場合は満州事変の時の軍隊の話しがある。



ある兵隊のもとに実家から手紙が来た。



その手紙を部隊の准尉(じゅんい)が検閲(けんえつ)で先に読んだ。



準尉というのは若い兵隊の面倒を見ている世話役のようなものという。



手紙には、「お前が死んでくれれば弔慰(ちょうい)金がもらえるから一家が助かる。さもなければ、一家離散である。男は三人もいるから」と書いてあった。



准尉(じゅんい)は悩むが家庭の事情だし、と手紙を本人に渡す。



まさか本当に死んだりはしないだろうと思ったが、手紙をもらった兵隊はすぐに死んでしまったという。



戦死するのは簡単だった。


敵弾(てきだん)雨飛(うひ)の中でちょっと立ち上がればすぐ死ねる。



敵と遭遇して、流れ弾があちこちに飛んでいるところで立ち上がれば、すぐ当たる。



もしも「突撃」という命令が下っている時であれば、勲章がもらえて年金がつく。



これが当時の男子ができる親孝行だった。



娘が体を売る話しは悲しいというが、息子もまた体を捨てた。



二.二六事件で蹶起(けっき)した青年将校たちも盛大に娘を買った客でもあったから、それほど憤慨(ふんがい)する資格があったかどうか、という。



民間の金持ちは戦死する危険もなく、しかも上玉を買い占めていた。



その不公平に腹が立ったというのならよく分かる、としている。



(以上、「人間はなぜ戦争をするのか」日下公人(くさか.きみんど)三笠書房、2000年出版「知的生き方文庫」を参考)




まさに、衣食足りて礼節を知る、の典型である。




倫理、道徳観というものが貧しさゆえにズレている。




つまり、
生きる手段としての許容範囲が「異常拡張」しているのである。



犯罪という公然とした行動ではない、法の網をかいくぐった手段であればすべてよいとする「合法的生活手段」である。



現在でもこうした手段によって一家の安泰を維持している母子もいる。



父の会社の倒産により、破産した一家は、娘が体を武器に支えていたりする。



父親は蒸発した、という。



母親はその微々たる罪悪感から車での送迎(そうげい)を買って出ている、という。



テレビで見たのだ。



母子はその生活のレベルを落としたくないのだ、と言う。




(娘の事はどうでもよい。問題は母親の自我形成の問題である)




この飽食(ほうしょく)の時代特有の、
貧しい身分の地位に降格される、という恐怖感から生まれる奇異な倫理観である。




これらが貧しい時代の日本人が取った「常識」である。

あるいは、貧しさへの恐怖感である。




したがい私が最も恐れるのはこうした貧しさへの恐怖感である。

失業、リストラが「常識」となっている現在の日本社会が倒錯した倫理社会を生んでいる。




そこへもって、この「貧困中」は、誰も他の人に同情を示す余裕などない。



その隙に、国は様々な取り決めをそそくさと行なってしまう。



国民一人一人の頭の中は、ひたすら「借金返済」である。



もはや国の政策などかまっておられない。



何とか明日の返済をどうにか済ませないといけない。



あるいは次の就職先である。



こうした状況の中、



「政府は実にけしからん、誰も田中真紀子を支持しないなんて、まあ、一人の大臣と親しくするより何千人もの官僚の知り合いがいた方がお互い持ちつ持たれつでいいはずだし、それに新聞社にも大勢同じ大学出身の同僚や幹部もいるし、、、それとも皆んな同じ予備校なのかな。相手は、飲みにもつきあわない女一人だ、味方して何のメリットがあろう。それにしても
横領した時点で悪の組織なんだから、すべてはそれで終りなはずだが、、、。まだ国の仕事をさせるなんて。しかしあの機密原稿を黙って渡して発表させた所なんかは陰謀丸出しではないか、国民はバカだと思っているんだな。東大出てないからかな。」



などという分析など朝っぱらからするわけがない。



実際に借金地獄は、真面目な働き者ほどその責任感で自らを地獄界の住人として行く。




貧しさへの恐怖は、軍部も同じだったという。



平和時では、軍人になっても退役するまでの四十年間、実践が一度もない、という者の方が多い。



実際に戦争でも起こればすぐに死んでしまう者もいる。



三十年訓練して、十分間で人生終り、となる者もいる。



これを”
百年養うは、ただ一日の用にたてんがため”とうまい事を言う。


常にいつの世も
陸軍と仲の悪い海軍の戦争は、敵弾が直撃すれば軍艦は沈没して終りである。



しかし、実戦で勝つためには何十年も毎日朝から晩まで訓練に明け暮れなくてはいけない。



慣れて来ると次第に退屈になってくる。



世界中の軍人は退屈している、という。



リストラされた軍人も替わりとなる仕事がない。



軍人は定年が早い。



あまり出世しない者は40歳くらいで退官の危機が迫る、という。




軍人の仕事は何か?




必要がない、とされると予算も削られる。




医者や坊さんが忙しい、とはどういう事か?



葬儀屋でもよい。



葬儀屋の息子と医者の息子を持った婆さんがいたらどうか。



互いに助け合ったりして、問題なしだったりして、、、。



婆さんは笑いが止まらない。




昔は対立した職業だ、というのだがこれもあやしい。





人が人を殺す事はなぜいけないのだろう?

そんな事に疑問を抱く者があるとすれば、計画を実行する前にやるべき事がある。



まず、ドストエフスキーの「罪と罰」は読んでおいた方がよい。



とりわけ、十台でその計画を実行する者は読んでおいても損はない。



その後の気持ちがわかるであろうから参考になる。



そして、あらゆる議論の前に「
とにかくダメなんだ」という大前提が自己に存在するのか、という自問をしてみるとよい。



すべては「とにかくダメなんだ」というその大前提から人が生きていくための最初の「戒律」が生まれる。



すべてはそこから始る、という事はたくさんある。



「理由」を人智で探る問題ではない。



人間はなぜ服を着て歩いているのだ?



異論があるとすれば裸で歩いて見ればよい。



自分はなぜ社長の命令に従わねばいけないのか?



異論があるなら従わねばよい。



何で学校へ行かねばならないか?



異論があるならこれも行かなければよい。



ただし、そんな事をやった者はあなたが最初ではない。



人間は様々な事を「実験」して来ているのだ。



あなたはその何百億番目の人間でしかない。



したがいあなたの実験結果なぞは別に新しい発見ではない。



自分の発見が大して新しいものではない、という事を知らなかったあなたが悪いのだ。




あなたは予想通りの結末を迎える。



あなたの未来なんか最初から予測がつく事ばかりだ。



やって見なければわからない、というかも知れない。



しかし、私はやらない。