友寄隆哉のジャズはなぜ死んだか? ジャズから見る文化論

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執筆軌跡&時々日記(掲載文年代記:資料用)

2002年6月9日(日)より

2005年「執筆軌跡&時々日記」の目次


2007年1月1日(月):あけましておめでとうございます!




関係者及び知人友人、支援者の皆様、旧年中は、大変お世話になりました。



これまで生きてこれたのも、すべて皆々様のおかげでございます。


しかしまあ、よくよく考えて見れば、「これまで」の「これまで」が、なあ〜んだ、せいぜい「これまで」か、と鑑みれば、う〜む、どうせ、確かに「これまで」なんだから、、、なんて気持ちも湧いて来たりしまして、いやいや、こんな風に思う事自体が、まだまだなんだから、いちいち人生を振り返る必要もないか、、いやしかし、それでは正月にふさわしくない言動になるな、、なんて自問自答していると、なんだか終りがないな、と、めんどくさくなったりしまして、め、めんどくさい〜!、、って、、正月そうそう、めんどくさい、、なんてのは、良くない事だな、、と考えてたりもして、あっ!しまった!、、いきなり反省から始まる年は、これまた縁起も悪いかもしんない、、と、新年早々、なかなか複雑な心境ではありますが、



とりあえず、私との縁を大切にし、これをキープしている方々に対して、本年もよろしくお願い致します。

この1年も、お互い、持ちつ、持たれつつの関わりを全う致しましょう!

元気盛りの内に、共に、コンテンポラリー(同時代性)に生きる人間同士としての人生を楽しみましょう。

元気でなくなったら、何もかもと、「さよなら」です。だから、どんな修行をしてでも、人生は、元気をキープする事です!




後記:



大晦日は、カウントダウン.コンサートで午前1時までお仕事。帰宅したのが、午前3時。それからの更新。

元旦からの数日間、関西地区圏内を荒行修行旅行中のためこれにて。

1月3日は、京都におりますので、も、もしかして、あの人かしら、、と思ったら声を掛けて下さい!。





PS:



去年、2006年の4月からタバコを辞めて10キロばかし体重が増加した。。。その他にも原因はあるが、これもまた不可抗力ではある。

人生に偶然はなし!すべては必然!









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1月13日(土):年頭にあたっての儀礼意識


新年早々巡礼の旅に出て、無事、帰還した。13日ともなると、すでにお正月気分も吹き飛び、様々な修行事の稽古始めも終り、今年の日常が始まった頃である。こうやって新年、第一弾の日記も更新できてありがたや、ありがたや、、である。(昨日、足を挫いたので、今日は、おとなしくお部屋でお留守番だから、更新しているわけだ、、。)


新年になるといつも感じる事ではあるが、それは、音楽関係者の儀礼意識のなさ、である。まあ、音楽関係者というか、音楽好き、、というか、みんなどこかのネジが外れているんだろうなあ、と思う事ばかりである。お互い、年賀状なんて送る習慣は、当然ない。

まあ、一般の関係者とは違って、ビジネスの取引をしているわけではないからないのも当然ではあるのだが、最低限、師弟間ではあってもいいんじゃないか、と生徒には強要して来たつもりではある。そうかと言って自分から生徒へ送る事はない。こちらからのお礼は、すべてメールで返信しているが、生徒から「おめでとうございます」とメールで来ると「こ〜いうのはちゃ〜んと年賀状がいい!」と答えてはいる。

なぜかと言うと、こういう「儀礼的」な事が交わされる関係を今年も維持できるんだ、、という本人の気持ちの問題である。まったくそういう関係を持たない人の場合を考えてみればわかるが、そういう人は、別にお正月になっても普段と変りがなく、新年と言う感じがしないのではないか、と思う。

新年に対しての決意もなく、ただ、だらだらと歳を食って過ごす人生である。新たなエネルギーも注入される事もない。新しい空気も感じないわけである。

もちろん、こうした者は、普段から何の縁もキープしていないために、ポストを開けても年賀状なんか、さほど入っているわけでもない。だから、ますますお正月らしさはなくなって行く。自分から出す事もないから相手からも来ないのである。悪循環は続く。

メールでの挨拶にしても、これは目下の者のメールを最後として送りなさい、といくら言っても目下の者からの返信が何もないまま交信は終る。

これがちゃんとしたビジネスの関係なら失礼に当たるだろう、と思うのだが、中には、お店側から何の音沙汰も返って来ない場合もある。普通は、「ありがとうございました、今後ともよろしくおねがいします」なんて言葉が返って来てメールは終るはずであるが、店側の方が偉い、というわけだ。

もう、年から年中、そんな世界の中にいる者だから、何が正しいのかが麻痺して来る。

そうした中で、時折、しっかりとした挨拶をして来る人なんかがいたりすると改めて、ああ、この人は素晴らしい階層にいるなあ、と思うのである。

それ以外は、前世は、動物だったんだろうな、と思ったりする者も多々いるわけだ。おそらくまあ、動物が初めて人間になったらまず、最初に浮かれてやる事は、音楽なんだろう、と思うわけだ。それで、こういう儀礼意識のない社会が形成されているわけなんだろう。

生徒へ強要する、と言うのは、運気の視点から強要するわけである。もちろん、こういう儀礼を欠く生徒は、何時、辞めて行くかもわからない者ばかりであるから、あまりこちらからも関わりも持たないし、また、この人に返信しても何の音沙汰もないから、と無視する場合もあるし、世話ばかり掛けたにも関わらず、あいかわらず交流を望む者の場合も、無視する事はある。別に、お互いが持ちつ、持たれつ、、の関係にないからである。常に、こちらが「持っている」はずである。御中元、御歳暮の類も貰ったわけではなく、答えなくても何の恩義もないはずである。

新年にあたり、メールでの挨拶よりは、当然、年賀状がいいだろう。何が違うか、と言えば、多少の「念」と「労力」と新年に向う新たな「気持ち」が違うわけである。

こうした儀礼的なものを考えると、これは、別に相手のためにやっているわけではない行為でもある。こういう事をやる事で、その人の1年の運気が上がるだろう、と思うからである。(もちろん、日々の修行があっての話しではある。)

運と言うのは、突然、天から舞い降りて来るものでもない。具体的に言えば、運は、人が持って来るものである。この意味で、多くの人とつきあいがある人ほど、運気が上がる可能性も高いのである。

いつもいつも部屋に籠っていて、世の中との関わりを遮断していればいるほど、運気からは見放されるはずだ。その人の事を誰も知らないし気にもかけていないからどんな良い話しでも持って行きようがないわけである。

ビジネスの世界でも社交界でもそうだが、運気の良い人ほど、人との交流を儀礼化し維持し続けるのである。するとますます運気は上がり、その習慣からその家は代々、セレブ、、というしくみがここにあるわけだ。彼等は、自然にそうした運気を上げる行いをしているわけだ。

もちろん相手は誰でもいい、というものでもないが、一般の人でもこうした儀礼事は、運気を上げる作用をしている、と知って無意識に贈答品なんかのやりとりをしているわけだ。

一流と呼ばれる人は、何をさせても不思議とこういう儀礼事を欠かさない。その対極にあるのが、何をさせても三流、、、あるいは、運がない、、と言った境遇にある人たちだ。もう、びっくりするほど、そういうルールを知らない。さもありなん、、と言う感じではある。本人は、なんでこんなに酷い境遇なんだろう、と思っているが、大体の所、こうした儀礼意識がゼロなもんだから、他人との関わりができていない。特に、自分を取り立ててくれる先輩、年長者に対しての儀礼意識がないものだから、ますます運気は下降するわけだ。

、、、とは言っても世の中は複雑なもので、年賀状を書いたくらいでは運気は上がらないが、それでも書いた方がいいだろう。しかし、自分が本当に世話になったと思えば、それなりの身銭を切って贈答品を贈ったりすればいいだろう。

中には、一銭の身銭も切らずに、ただ、メールにて「よろしくお願いします」とか、他の年賀状ついでに書いているのだろうな、とか思ったりするのもあったりする。そんなに世話になってると思ったら冬の間は旨い焼酎でも贈ったらどうかな、、と思うわけであるが、そういう人に限って身銭を切ってまで何かをする、という事はしない。相手には、常に何かを求めるだけであるからだ。

(冬は、家の中ではビールを呑まないのでよろしく。一般的だと思う、、けど。。夏場まで取って置く事になる。。)


そんなこんなで、他人に関しては、ああ、こういう人は、なんで運気がないのかは、大体わかるわけである。まあ、たぶん一生このままなんだろう、という感じもわかる。指摘しても聞いてくれそうにないタイプばかりでもあるから、これはどうしようもない。総じて占い事も嫌いそうだから、この世の中にそうした人に対してものが言える立ち場の者は、人間界には存在しないのだろう。人間界に存在しないわけであるから、いずれは、それらを教えてくれる動物や魔物にでも出会って人生を悔い改めるしかないだろう。

まあ、ベタな結論ではあるが、人のふり見て我がふり直せ、、である。

一般に人が自分自身を客観的に見る事ができるためには二つの方法しかない、という。一つは、過去の自分を顧みて反省するわけである。しかし、これでは、人生は、改善する事なくどんどん過ぎ去ってしまう。

残るは、外部から自分を見てもらう、わけである。つまり他人の目を通して自分という人間を指摘してもらうわけだ。まあ、大体、10人中、6人くらいが、そうだ、と言えば、そんな奴なんだろう。ところが、これがまた、誰も指摘してくれないからやっかいであるわけだ。大体が陰口であったりするから耳に入る頃には、これもすでに時遅し、という事になる。

じゃあ、自分自身でそれがわかる方法はないか、と思うのである。それが、「絶対」の世界である。他と比較する事のない絶対の「自己」である。その極地が、儀礼に昇華されているわけである。

やらない他人はどうでも良いから自分は、挨拶をしっかりとする。年賀状をお世話になった人に送り、自分の運気を上げる。贈答品も場合により行う。知人が病気したら見舞金を持って行く、、などなど、昔は、あたりまえとされた事である。こうした儀礼意識が「絶対」を作るわけである。お互いが贈答品をやりあう関係は「相殺」があっても良いだろう。

こうした「絶対」の中では、人からどう思われているもない。ただただ、そういう律気な人、、としか思われないのである。こうした関係の上に、個性があるわけである。昔はこれを「常識」の範疇に入れていたのだろう。音楽で言えば、一応、このコード進行は前提として守る、、という事になるのか。

世の中の一流と呼ばれる人は、こうした儀礼を欠かさないから一流を保てるんだなあ、と納得させられる場面に良く出くわす。この辺の違いが、人生に現れるわけである。

中には、悪霊に願い事を叶えてもらって一時期は、隆盛を極めるが、その後、必ず没落する、、という運命の「成功者」もいる。音楽芸能界にも多い。やはり、そうした者たちは、こうした普遍の「儀礼」を欠いている事も多い。




後記:

さて、新年早々、浄化の旅から帰って来て、これが初めての年頭に思う事である。お正月は、こうした人間界での「儀礼」を重んじる儀式でもある。

しかし、これらの「儀礼」も含め、神仏への儀礼としての「参拝」も同様であろう。

初心忘るべからず、、を辞書で引くと”学び始めた当時の未熟さや経験を忘れてはならない。常に志した時の意気込みと謙虚さをもって事に当たらねばならないの意。(広辞苑)”とある。

修行事は、常に脱落も挫折も破門もあるから簡単に全うできるものでもない。1年1年気合いを入れ直さないといけない。それだけ厳しい世界であり、一度、関わったからとぬるま湯の中でキープできるものではない。自分に与えられた義務、修行を怠り、相手にばかり最上の要求をする輩は、どんどん一掃されて行くのが修行事である。

スポーツの世界でも年々、生き残るのが大変であるのに同じだ。自分は、何もせず、ただ何年も居座り続けて先輩づらされたのでは後輩もたまらない。したがい、年月が経てば経つほど自己に厳しい先輩とならなくては後続の誰からも尊敬されないだろう。


こりゃあ、正月にでも思い出さなきゃ、一体、何時思い出すんだろう、と思う事ばかりである。


まあ、運勢的には、2月18日、日曜日辺りが旧暦の正月であるから、まだまだ、新年ではないので、これから新年に向けての心構えをしっかりすれば、まだ、間に合うだろう。

こうした、儀礼、人間関係、縁、、を考慮せずに人生を送って来て、運が悪い、と悔やんでみてもそれはそれで自業自得な人生ではある。誰も同情しない。それに、同情を買うだけの縁もキープされていないから誰も気にしない。

昔の人は、儀礼の中に色んな想いを込めたんだろう。




PS :

京都へ行くと突然、京都駅で「友寄さんですね?」と女性に声を掛けられた!すぐわかったらしい。。途中、年末にも地元で見かけた、知り合いが、ある寺院の前で写真を取っていた。

そんなこんなの儀礼、儀礼の旅でもあった。










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1月27日(土):近況と「焦り」の考察



さて、1月もようやく更新第3弾となるが、ちょっと少なすぎではある。しかし、新年早々、何かとレッスンの稽古始めや通信テキスト.ラッシュも重なり起きてから毎日、部屋に缶詰状態であったりしたからではある。

それでも、運動不足にならないように午前零時過ぎあたりから天上逆さ吊りとか、綱渡り、玉乗り、火の輪くぐりと言ったメニューをあれこれこなし、終るのが午前1時30分。

それからあわててお出かけするわけである。2時にはすでどこかのカウンターで泡盛お湯割りを手にしているわけだ。ハードスケジュールである。

お湯割りなら「いいちこ」がいいらしいが、「いいちこ」がないので泡盛で間に合わせている。つまみは、最近は、ギュー刺し一辺倒。ここでも偏食家の性質が現れる。そこでは、静かに読書するか、知り合いがいれば、わあわあ騒くかで、気が付くと午前4時過ぎくらいになっているので、慌てて帰る。

そんな日々なので日記を更新する、という時間がなかなか作れなかったのである。何とか飲み屋からの更新を未来に向けて可能にしたいものだ。


しかし、最近は、めずらしく良くCDを購入する。この間も7年ぶりくらいでタワーレコードに駆け足で行ってきた。久々に行くと「ジャズ」のコーナーが、片隅に追いやられていた。ツタヤなんかでも同じだ。この分で行くと、もうすぐ、ジャズのコーナーは、部屋の片隅にミカン箱でも置かれて、その中になんでもかんでもほうりこまれて100円均一として売られてしまうんだろうなあ、と思った。

タワーレコードでは、マイルス.デイビスとジョージ.ベンソンの往年のCDが特価で600円売られていたので思わず買った。ジョージベンソンのは、ライブでの録音であり海賊版のような音質ではあった。ジョージベンソンと言えども、もう昔のCDは、ほとんど置かれていない状況ではあるが、ジャズ界で生き残っているスターの一人ではあるだろう。しかし、歌が唄えなかったらどうだったかはわからない。ライバルだったパットマルティーノの方は、とっくの昔に隠居生活している風だ。


自分にしては、めずらしいな、というのも何枚か購入した。最近ヒットしている「千の風になって」まで千円で購入した。付録にピアノ伴奏譜が付いていたからである。家に持ち帰り、その伴奏譜を見ると、コード名がなかったので、譜面の音符をもとにコード名を付けシートミュージック用の譜面を作り、これをもとに伴奏しながらCDの真似をしてオペラ調で唄ってみた。

このオペラ調で唄うってのがあまりにも楽しく、唄って遊んでいる。この唄い方は、唄っている人にだけ脳に快感信号を送るのかもしれない。よく大学の合唱クラブなんかが伝統的にやっていたスタイルだが、最近は、そうした伝統も途絶え、合唱クラブなんかに入部する者もいないらしい。しかし、これは快感唱法ではある。たぶん身体にも良いだろう。ベルカント唱法と言う奴だな。

快感唱法と言えば、たまに真似して大笑いしている日本の詩吟なんかも捨てたもんじゃない。腹の底から声を絞り、これを頭のてっぺんあたりにぶつけながらパンチドランカーのような顔をして唄うのだ。これもまあ、やってみると呼吸の訓練にもなりストレスも解消する。

「千の風になって」の訳詞と作曲の新井満は、昔、シンガーソングライター&作家でだいぶ流行っていた。今でもバリバリなんだな、となつかしく思った。日本の有名な詩人の詩にメロディを付けて唄うパフォーマンスをテレビでしていた。

日本では、一体、何の歌を唄っているかよくわからないメロディの曲が近年、ヒットする中、(外国の歌は、ロックでもわかりやすい!)こうしたわかりやすい曲もヒットしている、というので、購入する年齢層が違うのかな、と思ったりする。9.11テロ事件の事を詠んだ、作者不明の英語の詞を日本語に訳してメロディを付けて、これをオペラ歌手が唄っているわけだ。

新井満、本人のバージョンもツタヤの試聴で聴いた。やはりちょっとフォーク調だ。アメリカかどっかの外国女性の英語バージョンの奴も出ていて迷ったが、とりあえずコーラス用のピアノの伴奏譜面付とあったので職業がら得すると思い、譜面付のオペラ調バージョンを購入した。

コード名は記入されていないのでピアノの譜面を頼りにさらさらとわりあい工夫して編曲されている和音にコード名を付けていたら、なんだか自分は、便利な芸を持っているな、と思ったりした。しかし、これが、本職なんだから当たり前の能力ではあるのであまり自分自身に感心しないようにした。

苦労したのは、そんな作業ではなく、3番までの歌詞を音符の下に小さく書き入れて行く作業で、これがちゃんとしていると歌いやすい。早く出来上がらないか、と書きながらわくわくしている自分がいた。しかし、これは、どうも職業病ではない感じではあった。単にまあ、譜面を書くのが好きなんじゃないか、と思った。

昔、アレンジを習った授業で、優秀なアレンジャーの絶対条件は「譜面を書くことが好きな人」と教えられた事を思い出した。当時は、ショックであったが、なるほど、と思うところはあった。自分自身も昔からあまりにも大量の譜面を書いている内、好きになって行った。まあ、編曲が好きな人は、やたらと譜面を書いているなあ、と思う。

昔、ライブハウスで、持ち出し禁止の譜面をノートに写してばかりいたので、弾きたい曲の譜面をコピーする、という今の発想が、何か、損している気がする。1曲1曲、レパートリーが増えるたびに手書きの譜面を足して行く嬉しさがあった。今でもそのレパートリー帳は、利用したりしている。色んなアイディアも書き込まれていたりするからだ。


昔から思う、不思議な感じというか、楽器でもなんでも、その曲が良く弾ける人が、一番、その曲を弾いていたりして、逆に一番、弾けないはずの人が、ほとんど弾かなかったりする、というのがある。ちゃんと練習して弾けるようにならないといけない人が、なかなか弾いて練習せず、ちゃんと弾ける者が、よくその曲を弾いている、と言う現象だ。

譜面も同じで、あまり譜面を書けない人が、書く機会を作らず、譜面に慣れている人が、なにかと譜面を良く書いたりしている、、というわけだ。

授業でも同じで、よくできる人が毎日出席していて、よくできない人が、何かと都合で出席できなかったりする。あれは不思議だなあ、と思う。それでは、ますますできない人はできないで、できる人はさらにできるようになるからその差は、開くばかりだ。それなのに何かとあれこれの都合が悪く、練習する機会も出席する機会もなかったりするのができない人の状況であったりする。

テレビを見ていても同様で、知っている話しとかをよく見ていたりして、それを知った方が良い人の方が、あまり見るチャンスがない、といった事になる。


そういえば、質問が来ていた。




Q:修行事をしていると、いくらやってもなかなかできなくて、だんだん焦りが出て来ます。何かこうした焦りは、必要なのでしょうか?



まあ、気持ちはわからないでもないけど、基本的に修行事で「焦り」を感じる事自体が、妙な話しではある。もちろん間に合わせで弾かなくていけない曲があったりとか、何か試験でも受ける、、という話しならわかるのだが、それでもその焦りの原因がその動機にあると思う。

質問は、もっともっと抽象的な次元での話しで、人を感動させる演奏ができるミュージシャンになりたい、、だとか、もの凄く人をごきげんにするリズムの「のり」を身に付けたい、、とかそういうレベルでの話しではある。

しかし、これはどうも究極の目標ではある、という事を認識しておく必要はある。

間に合わせものは、それに間に合うようにやればよいが、基本的にものごとの修得に焦る、という人は、動機不純というより、目的不純だと思う。動機はなんだってよいと思うからだ。修行事をやっている内に当初の動機とかは変って行くのが自然である。もてたいから楽器を弾いた、とかは、当然、動機としては成立すると思う。一生、それで精進できるなそれでもかまわないと思う。


問題は、なぜ進歩しないからと焦るのか、である。ここに、なんでも簡単に手に入れてやろう、という魂胆が見えるわけだ。当初、1ヶ月も掛ければ、あるいは、長くて1年も掛ければ、3年も掛ければ、、、くらいに思っていた計画から外れた、、と言う事だろう。思ったよりも進歩していない自分に焦りが出る、という事で、その不満が色んな事へ影響して行く。

1週間で覚える英会話、1週間で学べる料理の極意、、とか、考えれば切りがない。そういうものを求める人が、たとえば、1ヶ月コースなんかで学ぶと1週間経っても成長していない自分に腹が立ったりするわけだ。1週間コースと1ヶ月コースでは、ものごとを学ぶ態度に多少の違いが出る。1年コースともなるとまったく違うだろう。1週間コースは、1週間コースで、これを4回繰り替えして受けても1ヶ月コースのメニューにはならない。

空港ではこう喋る、レストランではこうやって注文する、とか、そんな類の会話を丸暗記させるだけで十分なものが1週間コースであり、また、それくらいの事が適切ではある。

しかし、1ヶ月コースでレストランでの注文をメインにやる必要はない。もうちょっと何か質問するとかを学ぶんだろう。これが1年コースとなると、そんな会話はまったく無用で、じっくり文法の解説も入って来たりするはずだ。

こんな風に考えて見ると、その対象を1週間、あるいは、1ヶ月、1年、3年でマスターすると思っていた者が、予想を裏切り何年経ってもなかなか思うように進歩しない、とした時、「焦り」が生まれるわけだ。

ものごとをマスターするのに大体、1週間もあれば、と考えている者と、10年くらい掛るのかなと考えている人とでは腰の据え方が違うわけだ。

世の中には、一生を掛けてもこれを身に付けたい、と決意し、その道に進む者もいる。ところが不思議な事に、そういう人に限ってそれをマスターするのも他の人より早い。物事に対しての本気度と覚悟が違うから、じっくり腰を据えて取り掛る傾向にあるわけだ。特に基礎を疎かにしないようになるためだと言う気もする。

やはり1週間コースで物事を得ようとする人との違いは出ると思う。もちろん10年コースの人は、1週間経ったくらいでは1週間コースにはかなわない。じゃがいもの皮ばかり剥かされていては料理も作れない。1ヶ月経ってもかなわないだろう。まあ、違いが出て来るとすれば、6ヶ月あたりから1週間コースとの違いが少し出るのではないか。

最初は、それくらいの差はあると思う。しかし、当然の事ではあるが、1年、2年過ぎてからは、1週間コースではまったく太刀打ちできないどころか3年過ぎた頃からは、1週間コースの講師あたりはやれてしまうかもしれない。

しかし、世の中の修行者の大半は、1週間コースの気持ちで、1週間コースのメニューを1年くらい掛けてやる者が主流であるから、そうした者は、1年掛けたから1年コースをやっているんだ、とは言えない。あくまでも1週間コースを1年経っても卒業できない、、と言う事にはなる。

実際、1週間とは言え、本気でやろうと思えば、かなりの量がそこにはあるはずだ。一生掛けてもやってやろう、とするタイプは、当然、この1週間コースでは飽き足らないほどのやる気とエネルギーを持っているわけである。

そんな修行人に「焦り」はない。3年も過ぎれば、どの時点であってもそれなりの実力は示せるだろうけど、ただ、その実力レベルに満足していない、というだけでしかない。

玉には、確かに乗れるけど、本当は頭で逆立ちして乗りたいんです、、というような次元になっていると思う。

なんでもてっとり早くやろうと思えば、一夜漬けでもやれる。芸能人のかくし芸大会が、そうしたものだろう。その道のプロが「1週間コース」を教えるわけだ。マジックでもネタさえわかれば誰でもできるものと、テクニックが必要なカードマジックとかあれこれある。

どこにもインチキはある。以前、人前でどうしてもジャズを吹いているように見せたい、というサックスの生徒が、イベントでジャズスタンダード曲を取り上げ、テーマは、確かにその曲なのだが、キーチェンジも多く難曲とされていた曲が、中味のコード進行は、むつかしい箇所はすべて簡単なコードに変えられ、1本のメージャー.スケールでできる代物に変えてあった。

みんなにかっこよく見せてファンを多く獲得したい、という気持ちが、こうしたトリックを仕組むのだろうけど、なんだか哀れではある。実力と言うのは、いつかはバレるものだからだ。しかし、まあ、世の中、そういう人も多いだろう、とは思う。どうもあれはインチキくさいなあ、というものだ。他人から認められたい、という欲望があまりにも強すぎると、そのものの対象をじっくり観察し学ぶという態度がないがしろにされるように思う。

他人に対してワイン通を気取ろうとすると全部、外すだろうし、いつまで経っても当てられない自分に焦りを感じるだろう。その一方で自分だけのこだわりで興味をもって呑んでいるだけだ、と言うものは、なんとなくわかって来るだろう。

こういう人間になったらかっこいいだろう、とか、そんな感じで物事を始めるとなかなかそうなれない自分に焦りを感じるだろうし、なりふりかまわず何かを追求していたら結果的にそうなった、という者には焦りなんかまったくなかっただろう。

まあ、もっと簡単に言えば、太りたくてごはんを食べている者と、ただ食べる事が好きで食べている者との違いがあるわけだ。

だから、もし物事の修得に「焦り」を感じたら、それは、どうも自分自身が心からのその対象を惚れているのではなく、そうなると「かっこいいだろうなあ」という極めて外面的、対人的なものから来ている、と見たらいいだろう。読書が嫌いな者が、本を読むとかっこいい、と思っていながら一冊の本ですらなかなか読了できないでいる場合もやはり「焦り」を感じるだろうとは思う。

だから、物事の修得、修行に「焦り」が起こるのは、不自然な現象である、と思う。ライフワークとなっていないわけであり、極論すれば、その対象を舐めている、とも言えなくもない。これこれを修得するのにそんなに時間が掛るとは思ってもみなかった、という極めての自己過信から来るものが、「焦り」の正体ではないか。こうした修行の場に於いては。

何かに「焦り」を感じたら、こういう自己を鍛え直してはどうだろうか。要するに、それほど大した才能は持っていないから、もっと努力するように、というメッセージがそこにあると思われる。





メール:寒中お見舞い申し上げます。

暖冬ではありますが、朝晩は冷え込むこともございます。
友寄様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。

友寄様のHPで新年のあいさつを拝見しておきながら、ご挨拶が遅れまことに申し訳ございません。
また、このような電子メールという形になりましたことを重ねてお詫び申し上げます。

私は、新しい年の始めからすでにつまずいた感がありますが、今年も常識人・修行人を目指して努力していきます。
そして、今年も友寄様のLIVE等活動を楽しみに生活していきます。

また、今年も1ヶ月が過ぎようとしていますが、友寄様にとって素晴らしい1年になることを心からお祈り申し上げます。

季節柄毎日の気温の変化が大きく体調を崩しやすくなっていますが、くれぐれもご自愛ください。


平成19年1月26日


返信:

わざわざの挨拶メールありがとう!。

し、しかし、こちらの生徒でもなんでもなく、ただCDを買ってくれただけで、新年早々の挨拶の義務の者はいないと思う。だから、メールであれ、なんであれ詫びる必要はどこにもないから安心してくれ!
そんなことより、自分の仕事上の上司、先輩に対しての新年の挨拶を済ませたか、が問題じゃないのかな!




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2月8日(木):CD BABYの事と嫉妬のメカニズムと芸術家の時代とラップとメロディ



この間、突然、留守電に「世界デビューおめでとうございます!」と言う声が入っていて、何の事かわからず、よく聞いて見ると、CD BABYに登録しているのを知りびっくりした、という地元の若手?バンドマンからのメッセージだった。10年くらい会っていないかもしれないが、もともと、ちゃんと話しをした記憶もないではある。

後から送られて来たメールによると、CD BABYは、世界最大のインディーズ系の会社で、日本では、ほとんど知られていない、、と言う話しが書いてあった。しかし、あれ?おかしいな、ここのサイトの日本人読者は、6年くらい前からこのサイトを通じてよく知っているのではないか、と思い、「ちょっと〜、ちょっとちょっと〜」と返信した。


CD BABYへの登録は、数年も前からで、さらに言えば、何年か前には、i -tune にも登録されているんだぞ、と言ったらますます驚いていた。メールでの話しに依ると、これまでの顧客の注文中心のBGM制作や売れ線を当てにしてのバンド活動の仕事に限界を感じている矢先、インターネットを調べていたらCD BABYに突き当たったのだという。

これからは芸術家の時代だから、自分も芸術家らしい活動をしたい、との事だった。お金はないので、私のCDは、買えないとは言うが、そもそも地元のバンドマン関係で私の音楽に興味がある者は皆無ではある。みんな自分自身を売り出す事にしか関心がないからではある。

基本的に私自体に興味がないものだからこうした活動も一切知らなかったわけである。ブログとかやったらいいですよ、と言われたりしたが、まあ、このサイトを知ったからってちゃんと文字を読むかどうかはあやしい。

ここ地元のジャズ系音楽関係者は、高柳昌行氏の名前もまったく知らないわけで、当然、その音楽も受け付けないだろうし、若手になると佐藤允彦氏の名前も知らない者が多い。(たぶん、名前の読み方も知らないと思う。)知っていたとしてもCD所持までは及ばない。


(一方、年輩のバンドマンとなると佐藤氏の方は、神様扱いではある。昔、来沖した事から縁があるのだろう。しかし、不思議とその神様から音楽を学んで来た者の事には誰も触れないという奇妙な現象はある。これもまあ、みんなジャズは進駐軍相手に学んだ世代だからしかたない。

どんな分野でも、まず最初に障害となるのが、同胞、同民族からの嫉妬心、という場合が多いが、これは、わからない感情でもない。例えば、近所にジェフベックにギターを習って来た、という若手が出現した、なんてのをイメージすれば何となく嫉妬心は湧くものではある。自分たちができなかった事を簡単にやられてしまうくやしさもあるのだろう。日本のジムホール研究家とジムホールに実際に習ってき来た若者は、うまが合いそうもないのがわかる。

こうした事は、簡単に留学や実際にレッスンを受ける事が可能になった近代において、各地であれこれ起こっている衝突現象ではないか、とは思う。独学で学んだ世代のコンプレックスと留学世代の優越感の衝突である。)


芸術的な事をしたい、と思うのは、誰しも自由だと思うのだが、こればかりは、若者音楽とは一線を画するので、もっとギャンブル性の高い若者音楽を目指してはどうか、とは思う。そもそも芸術的な事と言うものは、目指して行うものではなく、すでにそういう対象のものしかやれなかった、という人種が創作した結果に生まれた産物であろう。狙ってやるものではない。もちろん、それを狙っている感じの者もまた多くいる事は確かであるが、そうした者の創作物は、どこかしら胡散くさい。

特徴としては、なんでも流行りのものを1曲の中に放り込みすぎるように思う。ターンテーブルが流行れば、すぐに取り入れるし、ラップが流行れば、必ずラップがある、、というわけで、今は民族音楽だ!となれば、すぐにバリ島だの、中国だの、、と慌ただしい。テルミン(音波楽器)でも流行れば、すぐに取り入れかねない勢いはある。

こうして、時代のアンテナにしたがって何でも利用した結果、結局、年月が経つと、「古!」と言うサウンドができあがる。本来、芸術というのは、楽器の流行り廃りではないと思う。どんな楽器でも「芸術」のしもべとしかならないわけであるから、楽器なんかは、既存の指定されたもので十分だと思う。楽器なんてのは、たんに音楽をするための道具にすぎない。

そんな芸術志向よりも、私自身が昔から「芸術家」と聞いて思うことは、彼等の知性の鋭さと幅広い教養、、といった圧倒的なイメージがある。まずもって教養の低い「芸術家」を見た覚えがない。

その点からも誰でも簡単に「芸術家」に成れるものではないなあ、と二十代の頃から思ったものである。まず、あらゆる事象に対して、芸術的(霊感)な視点からの洞察力を持つ選ばれた人間、という感じがするので、あまり、一般の人が、芸術、芸術と連呼するものではない。こうなると人は、自分自身からあまりにかけ離れ過ぎている対象をやたら連呼するのではないか、と思ったりもする。

中世なんかの貴族の間では、音楽家ではなくとも譜面をその場で読んで歌える事も教養の一つだったらしい。話題となると音楽から天文学、演劇、政治、絵画、と実に多岐に渡る幅広さである。今でも、欧米では、プロではないが、ホームパーティーの場くらいでは、余興のピアノ奏者が勤まり、クラシックからジャズまでさらっと弾いてしまうくらいの腕の素人ピアニストはごろごろいる。こうした「教養」の高い文化を持った連中の前では、簡単に自分はプロだと言えない。

また、アメリカでは、ミキサーをしている者の方が、ミュージシャンよりはるか上のレベルでクラシックピアノを弾いていたりするらしい。彼等は、「自分には、個性がないからこれくらい弾けてもプロとしては生きていけないんだよ」と謙遜するらしいが、技術でさえ彼等を越えないレベルのピアニストが、簡単に彼等の前で「自分はプロです」と言えないそうだ。

日本では、もともと個性も技術もなくてもプロを名乗れる現場があちこちにあるからそうしたスタジオのミキサーに会うのは恥ずかしい、と言う。この点からしてもアメリカ辺りでは、一流のスタジオとなると楽器素養のないミキサーなど考えられないらしい。ここでは、楽器が弾けるミキサーの方がめずらしいから対照的ではある。弾けたとしても鼻歌でフォークソングを歌う程度の伴奏技量である。ところが欧米ではミュージシャンよりもミキサーの方が、楽器も上手く、耳も良い、という場合がある。それだけ個性というものを重視してミュージシャンは存在しているのだろう。


個性と言えば、去年あたりから、用事があってたまに車に乗るのだが、その際、道中でよくラジオを聞く機会を得る。なかなか普段、ラジオなんか聴かないので、今、どんな歌が流行っているのか、という事がわからなくなってしまっている。こうした状況を知るのにラジオは良い教材である。

DJが、番組でのリクエスト曲をたて続けに掛ける所から、こうした曲が、一般的に流行ってんだなあ、と推測できるわけだが、いかにも流行りものだな、という感じの曲にラップ調が多いの気付いた。

それで、あれこれ流れているのを聴いている内に、ラップというのは、メロディをいったんゼロ値に戻したんだな、という事に気付いた。

メロディと言うものは、これだけ世界中で歌が作られれば、もはや、どんなメロディであっても2小節も作れば、何かしらの曲に似ている部分が出るものでもある。それが露骨か、あるいは、そこに工夫があるか、の違いだと思う。このメロディ作りの段階で、ある程度の「個性化」が計れるわけだが、もはや、それも限界に来ていると言う事になる。

そこへ、元々、個性化などできるわけのないラップを導入する事に依って、「個性ゼロ地帯」を作り出すわけだ。ラップは個性がない!と驚く人もいると思うが、ラップにおける個性は、詩の朗読における個性と全く同じで、その人自身の声の抑揚と言った要素に左右されているため、視点を変えれば、人間の声の数だけ「無限」とも言える。

しかし、これを「メロディ」の観点から見れば、まったく旋律に変化の起こらない状態を基本としているので、結局、誰が歌っても同じ音の羅列である。つまり、それは、無個性であり、これを個性化しようと思えば、朗読と全く同じ、声の抑揚に頼らなければいけなくなる。

ラップからバックのサウンドを取り除けば、どれもただ、朗読しているだけの状態で、違いがあるとすれば、唱えている詩の違い程度であり、音楽的には、とりたてて区別化できるものではない。詩を書いて、それをただ、自分流に朗読すればいいわけだ。こうした「無個性」な部分が、1曲の中に導入された、と言う事は、3分間の曲ならその3分の中で、「個性的」なメロディを必要としない「無個性」なラップ調の部分が存在するという事になる。つまり、そうした部分が、あればあるだけ、その曲は、個性を創造する余地のない部分もかなり含んだ曲ということになる。

ラップの部分は、人間の声の抑揚、いわば、声帯で個性化を計るだけであり、それは、才能豊かな朗読者に取っては「無限」の個性を注入できる部分となる。しかし、そうでない者にとっては、たんに、世間に「無個性」が認知された安全地帯があるだけの「逃げ場所」ともなる。

今まで、3分間、すべて個性化されたメロディで埋め尽くさねばならなかった曲の形式が、音楽とは無縁の人間の声帯部分での個性でしか個性化できない、音楽的には無個性なラップ部分とが、1曲の中に放り込まれた場合、音楽の中に求める「個性」は、それぞれ別次元のものとなるので、これまで、メロディのみに負担させられていた「個性」部分が、ラップ導入により軽減されるわけだ。


後記:



久々に日記を書いたら、とりとめもない文章で、ちょっとむつかしい概念を語ろうとし始めたので、この辺で、休憩する。あんまりわかりやすく説明すると調子に乗って自分を芸術家だと勘違いする者も続出するので、芸術論は、むつかしくあっても良いとは思うが、頭でわかった事は、何事も血肉にならない。しかし、また、頭でも理解できない人の「勘」は、なおさら信用できない。

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2月18日(日):旧正、おめでとうございます。年頭の挨拶。



今日は、旧正月と言う事で、朝起きたら昼だったが、お決まりの参拝コースを巡って見た。

神社へ行くとあいかわらず、引いたおみくじを神社のあちこちの木の枝に巻付けたまま帰っているのを目にするが、あれは、どうもいけないらしい。ちゃんと保管して神様からのメッセージを時間を掛けて解読しないといけないらしい。

だからと言って、いきなり神社を訪れ、気まぐれにおみくじを引いて見ても、そこには何の秘められたメッセージもない、とも言う。ちゃんと前の晩から神様に一体、どんな事をお聞きしたいのかをあらかじめ念じておくのが望ましい、という。神様もちゃんと準備が必要、という事なのだろうか。

しかし、実際に神社なんかを参拝してもあまり願い事とかが思い浮かばない。いつも何か、思考が停止した感じで済ませているので、そんな状態で、おみくじを引いてもしょうがないので年に一度の新正月にしか引かない。

また、一箇所で引いてしまったらもう他の場所で引く必要がないので、あちこち参拝はしてもおみくじまでは、なかなか引かない。やはり、色んな神様のもとへ行っては、そのたびにアドバイスを聞いていたら神様側からも信用を失う、というものだろう。

さらにまた神社参拝は、なるべく天気の良い日の午後3時あたりまでに済ませた方が良い、と言い、それ以降は、悪霊の巣窟になり、悪霊が願い事を聞いて、その見返りをいただく、という話しを聞いて、あまりピンと来なかったのだが、正月頃、京都方面へ行った際に、山の頂き辺にある神社を訪ねた際に納得した。

やはり、普通一般の無名神社を訪れる者は、その付近一帯の住人もそうそうなくて、午後3時くらいともなると無気味な感じではある。たいがいが、無人の神社であったりもする。また、沖縄とは違い、日が暮れるのが異常に早い!沖縄では、例え、冬とは言え、午後7時であっても、天気の良い日は、まだまだ、明るい。暗いなあ、と思う場合は朝から曇り気味の天気の日だ。


まあ、そういうわけで、これで本格的に今日から新年が始まるわけだ。

書きたい事は、山ほどあるのだが、録画したテレビも溜っている事なので、今日は、この辺で止めて、テレビを見る事にする。






後記:



*前回の日記のラップの考察が意味がわからないと言う。いやあ、専門家ならわかるだろう、とは思うが、相手は、一般人なので、まあ、どっちにしろラップは、聴かないはずだからわからないままでいいだろう、とは思う。


*CD BABYに興味がある若手バンドマンの方は、丁寧に返信をしたが、もう返信はないので、ああ、バンドマンらしいなあ、と納得。これが、ミュージシャンなら絶対、そんなことはないとは思う。まずは、こうした面から「ミュージシャン」を目指すべきだとは思う。世の中で一番、、いい加減な者が、ジャズやロックをやるわけではないと思う。



*今年に入り、20代の生徒二人が教室史上、前人未踏の実力6級のレベルに達した。大体、4年掛っている。一人は、20代前半だ。まあ、なんというか、例え、趣味ではあっても、けっこう音楽修行に浸らないとなかなか到達できないレベルである。

若い頃に趣味でジャズを学んでいた、という、うんちく型の中年ジャズ愛好家レベルが、大体、20代の時点で8級あたりだから、20代で、こうした中年の愛好家を超える気分は、どんな感じかは、現時点では、本人たちには、わからないだろう。

それがわかるのは、おそらく、そのうんちくを聞かされて後、中年軍団とセッションとなった時にわかるとは思う。もちろん、うんちくを垂れた中年軍団側が、目の前の若者を「師匠」と認める事はないとは思うが、とりあえず、自分たちの20代をもう一度、振り返る事は確かだろう。



*2002年の9月あたりから始めたジャズ通信講座も今年で5年目に入り、当初、初心者から受講した20代の若者たちも、今では、7級レベルに達した。世の中には、わずかだが、ちゃんと修行人の若者もいる。大切な事は、そこから学ぶ、「エネルギー」と「気」である。これさえ培えば、どんな事もやり通せる。音楽であろうとなんだろうと関係ない。修行から学ぶ事は、そうしたものだ。それ以外にはない、と言ってもよい。修行人は、どこへ行っても必ず、修行を全うできる。

さて、これから、ようやく、みんな孤独な修行時代を終え、社会と交流する楽器人生が始まる。(8級あたりは、日々、孤独な修行でよい。「自分」という者がないから、他人から学ぶ事はない。ある、と言い張ったとしても、なくていい「自分」でしかないからである。ものごとの初心の修行に耐えられない「自分」など、どうでもよい、とは思わないのだろうか。)

真面目で、一途な修行体質な者ほど、人前でいいかげんな演奏ができない。どちらかと言うと現代では、こうした体質は、脆く、損をする体質になる。世の中に出るには、もっとええ加減な体質の者でないといけない。このあたりが、修行と実践の矛盾がある。だからと言って、落語で言う、太鼓持ちのようなキャラで、まわりに接する必要はない。これは、もう、すでに、誰でもやっている事ではある。芸人も1流となると、そうではないのではないか。



さて、今日、見る夢もまた、初夢になる、、はず。









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2月24日(土):マメな更新、いつもの小数点と分数の話し、てっとり早いロボット演奏スタイルの要因、時間を掛けたもの、ジャズにボーカルなし、質問メール、40代からの習い事、ライブ後記



子供の頃にNHKの教育番組で見た、分数と小数点どちらが多いか、と言う話しから、普段からも、生徒へは、あまり一つの事をやり過ぎないように、と言っているにも関わらず、ついつい自分も忙しいから、という理由で一つの事に掛りっきりになってしまい、日記どころではない、という日々が、近年、続いている。これは、どうもまずいなあ、と一昨日あたりに反省したところである。

番組での答えは、「どちらも無限」という事で、子供に無限という概念を教えようとしていたわけだ。

(これは、サイトのどっかでも話した事があるが、それを知らない読者への、たまにのサービス重複掲載である。番組では、1分の1と0.1、、、と言った具合に両方を対応させて行くわけだ。小学校3,4年生の頃見たのではないか。風邪で学校を休んでいる際の午前中の子供番組で見た。)

その事から、物事は、けっこう「無限」に近く、奥が深いものも多いので、あまり一つの事に掛りっきりになってはいけない、と考えるようになった。分数は、かなりわかるが、小数点の事は、一切わからない、あるいは、その逆、、と言う風に極端な人間になってしまうからだ。分数がわかる、と言ってもどうせ無限であるから上には上がある。それなのに分数を極めようとするあまり小数点の事は一切、その存在さえ知らない、という人間が誕生するわけである。

一つの仕事に掛りっきりになっている間、一方がまったく疎かになってしまうよりは、、両方を同時にこなすようにしたら、多少、それぞれの完成が遅れても、常に二倍の事がやれるわけである。

つまり、物事は、さほど優先順位を付けなくてもいいものもあるのに、優先順位を付けるあまり、ついつい真面目にのめり込んでしまい、それ以外の事をまったくやらなくなる、、という事がある、という話しだ。

しかし、この駆け引きは微妙で、たしかに優先順位を付けて取り組んだ方が能率も良い場合もあるからその見極めには高度な洞察力が要される。

人に依っては、いらん事にいちいち関心を示さず、与えられたもののみに打ち込んでいたらいいのに、と思う場合もある。その結果、1ヶ月で終えるものが、1年も掛ったりする。これなどは、分析力と洞察力に欠ける行為であると思う。

そう考えると、両方を同時にやった方が良い、というものは、どちらも生産性があり、それを行えばどちらからも何らかのメリットがある、という事項に限られて来ると思う。どちらも不毛な事に足を突っ込んでいては何事も成就しない。音楽でダメだったから今度は、画家を目指します、と、もし、言われたとしたら、その時、思う事は、この人は、ただただ、貧乏が好きな人なのかもしれないなあ、、という事であろう。(あるいは、道楽者だなあ、である。)


こういう事は、ミニマムな世界で、音楽の勉強の仕方にも言える。音楽の勉強は、様々な項目に分類できる。楽器の技術、理論、和音、リズム、アドリブ、読譜、アレンジ、作曲、音楽能力、聴覚、、etc、、、、と、まあ、無限ではないが、実際に勉強すべき事は、細かくある。多少の優先順位を付けられなくもないが、そうでもないなあ、と思う事もある。

(「音楽」とは言っているが、おそらく「ジャズ」と「クラシック」に限定されるだろう。一獲千金音楽には必要ない項目もある。それはそれでまた別な項目が必要だろう。「ファッション科」、、など。)


たとえば、楽器は、一切弾けないが、リズム感や理論、様々な音楽力が発達しています、となると、楽器は後からでも良いだろう。実際、ジョージ.ベンソンは、歌手からスタートしていて、チャーリーパーカーのフレーズを全部唄えたから、19才で、ギターを弾いた時は、それをギターに置き換えるだけだった、とコメントしている。(何の問題もなかったそうだ!)

そう考えると、楽器や様々な機材は、そろっているのに、肝心の才能が備わっていなかった!、、という人もいるだろう。(良い楽器のコレクターなんかがそうだ。高いアコ−スティック.ギターを何本も持っているが、大して弾けなかったりする。聴けるのは、もの凄く高級な「G」のコードくらいである。なぜか「G」だ。)

音楽の勉強も実際は、こうしたバランスを上手く保ちながらメニューを組まなくてはいけない。(私の教室では、読譜力だけが、優先順位からすると最下位である。アドリブやその他の能力をある程度上げて後、ようやく取り上げる。初心の段階では、読譜力よりももっと大切な能力トレーニングがあるからだ。しかし、ここで言う読譜力は、初見力の事ではある。)

実際、どんなバランスで稽古をこなすかは、個人の弱点をあれこれ見てみないとわからないので一概には言えないから、あまり素人判断でやると一生、上達しない、という事にもなりかねないから怖い。実際に、ああ、この人は、伸びたな、と感じるのは、稀であり、数年に1回あるかないかだ。

てっとり早く、簡単に上手く見せる、、という「悪霊に魂を売るメソッド」というのは、存在する。これは、以前も述べたが、どんな分野にもあるはずだ。

料理で言えば、化学調味料使いまくり、添加物、農薬だらけの食材、と言う事になるのか。じっくり物を育てている場合ではない。一日も早く売れるものを作ればいいわけだ。やたら肥料を上げて作物を巨大化させたりするわけだ。食べた人が、10年後ど〜なるかは、し〜らない!、、という事になる。見た目さえ良ければいいのだ。

う〜ん、これをアドリブ音楽で言えば、何になるのか。やはり、なんでもいいからそっくりに弾いておけばいいんだ、という事になるだろう。テケテケのエレキギターのベンチャーズ方式だ。まあ、1曲だけそっくりに弾ければ、回りからは、おお!っと言われるだろう。本人が、毎度、同じアドリブでも飽きなければそれでいいかもしれない。(そっくり、、とは言っても実際には、そっくりには弾けないから、そっくり、、のようなもの、、となる。)


リズムなんかも近年、ロックやブルースの洗礼を受けずに、直接、クラシック.ピアノからジャズを始めるタイプに一番、多い、「メトロノーム.リズムのり」、、である。あれなんかもてっとり早い。リズムの「のり」に関する、細かな「ため」とか「ずれ」と「揺らぎ」とか、、様々な人間味溢れた要素を排除し、ひたすら機械のようなリズムで弾くわけだ。言語の持つリズムが、様々な人種に無限にあるように、音楽の持つリズムも無限ではあるが、これが、単一民族のようになるわけだ。単一「機械」民族、、とも言える。

その演奏が丸ごと、機械で再現可能な演奏で、いわゆる音楽の無個性化である。誰でも取り替え可能な大量生産型のリズムとなるわけだ。平板で均一な抑揚に乗せて、なるたけ速くを心掛けて弾くわけだ。これは、音楽を頭で考えるエリート型に多い。稽古と言えば、常にメトロノームとの闘いであり、あきらかにジャズから「黒人化」した部分を解体して排除して行く作業とも言える。(脂身は嫌い!、、という感じだろうか)白人社会のクラシック音楽から、急激なジャズへの接近であるからこの「嗜好」は、仕方ないとも言える。

どんなに黒人風なフレーズ、言い回しではあっても、それが、なぜかロボット風なのである。もちろん白人風でもない。似て非なるものである。

何年も前からこうした「病理」の発端とか症状を探ってはいる。みんなとってつけたように同じ演奏をするわけだ。何か、たった一つの「教則本」を徹底学習したような感じだ。真面目なエリートタイプに多い演奏スタイルである。しかし、総じて無個性で、ロボットのような演奏で、取り替え可能な演奏スタイルになる。シーケンサーにフレーズを打ち込んだような「のり」である。

おそらく、やりたいフレーズを真面目にシーケンサーにでも打ち込んで、それをコピーした、、感じではある。本物から人間的な息吹きやニュワンス、ダイナミックスを排除した感じで、極めて左脳的な修得方法である。台詞を暗記して唱えればよいわけで、それをロボットが演じている、、というような舞台である。

こうした方法でのメソッドは、真面目で優秀なエリートタイプにはもってこいである。一夜漬けで何もかも達成できるような感じで、あまり年季を感じない。しかし、何年経っても印象が変らず、いつまで経っても「上手い」という以外に評価する言葉がない。技術的には、真面目に技巧派のロボット風であるからだ。だからといって、人が、わざわざ好んで聞くか、と言えば、そうでもない。

こうした土壌が、フジ子ヘミングと言った才能を長い間、見過ごして来た要因ではないか、と思う。ミスタッチばかりに神経質になり、その結果、どんなに完璧に弾いても誰も何とも思わない演奏スタイルが生まれ、しかし、その代りは、どこにでもいる。

物事を修得する際に頭を使いすぎているわけだ。自転車に乗ったり、泳いだりする事は、頭では、修得できない。身体の感覚全体を駆使してマスターして行くわけだ。そしていったん身に付けたらできなくなる、という事がない。昔は、泳げたが今は泳げない、と言う者はいない。ちょっとやれば、すぐに身体が思い出すわけだ。要するに何をするにも頭で先に考えてから行うものだから、こうした能力が衰える事になる。

こうした傾向は、これまでが受験社会だったからしょうがない事とは言えるが、受験勉強方式は、万能なメソッドではないと思う。受験勉強方式では、ジャズ理論なんてのは1週間もあれば十分ではないか、と思う。しかし、だからと言って優れたアドリブができるか、と言えばそうじゃない。

第一、優れたアドリブに高等、下等、と言った概念が生まれるわけがないのにそう唱える者がいたりする。どんなアドリブをしても下手な人は、ジャズに限らず、どの分野のアドリブも下手である。これは、ジャズに限っていても同じである。「この曲は、コードがむつかしかったから上手く弾けなかった」と初学者が言ったりするが、それは本人だけが思っているだけで回りは、その人が、何の曲のアドリブをしてもちっとも良くない、と思っているわけだ。その事を本人だけが知らないわけだ。

私は、普段から「ジャズにボーカルなし!」と言い続けていて、ジャズボーカルなんて分野なんかない、と思っている。歌が上手い人は、どんなジャンルを歌っても上手い。逆にジャズしか唄えない、、という人の方がインチキくさい。他のジャンルの歌を唄って初めてその人の真の実力が判明する。サラ.ボーンだってトニーベネットだってあれこれのジャンルを唄っている。やはり何を唄っても上手い。だから、この人は、歌が上手いなあ、と言う人がいたら、その人は、英語の発音問題だけをクリアーすれば、当然、ジャズも歌えるわけだ。特殊なスキャット唱法とかは抜きにして。


てっとり早くマスターして演奏する、、という例で、わかりやすい話しをすれば、あるメロディを弾くのにたとえば、初心者が、ピアノを練習して、右手だけで弾いたものと、同じく初心者のトランペットなり、あるいはバイオリンなりの楽器とをなんとか聴けるレベルまで仕上げて弾いた場合の演奏を聴き比べれてみればいい。

トランペットは、まず、まともな音を出すのにマウスピースだけをくわえて半年近くは掛る。それからようやく音階とかの練習が入り、しかも「良い音」が出せるレベルまで要求するとかなりの年月が掛るわけだ。その点、ピアノなんかは、右手だけで良いなら、器用な者なら1週間くらいで弾くはずだ。曲の難易度は考えなくても良い。咲いた、咲いた〜の「チューリップ」でも良い。

この実験では、誰しもがトランペットが素晴らしいと言う事になるはずだ。やはりそれだけ時間を掛けた音、、というものがあるわけだ。ピアニストが、こうしたトランペットを超えるには、よほどの事をしないといけない。いくら半年掛けた、、と言っても、それくらいのピアノでは、なかなか感動しない。それが当たり前、、の楽器であるからだ。トランペットなんか半年では、そもそも「音楽」にならない。初心から最初の3年を比較すれば、それだけ年季が必要な楽器、という事になるわけだ。



あっ、時間だ!



質問メールが来ていたので回答しておこう。これもいずれの機会に、、と後回しにしないで、同時進行でこなした方がいい項目だろう。プライベートでもない関係で、時間を掛けて個人的なメールを密室でのやりとりだけでする事は、時間がいくらあっても足りないので、こうした形で返答している。





質問メール:


友寄様

はじめまして。***といいます。ネットでジャズを勉強できる方 法は無いか調べていると友寄さんのページにたどり着きました。突然のメールお許し ください。

小さいときに1年ほどピアノをかじったくらいで直ぐにやめ、高校 生のときに同級生とバンドを組んだときに少しキーボードをまた触ったという程度の レベルです。高校生のときからジャズに非常に興味があり、いつかあんな気持ちよさ そうにアドリブができれば良いなあと思いながら、すでに20年以上たってしまいま した。現在41です。教則本を買っても、挫折の連続で、一度直接ジャズミュージ シャンから手ほどきまでは行かなくとも、何をすればいいのか教えてほしいと思って おりました。

この程度のレベルですが何かアドバイスいただけると幸いです。

お時間ありがとうございました。




友寄、回答:



御質問に答えるのは、とてもむつかしいです。しかし、簡単に答えれば、どっかの教室に通って挫折して見ることです、、となります。挫折するのは目に見えているからです。でも、それで、「ああ、ジャズピアノを習いに行ったけど、すぐに挫折したな、、」と言う事は、判明するので、こうした迷いはなくなるからです。


私もジャズ教室をしている手前、あまりジャズ学習者に対して厳しい事は言えないのです、、、、ジャズ普及活動にも逆らってしまいますから。しかし、こう言っては、なんですが、ジャズは、むつかしいです。その事をわからない人がほとんどです。もちろん、ジャズにもピンからキリまであり、様々な形で楽しむ方法は色々あります。アドリブを楽しむ、という事であれば、なんでもOKでしょう。

しかし、ここで問題となるのは、けっして「あの曲が弾きたい、この曲も弾きたい」という夢を持ってはいけない、という事です。てっとり早く弾けるようになる曲も確かにありますが、そうでない、、という曲もかなりあります。そうした曲をインチキしてでも弾きたい、というなら、まあ、なんとかならない事もありません。メロディだけを残してコードを全部、単純にする方法です。

一番、望んではいけない事は、40代に入り、トランペットなりバイオリンなりに憧れて、しかも、そうした楽器でジャズを弾きたい、という事だけは、止めた方が良いです。これは、もう不可能に近い。音程を気にする必要もない楽器ですらアドリブは大変なのに、その音程さえ、何年も掛けてようやく手にする事ができる、、という楽器で、しかもジャズまで弾きたい、と思う事は、もう、無謀としか言い様がないです。ですが、幸い、あなたは、ピアノで弾きたい、、という方ですので、まあ、まだ何とかなるとは思います。でも、くれぐれも「あの曲を弾きたい」と言った具体的な願望はやめる事です。

念のため、私にとっては、ジャズを弾きたい、、と言うのは、アドリブをしたい、という意味でしかありませんが、一般には、ただ、ジャズの曲のメロディだけを弾いてみたい、、と言う場合もあります。まあ、それなら、トランペットであれ、バイオリンであれ、40代であってもなんとか還暦までには、なんとかなるかもしれません。アドリブに関しては、曲の不平不満だけを控えれば、なんとか楽しくすごせるかもしれません。

わたしが思うに、一般に、芸事、技術事に関して、二十歳の者が、3日掛ってマスターした事は、三十歳の者は、おそらく3週間掛ります。40歳となると3ヶ月掛ります。50歳、60歳となるとどうなるでしょう。

踊りの振り付け、と言った事を考えて見てもわかると思います。若い内はすぐに覚えます。よほどの心得がある者以外は、若者の修得スピードには勝てません。しかし、若者には弱点があります。何事も飽きっぽく、長く続かず、なんでもすぐに飛び込み、すぐに挫折してしまう、という習性です。じっくり物事に取り組む習慣がない者が多いわけです。しかし、歳を取るにつれ段々にこうした自分を反省して行くわけですが、持って生まれた習性はそうそう変りません。

芸事の修得には、年代別にそうした傾向があるわけです。これじゃあ身も蓋もない、、と言われるかもしれませんが、これは仕方のない事です。しかし、ここで問題としていない事は、その人の「情熱」です。どうしてもその対象をマスターしたい、という「情熱」です。この情熱が、年々高まれば、そうした傾向から来る弱点も補う事は可能だと思います。

ところが、その「情熱」でさえ、20代にも劣る、という状態で、40代の者が対象に取り組めば、どうなるでしょう。しかも、20代から挫折癖は、付いてしまっています。しかし、その分、40代になると口は達者になりますが。


結論をなんとか導き出せば、今後の趣味としてジャズ.ピアノを弾きたい、という事に関して、ああ、それくらいの「情熱」で、バイオリンやトランペットでなくてよかったですね、と言う事が、まず一つ。

それと、「ジャズ」と言っても色々あり、「アドリブ」に関して言うなら、あまり「あの曲が弾きたい、この曲が弾きたい」とかは、言い出さない事、、です。これは、もう、駄々っ子の子供が、高級おもちゃを欲しがるようなものです。買えないものは買えないように、できないものはできません。

一生を掛けてAmのキーで「SUMMER TIME」をピアノでアドリブが弾けるようになりたい、しかし、、1日、15分くらいの練習で、、、というならまだまだ許容範囲の範疇です。大丈夫です。いつか達成できるでしょう。もし、それができたら、あと10曲くらいは行けるでしょう。

しかし、絶対に思ってはいけない事は、40才過ぎてバイオリンを始めて、いつかモンクの「ROUND MIDNIGHT」のテーマも弾いてアドリブまでしよう、、とまでは行かない事です。(できたらピアノでもやめた方がいいです。1日30分に増やしてもどうか、、とは思います。)


誰しも願望はあっても良いと思いますが、やはり、その願望エネルギーにあった範囲内でものごとに取り組めば良いと思います。無理なものは無理です。

私が、その道の人から聞いたもので面白かった質問は、「英語が嫌いなぼくですが、そんなぼくでも同時通訳に成れるでしょうか?」と言う高校生からの質問と「会社帰りに週に2日、1時間くらいジムに通えますが、1年くらいすれば、プロのキックボクサーと軽くスパーリングができるくらいにはなりますか?」というサラリーマンの質問です。この回答に、「おそらく一生無理でしょう」と答えているものがありました。

どちらも何かを始める前にうだうだと考えているわけです。


あっ、時間です。


、、という事で、まずは、自分サイズにあった、それなりの願望を描き、それに向って始めて見たら良いと思います。挫折型の独習癖が付いてますから、その歳では、習い事関係は、おそらく続かないと思います。しかし、まあ、そうした自分の体質も含めて変えて行けるようなエネルギーで挑戦して見る事は良いと思います。

41歳あたりから物事を始めて極めた人も大勢います。まずは、51歳の時に、また同じ事を思わないためにも、何か一つの事を継続してやり続ける習慣を身に付けると良いです。正しく設定された「願望」通りであれば、挫折は、ないはずです。

しかし、芸事は、3年掛けて独習するよりも3年掛けてでも良い師匠を見つける事、、が鉄則と言われてはいます。

その間に「情熱」も貯えられるからでしょうか、、。




後記:



昨夜は(2月23日、金曜日)いつもの市内某会館にて「ジャズとビートルズ」という企画のお仕事ライブ。今年、最初のライブになるのか。

ビートルズの曲と言うのは、基本的にジャズにするのが最もむつかしい。ジャズと反対の事をやっているからだ。まあ、何曲かは、ジャズとしても取り上げられる曲はある。


相変わらず、観客の平均年齢は、70歳くらいか。

子供も泣いていた。

今回は、9人くらいのいつものメンバーでのバンド編成だったが、どっから調達した来たのか、コンガを前にした、正体不明な、わけ有りの男子中学生と31才だと言う女性の二人が追加され、先頭に座っていた。譜面も与えられていないから何かの儀式だろうか。

女性の方が、曲の前に、いちいち振り向いて「どんな風に叩いたらいいのですか?」と聞くので、「そうだなあ、田舎に着いた陽気な気分で、、、叩いたらいい」とか、「親戚のおばさんが亡くなった時の気持ちで、、」とか答えた。

たぶん、質問する相手を間違えた、、と思っているだろうが、すぐ後ろには、私しかいなかったらからしかたない。こちらは、バンド仲間の勘定には入れていなかった。ステージに上がって見たい、とか言う職業訓練の一環か何かかな、と思ったからだ。

とりあえず、メンバーの名前も紹介されず、ライブは、無事終了した。毎回、こんな所で弾いていて大丈夫なのかなあ、とは思う。

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3月18日(日):なぜ修行事に挫折するのか、、継続は力となるか、、あれこれのとりとめのない考察、その1



なんだ!2月24日から全く更新していないじゃないか!他の執筆陣は、一体、何をしているんだ!

、、というわけで、今回は、自分で書く事にしよう。

気が付いたらいきなり3月である。卒業シーズンでもあり、高校大学受験の合格発表もあったりする。今日も親戚筋の方から「高校合格ニュース!」が入って来た。3月は、何かの「終」でもあると同時に「始」でもある。

前回、40代でもジャズピアノを始められるか、という質問にシビアな現状を元に答えたつもりではあるが、40代に入り、何かの習い事を始めたい気持ちはわからないでもない。しかし、現実は、40代に限らずそう簡単には行かない。

歳と共に、あらゆる能力がだんだん低下して行くのが普通である。だから歳を取っての修行事は、若い頃の何倍も努力しないといけない。若い頃と同じ努力をしたくらいでは、その半分、10分の1もモノにできない。

逆に20代の側から見れば、20代の内にどこまで自分を高めたのかが、人生のすべての基本を物語る事になる。ましてや、20代で進化どころか、自分自身の怠惰と闘っている内は、もういけない。レースのスタートラインに立つまでが、目標という事になるから、競技に参加できる資格条件を満たすだけで10年くらいあっと言う間に消費してしまう。(朝、5時に集合!、、など、、)

なぜ歳を取るとそう簡単には行かないのか、と見て行くと、まず、若い頃のような柔軟さ、素直さがない。右脳は、ほとんど死にかけて、左脳中心の思考癖からだんだん「頑固」になって行く。いちいち理屈をこねまわすわりには実践が伴わない。なんでもかんでも丸暗記で対応しようとするから何かを創造する、工夫する、、という事がない。

音楽で言えば、コピー譜を買い込んでの丸暗記トレーニングで、それ以外の発展性がまったくなくなるわけだ。むしろ、やればやるほど実践とかけ離れた理屈に支配され年々頑固になって行く。譜面ばかりを読んで来た者(クラシック系、ビッグバンド系、etc....、)、、が、即興音楽に弱くなるのもこれと同じ原理である。しかし、その譜面ですら単なる「記号」にすぎない、、と言う事がわからず、そこから無限の宇宙を導き出す事ができなくなるのである。

結果、誰が弾いてもまったく変らない演奏しか譜面から導き出せない。4分音符、3連符、16分音符、、と言った「記号」は、誰が弾いても同じ事にしかならない、と本気で考えているわけだ。なるほど、これでは、リズムは、機械音楽の方が人間よりはるかに優秀、、という事になる。この意味では、クラシック音楽の方が無限の解釈で譜面を読んでいる事にはなる。

歳を取ったら人間が頑固になりなかなか物事を素直に学習しない、という話しをしているが、こうした傾向は、昔は、30代あたりから見え始めた。しかし、今や小学生あたりからその徴候を示しているらしい。素直どころではない。自分の怠惰を指摘されるとすぐに反発、反抗と言った形で反論して来るわけである。これが近年の平等主義教育の結果生まれた、自分がどうであれ、常に自分に対しても他の優秀な生徒に接するような平等な扱い、権利を主張する、、というものだ。

しかるべき金銭さえ出せば、どこでも自分は「お客様」であるから、教師陣よりも偉いわけである。幼児の内からの大人の店員より敬語で応対される事に違和感を感じないファーストフード店育ちである。

なるほど、これでは、とても良い師弟関係など結べない。芸事の世界は、怠惰で落ちこぼれる者に対していちいちかまってはいられない厳しい世界である。結果、選りすぐりの人間だけが生き残って行くわけだ。本来、これが、ものを学ぶ場ではある。教育を目的とした学校教育とはまた違った世界ではある。ところが、どの分野からも近年、こうした師弟関係を持つ事の困難さが指摘されている。かつての日本人は、もっと師弟関係を重んじた、とある。

また、こうした平等主義、頑固さに加え、段々、人は、物事を簡単には継続できなくなる「癖」が付いて来る。何かをやり続けようとすると必ず「悪魔の囁き」が現れる。これに耳を貸すか貸さないかが、継続か挫折かの分かれ目だ。

悪魔の囁き、とは、まず、何かをがんばろうとすると必ず、「そんな事をやっても大した者にならないよ」と言って来る声だ。これは本人自身の内部からも起こる上に、環境的にあまり良くない場所に身を置く者には、実際に他人からもそう言われたりする事になる。

「そんな事をして何になるんだ?」と言う台詞である。何かをやり出すと必ず、こうした人物が回りをうろうろするわけだ。もちろんこうした人間は、自分自身では何一つ全うした事がないものだから、何を見てもまず「否定」から入る。あれは大した事がない、あれをやってもしょうがない、、と言った調子だ。

この手の人間を友人に持って依存していては、同様に何をやっても続かない体質の人間になる。ところがこうした何でも「否定」する友人の方が一見、頼もしく見えるものだから自分の怠惰さを肯定してもらうためにもますます依存する事になる。そして気が付くと何年も二人して何もしないまま時が過ぎ去ってしまっているわけだ。

こうした関係は、お互いが同じ波長で同調している、という事になる。悪魔の囁きも身体の中に潜む負のエネルギーと同調する所から起こるのだろう。こんな「環境」では、何をしても続くわけがない。

悪魔の囁きを受け入れた者の特徴は、総じて、なぜかポジティブな理由に依る「中止命令」である。継続を断念した段階で、なぜかみんな、継続している時の「暗さ」とは対称的に「明るく」元気になるわけである。明らかに一つの「挫折」であるにも関わらず、それを一切、認めようとしない前向きさを示して断念するわけだ。中には、別に病気でもない両親の身体を心配する「正義の人」になって泣く泣く「断念」という形を取る者もいたりするわけだ。

簡単に言えば、イソップ物語りの「すっぱいブドウ」と言う話しとも言える。何度ジャンプしても木に成ったブドウの実が取れないので、終いには、取るのをあきらめたキツネのようなあきらめ方ではある。「あのブドウは、本当は、すっぱいんだろう」と言って立ち去るオチだ。タイトルの「すっぱいブドウ」は、様々な解釈があるが、通常は、「負け惜しみ」と日本語では訳されている。

まあ、それだけ自分に無理な、あるいは、合わない事をやっていた、という事でもあるし、物事をいかに甘く考えていたか、という事の証明でもあるわけであるが、「挫折」を認めない体質からは「反省」もまた見られない。心の底からの反省がない、という事は、いつまでもその体質のままでもあるという事になる。過去の「挫折」から学ぶ事も一切ないわけであるから、幾つになっても昔のままの体質である。

これが、いわゆる三日坊主のパターンでもある。実際、本当に三日で「挫折」する者もいるが、彼等は、自分の過去に「挫折」を認めないから、人生の内で、三日だけは、つらかった、というだけの経験、、という事になる。しかし、本当の反省はないから、三日かけて「そんな事は、自分にとって学ぶ必要がなかったもの」、、という「情報」を手に入れた、という事にすぎないわけだ。

なるほど、こうした客観的に見ての「挫折体験」も、本人の中では、一種の「成就体験」に変換して解釈できるから明るくなれるわけだ。という事は、これはどんどん繰り返しても良い行為、、という事にもなるわけだから、結局、何をさせても三日坊主である。これなんかは、人間は、どこまでもポジティブになれる、、という証明であろう。その代り、何の自己分析もないわけだから、その体質は、一生、変らない。うまくできている。

世の中には、確かに負けたり、挫折したりしているにも関わらず、ちっとも「反省」しない者もいる。「反省」とは、なぜ負けたか、挫折したのか、、の客観的分析を行い、次には、こうした事がないようにする、というものであるだろう。

しかし、自分は、反省したくない、何も悪いと思っていないから、と考えるのも圧倒的多数派ではある。確かに、何をしようが勝手で、反省する必要はないように思えるが、これも「似て非なるもの」で、反省しなくても良い側の代表ではない。

なぜなら物事を始めて、初級の段階で終える、、というのは、あまり、いばれたものではない。その対象の事も何もわからないまま生半可な理解で逃げ出した、という事になるからだ。あれもやったこれもやった、とありとあらゆる職歴を並べて苦労話しをするような演歌歌手のようなものであり、結局、何もわからないまますべてを終えてしまった、という事になる。できるなら、ある程度のレベルまで行ってから「中止」する癖をつけた方が良い。

しかし、また、「継続」とは言っても、すでに落ちこぼれているにも関わらず、あくまでも継続している、と主張する者もいる。遅刻して、3時限目あたりから教室に入って来て、6時限目あたりには、もう早退していない学生、、という事になるのか。こうした状態もまた「癖」になる。甘えの構造そのものでもあるが、やたら年月だけは経ってはいても、ちっとも進化しない、という状態ではある。

これは、受験浪人なんかにも言えて、10年くらい浪人していれば、毎年同じ事ばかりを勉強するわけだから相当に知識がある、と普通は、思うのだが、そうではないらしい。新たに学び始めた受験生にですら最初の1ヶ月目で抜かれたりしているから不思議ではある。これでも「継続は力なり」とするかは、問題である。逆に継続する事で、どんどん力が失われているわけだ。これがマンネリズムでもある。

20年近くも前になるが、ギターを学んでいた高校3年生が、大学受験があるので音楽の勉強は、これ以上させません、という母親からのクレームが入り、教室を退会した。当時は、まあ、受験生だからしかたないか、と思っていたが、何年かして会ったら、あれから大学は、2回落ちた、と言う。「な〜んじゃあそりゃ!ギター修行のせいやないやないかあ〜!」と思わず、関西弁になって突っ込んだ。


こうした「継続は力にならない現象」は、スポーツの世界にも言えて、長年、その事を継続しているベテランになるにつれ、なぜか力が衰えて行くわけだ。その競技を始めて2,3ヶ月しか経っていない者に何年も携わって来た者が、あっさりと負けるわけである。なぜ、そういう現象が起こるのか、、ということは、長くなるので省略するが、なんでも長くだらだらと物事をやる「癖」が付くと集中力が欠けて行く、という事は言える。

しかし、その一方で、「継続」が、確かに力となり、どんどん進化して行く者もいるから、ある一定のレベルを維持できない「継続」は、すべて「脱落」と認識しておくと両者の区別が明確になりわかりやすい。何しろ、進化の早い者が1年で到達する所を確実に20年、30年も掛けてようやく終える、という者たちが存在するからだ。

司法試験なんかは、10浪、20浪も昔は、ざらにいた。隋、唐の時代の中国の「科挙」なんかの官吏登用試験は、10代で目指して、実際に合格してもすぐに定年間際となる50代でようやく受かった、という人もざらにいた、という話しだ。そんな中、あっさりと二十歳くらいで合格する者もいる。その差は30年以上にもなる。現実にこうした修行年数の差は存在する。

3月に入り、これから4月の新春を迎え、色々な修行事にチャレンジして行こう、と思う者も多く誕生する。(しかし、現実には、何かを始めようとする者のほとんどが、大学4年次、大学卒業前、、である。それまでの大学生活で何も学んで来なかった、という事に気付き慌てるらしい。)

何を始めるにも、こうした「挫折癖」をしっかりと分析し、一体、何がその原因かを把握しておかないとなかなか続かない。しかし、あらかじめ修行のそれぞれの「過程」で起こる心理の変遷に精通しておくとその時々の心理状態を客観的に分析でき、困難な状況を乗り越える事ができる可能性が高くなる。一度、何かでそうした経験を経ている者が、「一芸に秀でる者、すべてに通ず、、」と昔から言われる由縁だと思われる。


始めて3ヶ月では、このあたりのレベルだから、こう思うだろう、、とか、1年目ではこうで、2年目ではこうで、、3年目では、、10年目では、、と言った「境地」をあらかじめ予測しておく事である。その時々で起こる「悪魔の囁き」も了解していて、そのたびに、「来た来た、、今回も無視しよう」、、と対処できる。

しかし、また、こうした経験年数中心の考え方は、実際には、年功序列意識を生むから、やはりここは、ランク別にその境地を把握しておく方がよいとは思う。ランク別、、と言うとまた、大きな問題があって、実際の修行事、勝負事の世界では、実力が下級の者は、人間としての価値すらあまり与えられないでいたりする。相撲などの世界もこれである。

ハングリー精神を植え付けるため、とされてはいるが、現代では、こうした方法はなかなか有効ではなくなっている。昔は、貧乏のあまりそこで修行するしか一家を支える手段がなかったから、という事情もあった。だから、厳しい稽古を人の何倍もして、一日も早く立派な力士になって故郷に残した両親、兄弟に楽をさせたい、、と言う思いを胸にがんばるパターンである。

しかし、現代では、「確かに自分は、未熟かもしれませんが、それでも人間です!」というクレームも生まれて来る。もちろんプロ志向の者と単なる趣味の者との違いもあるが、あるレベル以上を要求する趣味事は、ある程度の厳しさが伴わないと一生、平均レベルに達しない、という事もある。

楽器修行もその一つで、いくら本人が「自分は趣味です」と言っても誰も聴いてくれない場合もある。幼児の手習いなら微笑ましく聴けるが、大人の手習いとなるとこれを聴くのに多少の忍耐も伴う。やはりある水準を越えなくては、「役に立たない」芸となる。修行の過程で、先生が、「う〜ん、これは、実際、まだまだ聴くに値いしないなあ」と言ってやるしかない。なかなか回りも遠慮して言えない事であるからだ。

もちろん芸の種類にも依る事ではあるが、「即興演奏」に関しては、相当に厳しく批評されたりして行かないと、「芸人殺すに刃物はいらず、お上手、お上手3回言えばいい、、」と言うことわざの通りになってしまう。実際、う〜む、これは、30秒が限界かな、と言うアドリブを延々と演奏して得意になっているアマチャアープレーヤーもいる。

これなどは、おそらく、相当に甘い環境の中で和気あいあいと練習していたんだろうなあ、と思う。面と向っての批評などは一切されずにそのまま昔取った杵柄と言った感じでそのまま中年域に入ってしまい、ますます誰も何も言えなくなってしまった者もいる。

ジャズの即興演奏に関しては、まず、ちゃんとアドリブがコード進行に沿って音を外していない、というのが一応の大前提で、そこまで到達するのに中国の「科挙」に合格する人、しない人、、ほどの差が現れる。だらだらと取り組んでいたら1年で終えるものでも30年も掛ってしまう。どちらかと言うとこちらが多数派ではある。

しかし、また、それをクリアーしたからと言って終りではない。最も、肝心な問題、、そのアドリブを聴いて喜ぶ人がいるか、、という最終的な課題にぶつかる。ましてや、そこに金銭が発生すればなおさらである。だからアドリブを人前で披露する、という事に関しては、本来、指導者は、厳しいチェックと批評をしてあげないといけない。

こうした現実を見れば、即興一切なしの丸暗記コピー披露のベンチャーズ方式発表会も有りかな、とは思う。


しかし、商売上、そうそう「趣味程度」の者に厳しく当たれるものではない。だから、批評も「まあまあ、お上手、お上手」、、と言った調子で甘くなる。こうした本末顛倒な状況では、なかなか優秀な人材は育たない。実際、ビジネス社会では、その人が優秀で有能だから会社側も認めるわけであり、そうした評価で扱いも変るわけである。能力よりも人間性をまず重視しろ、とビジネス社会ではなかなか主張できない。

芸能界は、そうした扱いの「差別」があって初めて「成り上がれる」システムを持った社会であろう。そこで生き残っている、という事実が、そのまま実力社会となり、結果的に、実力者だけが勢揃いした「年功序列社会」になっている。ここに初めて、年功序列システム=能力主義システム、、と言った理想の社会図式が生まれている。

昔は、そうした未熟者に対して厳しくあたる事ができる師匠がいたから、優秀な弟子が育った、、という。今、こういう事を弟子にでもしたら逆に師匠の側が弟子に刺されかねない。未熟であろうとなかろうと、もっと人間として平等に扱ってくれ、、というわけである。

こうした修行システムに、歳を取るにしたがい抵抗感を抱くわけである。ここに、不当に扱われて当然、、とする若者の修行者との違いがある。歳を取ると自分は、それができなくても立派な人間であるから、そのように扱ってくれ、、という態度がまず先に来る。しかし、最初からそうした「お殿様」の地位を要求しては、もっと上へ行こう、という気持ちが湧くものではない。上達しなくても上達しても同じ地位であるからだ。

修行事は、本来、そうした世俗社会での地位を一切、捨てて取り組まなくては、全うできない所がある。修行事に不馴れな者は、おそらく、若い頃から、こうした修行システムを経験して来なかったのだろう。

しかし、実際の世界では、社長の地位にある者ほど、セールスが上手い、、という事も言える。そこから成り上がって来たわけであるから当然であるが、ついついその事を忘れてしまう。


そこで、物事にあまり挫折せず、継続する、という事の参考になる本はないか、と本屋に行ってあれこれ立ち読みしたり買い込んだりして見た。

チェックして行くと、「言い訳病」というものがまず一つあるらしい。回りに対しても自分に対してもやたら言い訳するわけである。それをやらなかっただけの理由に相当する言い訳が即座に浮かぶわけである。「忙しかった」とか、「気分が悪かった」とか、「面白いテレビがあった」とか、考え出したら切りがないわけである。

結局の所、その奥にあるのは、「自己肯定」である。ポジティブに自己を肯定するような人間には、実際、何の修行もいらない。そのままで十分なわけだからどこも直す必要がない、という事になるのだろう。

しかし、修行事は、「自己否定」しない事には、始まらない。「まだまだ、こんな自分ではダメだなあ」という心である。これがあるから修行できるのである。それなのに何も成就していない内から「自己肯定」してしまう者には、基本的に修行事なんかいらないわけだ。

これは、ダイエットなんかを考えてみれば一目瞭然だ。自分は、醜く太っている、、と自覚している、、つまり自己否定している者は、ダイエット修行を継続する事ができるはずだが、少しでも「人間は、太っていてもいいんじゃないか、、」なんて思ったりしたら苦しいダイエット修行なんか継続できるわけがないだろう。

それとまったく同じ事が「継続型」と「挫折型」のタイプに言えるわけだ。

実際に目の前にある修行をこなさないといけないにも関わらず、挫折型は、常に逃げ場を用意している。自分は、これができなくてももっと別の特技がありますよ、、という自尊心である。本人が特技と言っているが、この際、その特技は、無用である。こうした挫折型は、必ずどこにでもいる。

今、サッカーの練習をしなきゃいけないのに、そこで落ちこぼれている現実を認めようとしないで、自分は、実は、昔から野球をやっていて、野球ならそこそこできるのに、、と言った「言い訳」である。おそらく、野球部へ行けば、今度は、サッカーなら得意なのに、、と言い訳している補欠要員となっているだろう。この時点ですでに「脱落者」「挫折者」であるが、なぜか、ダラダラと野球部に在籍はしているわけである。プライドの高さから挫折を認めないパターンである。

つまり、こうした者が目指しているものは、サッカーや野球が上達する事でもない。元々、そんなものは大して好きではない。ただただ、その事をやる事が世間ではかっこいいから、その事で他人より優位に立ちたい、と願っているだけである。けっして畳職人で成り上がろう、とは思わない。

上達しない、と言う事は、その対象が本当は、大して好きでない、という事だ。本当にその対象が好き、愛している、、のであれば、どんな困難にも耐えられるはずだ。それが「好き」という事の持つ本来のパワーである、と思う。

大して好きでもない事を、これをやれば、かっこいいから、、、だとか、これで他人より優れた人間になって尊敬されよう、という「動機」が、潜んでいるからちょっとした困難に出会えば、すぐに断念してしまうわけだ。もう、この犬、かわいくないからいらな〜い、、と言った感じだろうか。



、、というわけで、あれこれ、考察して来たが、実際には、継続できる人の特徴と、すぐに挫折してしまう人の特徴を比較して行く事が一番わかりやすい。何かを全うできる、という者は、常に、その対象と真っ向勝負をしていて、競争的文脈にいても必ず頭角を現して来る。何をさせても必ずそこそこのレベルに到達している。

ある分野で1流であった者は、他の分野でもある程度の域に達している。(甲子園球児が、歌手や作家になって大成したりする。料理好きな医者、、というパターンもある。)


あっ、時間なので、この辺でやめよう。

今回は、ちょっと長く成り過ぎたが、一応、3月の前半分ではある。







後記:


楽器修行と言うのは、一般の人に取っては、なかなか大変だと言う。毎日、毎日、一定の時間の稽古を全うしなくてはいけないからだろう。

しかし、稽古と言っても、ピンからキリまであって、みんなでやれば楽しい、と言った、大して進化もしない類の稽古から、つらいつらい孤独な一人稽古、と言ったものまである。これに、一般の人は、挫折するわけだ。

「つらいつらい稽古、みんなでやれば怖くない」と言った類のものを「稽古」と言っているわけではない。みんなでやる稽古は、楽しいに決っている。要は、個人稽古と集団稽古のバランスが必要ではあるが、一人稽古を日々できる者はなかなかいない。

4月から来る新たな生活を前に、なるべく、修行事で、一人でも多くの挫折者がいなくなるよう、まだまだ、あれこれと「考察」して行きたい。




PS:この日記を読むだけでも「修行」と言う者がいたりするが、この日記は、「理論」を扱っているだけで、実際の「実践」を見ているわけではない。

頭でっかちになると、ちょっとした実践でも、すぐに挫折するわけである。

大体において、物事を全うするのに「はげまし」が、必要な者の99パーセントは、挫折型で、これは、幼児教育の範疇である。

指導者、教師の役目と言うよりも、その者が何歳になっていても、「はげまし」は、肉親、友人、親戚縁者、、と言った者の役目である、と思う。

この事が、わかってから生徒を励ます、と言う事に無駄なエネルギーを浪費する、、という事を辞めた。まず、学ぶ人間が、ちゃんとした「大人」にならなくては、どんな「修行理論」も役に立たない。


次回は、もっと早く更新したい、と頭では思っている、今日この頃ではある。。








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4月7日(土):生きてますか?メール1題と、人は、なぜ挫折するかシリーズその2




メール『こんばんは。自分は****というもので、長崎県に住んでいます。現在あるギター講師にギターを習っています。
リズムのことをインターネットで検索していると、偶然このサイトに行き着き非常に面白いことが書いてあったので、全部読ませて頂きました。
それで、このサイトに書いてあることは5、6年前のことで今現在、友寄さんは生きているのでしょうか??? 返事をもらった後、CDの購入に入りたいと思います。』(3月25日)



友寄返信:わたしは、まだ生きています。安心して下さい。めんどくさがって近年の活動を記すのが4年ばかり遅れています。



*ついに3月は、影武者11号に依る、一度のみの更新だったか、、。それにしても月に1度の更新は、かなりの職務怠慢ではある。という事で、今回は、影武者8号の自分が、担当となったので何とか3月の怠慢の埋め合わせとしつつ、4月を乗り切りたい。


前回のテーマが、影武者11号に依る、なぜ、すぐに修行事を挫折してしまうのか、というものであったようだが、わざわざ入学シーズンの4月に向けて1ヶ月も更新せずに掲載していたにも関わらず、4月早々、さっそく弱音を吐いて習い事を挫折してしまった者が何人かいるらしい。

習い事をあれほど元気良く始めたにも関わらず、何か、突然、インフルエンザにでも掛ってしまったかのように心が折れ、意気消沈し、ウツ状態に入り、そこから、悪魔の囁きの「そんなものやったって大した事ないよ」が始まるのである。

こうしたプロセスを経て、なぜか、継続している者こそが悪い方で、辞めた自分の方が正しい、と言う風な解釈となり、やがて心も浮き浮きし、久々に見る空は、青いなあ、、と言った調子になる。こうした状況は、昔、テレビで見た、ダイエットを決意して脱落する人の心理プロセスにかなり似ている。太っていて何が悪いねん!、、である。(なぜか、また、関西弁で悪いが、、)

楽器修行は、毎日の稽古事であるから、そうしたトレーニング事との共通点も多々あると思う。しかし、一般の人で、楽器修行をある程度経験し、上手くなった人たちにとっては、好きな事を始めて、それが何の達成感もない段階で挫折する、、という感覚がわからない、という人も多い。

時間がない、という理由も言い訳にはならず、好きな事と言うのは、何かと時間を作って稽古したりしているものだ。駅で、傘をゴルフ.クラブに見立ててスイングする人もそうした時間活用の一つだと思うが、なんとも言えない。

囲碁、将棋好きなんかは、毎日、じ〜と新聞を睨んでは、囲碁、将棋の難問にチャレンジしたりしているわけだから、もし、その人がその対象を本当に好きなら、どんな事をしても時間を確保するだろうし、また、そうしている時間が一番愉しいはずだ。

マラソン好きな人も、マラソンが好きだから毎日走っていると思う。しかし、あれは、マラソン好きじゃない自分などからしたら、何か、前世で重い罪でも犯したための罰ではないか、、と思ったりする。つらいだけの運動ではないか、と思ってしまうからだ。もしも、自分が、毎日、何十キロも走らないといけない日々が待っているとしたら、それは、まさしく地獄の日々で、とりあえず、何かむりやりにでも、今日は、走らないでよい理由を探すだろう。


好きでやるものとそうでないものとの違いは、両者でこんなにも違いが出る。マラソン好きにとっては、マラソンをしないでいる日々が耐えられない、という。これは、楽器修行も同じで、楽器を稽古しない日があるのが、たまらない、という事になる。

じゃあ、最初からこうした棲み分けが、できているはずの両者に何の問題があるか、と考えて見ると、これは、自分が、その対象を嫌いな種族なのに、何らかの影響で、それをやらなくてはいけない状況になってしまった、と言う場合だろう。何か、勘違いして、それをやらなければいけない、と思ってしまったのだろう。


こうした勘違いを起こさせる事を目的としたのが、いわゆる「広告」の世界だ。あたかも、世の中の人に取って、この商品を買う事は、どれだけ重要な事であるか、と説くわけである。それでついつい買ってしまうわけだ。まったく自分とは無関係であるにも関わらず、購入してしまい、2,3日使用して、あとは、部屋の片隅や、押し入れにでもしまっておくハメになる。

音楽産業、語学産業、ダイエット産業あたりが、主な広告産業だろう。楽器を売るためには、誰でも簡単に弾ける、と宣伝しなきゃいけないし、それは、語学、ダイエットも同じではある。

ひょっとしたら、人によっては、この3大広告騙し産業の3つともすべてに常に関わっていて、挫折、再度チャレンジ、、を人生の中で何度も繰り返している者もいるかもしれない。

フランス人の友達もおらず、フランスに行くあてもなく、フランス映画を見た経験もさほどないのに、フランス語を習い始めた者もいたりする。もしかしたら前世でフランスと何のつながりがあったのだろうか、と勝手に解釈するしかないではあるが、まあ、3ヶ月も通えば良い方である。しかし、中には、何年も通っていたりするが、あいかわらずフランス人の友人がいるわけでもない。映画は、アメリカ映画ばかりを見ていたりする。

簡単に言えば、好きこそものの上手なれ、ではあるのだけど、そこに何らかの「不純」な動機が「広告」によって加えられ、あたかも自分に取って必要なものであるかのように錯覚させられて結局は、それを始めてからしばらくして、自分が、それが嫌いだった、と気が着くわけだ。商品を購入する際も同じである。

まったくメールする相手もいないのにメール機能にこだわった携帯電話を購入したり、写真編集なんか一切興味ないのに写真編集機能付きのパソコンの方を選んでしまったりするわけだ。「おまえ、写真なんか興味なかっただろ?」と言うと、「いや、ひょっとしたら写真の才能があるかもしれないから、、」と答えるわけだ。

まあ、当然の結果として、まったく触れる事のないまま、そうしたソフトを搭載したパソコンが机に置かれる事となる。本当の写真好きなら、ちゃんとしたカメラを欲しがり、その手入れも怠る事がないほどのマニアぶりを発揮したりするのだが、写真家としての才能があるはず、と言いながらカメラを弄るのは、めんどくさがっていたりする、という矛盾がそこにあるわけである。


こうした錯覚の根底にあるのが、「それができれば、かっこいい」と言うセルフ.イメージだろう。かっこいいから、と好きだから、、では、まったく違うわけである。

しかし、世の中には、「カッコ良さ」を追求して物事をやり遂げる人もいるわけだから、挫折型の「カッコ良さ」を追求する美学もまた偽物である、という事がわかる。本気で「かっこ良さ」を目指したら普段からカッコ良く生きるはずだ。物事に中途で挫折する事自体「カッコ悪い」。要は、努力する気は、一切ないのだけど、何者かになりたい、、と言う願望がある、と解釈すれば納得できる。


しかし、また、ここで話しが複雑になるが、努力はしているけどまったく進化しない、という者もいる。簡単に言えば、この手の人は、一般的に素直さに欠ける人が多いから、結局、何を忠告してもダメである。

要するに、やっている稽古事が、間違っているわけである。あるいは、そうした間違った事に取り憑かれてしまっていて、それしかやろうとしないわけだ。この状態が何年か続くと確実に右脳が破壊されてしまい、もう、新しい事を始めると言った話しではなく、普段からも面白い事の一つも言えない人間になり、何をしても余裕がなくなって来る。頑固系の老人型である。

なぜ、こうした頑固脳になるのか、考えてみると、どうも、実践と理論のバランスが取れていない状態ではないのか、と思う。「現実」の認識が甘いまま、理論を実践しているわけである。「***せねばいけない」「***せねば次へ行けない」、、と言った調子である。


物事は、必要な事を追求して行く事でその知識を深める事ができるのだが、そうでなくて、何でも事の起こりから始めてそれに囚われてしまっているわけだ。もしも外国人が、美しい発音で、筆を使って日本語を書いたりできない内は、どんな日本人ともまだまだ話すに値しない、、と考えていたら、おそらく一生、日本語を学ぶ事はむつかしいだろう。こうした状態に近い事を頑固系の脳を持った者は、すべての修行事に対してやってしまう傾向にある。

だからこうした人は、どんなに時間を掛けても一芸も身につける事ができない。その人にとっての稽古事は、初級の段階の、いつも同じレベルのものを延々と挫折と再チャレンジを繰り返しながら死ぬまでやって行くしかない。

持続力はないのに「歴史」を学ぶのにどうしても紀元前、古代から始めてしまうような人と言っても良いだろう。そうした過程でプライドもどんどん高くなって行く。やたら修行キャリアだけは積まれる。

進化しない者のほとんどは、このタイプと言って良いかもしれない。びっくりするくらい無意味な練習を熱心にやっているが、まったくその効果は現れない。実際にその対象にぶつかる、という「実践」の中から物事を考えて行く事をしないで、なぜか、その対象に直接触る事だけを避けて(あるいは逃げて、)常にその「周辺」をうろうろし、その対象を考えている、、といった具合だ。

これは、料理を一切やらない人間が、料理とは何だろう、、と考えているものだろうか。こうした、実践を経ないで、観念や理論だけでその対象に関わって行くと実際の実力を人前に提示して行く度胸がなくなって行くし、実践を通して現実の社会から得た感覚で理論の方を修正して行く、という作業ができなくなる。

理論と言うものは、言葉と同じで、「不易流行」でなくてはいけない。まったくその理論通りに事を運ぶと一時代昔のスタイルができあがるだけである。その時代にそうしたスタイルの「青春時代」を送っていない新しい世代になれば、「なつかしい」と言う概念も湧かず、廃れるのみである。フォークグループ、かぐや姫の「神田川」も、銭湯文化を知らない世代には、なつかしい、という感覚も湧いて来ないだろう。


先に、好きなものは、何と言っても上達するのではないか、と言ったが、修行と言う考え方をすれば、嫌いなものでも修行する事によって好きになる事はできる。これが、私が言う「餌付け」と言う概念である。最初は、苦手でも少しづつ実践し、小さな達成感を積み重ねながらより大きな目標に向って行く、、とやり方である。

しかし、修行対象に依っては、そんな悠長な事を言ってられないほど、膨大な内容のものもある。ジャズ学習もその中の一つで、人前でジャズ演奏ができるようになるには、早い者でも3、4年の歳月を必要とする。確かにちょうど音大か何かを卒業する期間ではあるが、これなどは、毎日、何時間も練習しての話しである。みんな毎日どれくらい練習しているのか、と尋ねた事はないが、仕事を終えたりしてからの時間であるから1日2,3時間は、練習しているのではないか。

こうした者と対照的に遅い者となると、ジャズ学習を始めてから20年、30年、あるいは、これはもう一生掛けても無理だろう、と言う者もいる。この違いは何かな、と考えて見たりするのだが、あまりわからない。持って生まれた素直さと努力事が癖になっている者、、と言うしかわからない。

しかし、まず第一に圧倒的にそれらの者に共通して感じるのは、素直さである。言われた事は、きちんとこなして来る、という「習性」である。言われた事をきちんとこなして来る、、という事は、進化度が100パーセントと言う事になる。なるほど、これなら優秀な先生に依る指導では、3,4年で人前で弾くレベルに達する事ができる。

何事も20代で活躍できる者は、みんなこうした体質の修行人である。何を言ってもまったくやって来ない、という者では、物理的に考えても1年で済む事が10年、20年と掛る計算になる。単純に進化度が5パーセントくらいならそうなる。

以前は、よく「完全主義者にならないように」と注意していた事もあったが、これなどは、挫折型に多い体質で、常に、All or Nothingの発想しかできない。まったくやらないか、やるか、、であるが、物事に対して「完全主義者」を初学の者が目指す事自体、傲慢で、実際は、「完璧主義願望」と呼んだ方が良いものである。

「完全主義」なんてのは、熟練されたプロフェッショナルな人間だけが、もしかしたらやれるかもしれない、、とこだわる事で、初学者が心掛ける事は、物事を「完璧」に仕上げる、といった無謀な願望から来る理想ではなく、常に、回りから脱落しないように、といった事をまず第一に考える事が、最重要課題である。

しかし、総じて挫折型に多い体質は、人生が、800年くらいあるんじゃないか、と思われるほどの気ままな修行態度であり、これなどは、自分を相当に過信した態度から出て来る行為ではないか、と思う。

物事に対しての「怠惰」が問題と言う前に、傲慢な「自己過信」がある。自分は、そんなに努力しなくてもある程度の事ができるようになる、と言った態度で物事に接しているのだ。だから直前になってジタバタと騒ぐのである。その一方で、自分は、大した事ないなあ、と普段から思っている「自己否定型」のみが、ちゃんと稽古に勤しむのである。

自己肯定型は、与えられた目前の自分が取り組むべき事を無視して必ず、自分がやりたい事を優先して、結局、何十年も遠回りをする人生を送るわけである。

守破離の「守」の段階からしてなっていないわけである。こうした態度は、自らが選んだ師匠の前でやれるものではない。あきらかに友達感覚であり、最近流行りの「彼をリスペクトしているのでぇ、、」と言った態度の一種であろう。一般社会でも絶対に成功する人種ではない。自分より年下の社長の元では働けないと考えている、お役所的な年功序列感覚の者ではないか。まったくナンセンスな、人生を生きる態度である。

元々、「respect」という言葉自体が、自分と同等、あるいはそれ以下の者を認める言葉であり、自分より上の者に対して使う言葉ではないはずだ。先生をリスペクトしている、と言う言葉そのものが失礼にあたるはずだ。


4月早々、いきなり、修行事に挫折してしまいました、、では、今年一年、縁起が悪い。

これからの人生、常に自分自身を疑い、そうした自己否定の中から、一体、どうしたら、こんなダメ人間の自分は、何かを全うできる人間になれるのか、と日々考える習慣を付けるべきである。


あっ、時間だ!






後記:



自分を信じている人間は、信用できない。そんな奴、戦争になれば、真っ先に極悪非道人間へと変身するはずである。実際そうであったはずだ。意外な人間が意外な行為に出る。

したがい、われわれにできる事は、戦争になれば、確かに自分は、変貌するだろう、だから、絶対に戦争になってはいけないのだ、、と考える思考法であると思う。こうした自己否定型の人間が、ちゃんとした対策を生み出して行くのだと思う。これがいわゆる危機意識であり、この危機意識は、外部にではなく、自分自身に対して発せられているものである。こうした危機意識もあるはずだ。

重要なポイントは、自分は、何か事を始めたら必ず、すぐに中途で挫折するか、あるいは、すぐに師匠自身も舐めて、だらだらと何も得ないまま、何十年もキャリアだけを積むタイプである、という認識である。

だから、こうした自分を何とかしなければいけない、と考えながら日々を送る事が、そうした「人種」に必要な日々の思考法であると思う。

ところが、人間は、歳を取れば取るほど、頑固になり、新しい事を取り入れられない「生物」になるから、やっかいなわけである。

近年、30歳あたりからは、もう老人じゃないか、と思う事がある。

もちろん、古い事は、一切、できないにも関わらず、新しい事ばかりを追求している「フリ」をしている者は、当然、論外である。こうした、ただ、「今」流行りのものだけを求めている人種は、マイルスデイビスに誓っての論外の人種である。

過去の文化の良さ一切知らない者が、出世して行く事は、世の中がまず、認めない。

クレージーキャッツの植木等氏が、あんなにギターのアドリブが上手かったとは、知らなかった。







PS1:



去る3月25日、日曜日に演歌伴奏の仕事。突然、カセットテープを渡され、「このギターをコピーして歌手と二人で演奏してくれ!」と頼まれる。そんなふざけた仕事あるか!と叫びつつ、テープをステージ横で聞くと、リハーサル中でもあり、何を弾いているかさっぱり聴こえず。ウォークマンくらい用意しろ〜!と、再び叫ぶ。曲は、美空ひばり「男の友情」。伴奏は、ギター1本だけ。演歌は、ギターが命である。しかし、相変わらずむちゃくちゃな当日急きょ依頼の任務である。

1時間ばかりリハーサルを勝手に抜け、コピーして帰って来る。すでに本番の時間しかなく、ぶっつけ本番で歌のおばさんと合わせる。う〜む、やっぱり、オレは、偉いなあ、とまたまた「自己肯定」。考えて見れば、私自身は、常に、自己肯定して生きて来たのではないだろうか。。誰も真似しない方が良いとは思う。




PS2:ライブ告知



鈴木ゆき子(P)ジャズセッション

メンバー:


鈴木ゆき子(P)

宮城克人(G)

友寄隆哉(EL-B)



日時:4月18日(水)、午後8時30分スタート(開演)

場所:アルテ鳥掘ウォーバホール(那覇市首里鳥掘)

チャージ:¥1,000

問い合わせ:098(884)7514(アルテプラン)


*今回は、沖縄に帰化して地元で活躍中の女性ジャズピアニストのライブセッションに最近購入したフレットレスベースでサポート参加します。





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4月22日(日):オーナーとジャムセッション、ライブ後記、後記1:オーディションの嘘、後記2:植木等、成毛滋氏に思う


おそらく、日本で13番目に忙しいのではないか、と思われる日々もようやくピークを越えやれやれである。

やれやれと言えば、18日、アルテ鳥掘ホールでのライブは、自分がメインではないにも関わらず、なかなかのものになった。さっそく感想メールも来た。


『ぞうさんベースとは思えない演奏でした。楽器ではなく演奏者で音が決まってしまうのですね。演奏レベルが高くてびっくりです。打ち合わせやリハーサルもやったのですか?毎月ライブありますか?(30代男性)』


当日は、前回の日記を見た、という事で、ジャズオーケストラのメンバーでもある若手トロンボーン隊のリーダーの E君もやって来た。

しかし、私の出演告知は、この日記だけで、新聞のライブ情報やチラシでの告知の際のメンバー名には、ある芸名で掲載している。そのため私自身がベースで参加して演奏している事は、基本的に誰にもわからないようになってはいる。

まあ、この歳で、あんまり見ず知らずの高飛車なライブハウスオーナーなんかにかけあって「どうしても演奏させて下さい!」と頼み込むのも難儀だなあ、という事もある。させても良いけどちゃんとお客さん呼んでくれよ!、、なんて言って来られたらお手上げでもあるからだ。こちらは、店側が「餌」としたい、どうしても有名になりたい、という願望も気力も、すでになくなっていて、あるのは、もっとお客がいてお金が欲しいな〜、と思うだけの俗物ではある。

(当然、このお金に見合う演奏をしたい!とは常に思う。、今の所、演奏に対して100分の1くらいの報酬しか受けていないなあ、と思うわけである。)

無名ミュージシャン稼業にはつきもののようなライブハウス経営者側からの扱いは相変わらずあるようである。

去年、優秀な20代の生徒二人に地元の某有名ライブハウスのジャムセッションに出るように、という荒行を課したら、何と初回は、いきなり5時間待ち、で、午前2時前にようやく2曲弾けた、と言っていた。ジャズ専門の店ではないが、色んなジャンルのミュージシャン「風(ふう)」が出る「系(けい)」のライブハウスである。その店の月1度のジャムセッションデーに参加させた際の話しである。

この手の店のジャムセッションというものは、ありとあらゆる欲望を抱えて一獲千金を狙う者が、様々なジャンルから集合して来るわけだが、5時間待ちは、ちょっと酷いなあ、、と後で同情した。しかし、誰でも初回はそんなものかな、と言う程度に思っていたので、その次の月に、またまた参加の荒行を課した。特に彼等は、おそらくそこでは場違いなほどピカ一に上手い部類に入るとわかったはずだから今度は、店側もそれなりの応対をするだろう、と踏んだわけだ。


今度は、午後8時頃から受け付けをして挑んだらしいのだが、それでもやっぱり、出番が回って来たのは深夜の午前2時過ぎ。その頃には、満席だった参加客のほとんども帰っていたので、わずかな客の前で2曲ばかり披露した、と報告を受けた。当日は、どんちゃん騒ぎ芸のオンパレードで、真面目に何年も音楽修行をして舞台に立ったのは、この二人だけだっただろう、というのに、こうした「オーラ」を持った者たちに対して、5時間待ちを当たり前とされてはたまらない。2回目をもってこの荒行は「卒業」させた。

しかし、よく、そんな状況に耐えたものだ。前半の素人お茶らけ芸が続く度に、拳を握りしめて、ひたすら出番を待っていた、と言う。若者ならではの荒行である。(このエピソードを聞いて初めて、彼等にちゃんとしたステージ演奏の場を提供してあげよう、と思った。もちろん、不平不満など一切出ない、単に恐怖心しか湧かないステージの提供である。以後、ライブ.コンサートの前座などで出演させたりした。)


「ジャズ」と言う事で、店側からも「つまらなくなる」、と判断されたのか、そのために、毎回、他の参加客のほとんどが帰った時間に「ジャズ」をさせていたのだろうか。しかし、彼等の「芸」は、素人芸集団の中で確実に光っていたはずだ。そうした事は、第1回目の参加時点でちゃんと店側は認知できたはずだ。どんなに待たせたとしても1時間程度ではないか。5時間待ちは異常である。その上、客もほとんどいなくなる時間帯、、という状況での演奏では、ジャムセッションに参加する意味がなくなる。

学習の途上にある者は、舞台度胸を付けるためだけにジャムセッションに参加させるわけであるから、肝心の客がいなくては意味がない。客がいないなら家で弾いていた方がよい。どうせジャムセッションに参加しても楽器が上手くなるわけではない。自分には舞台度胸があるな、と思ったら参加しなくても良い。それよりも一番、手に負えないのは、下手くそなのに舞台度胸がある者、、、であり、どちらかと言うとこっちの方が主流ではあるからやっかいではある。

これはお笑いなんかでもよく見かけたりする。本人が上手そうに振舞うものだから、回りが今さら「おまえ下手だなあ〜」と言えないまま、どんどん勘違いして行くパターンである。


もちろん、自分は、あまりにも上手いからジャム.セッションに飛び入りしてどんどん人々に認知されよう、と言う戦略を持っての参加も当然あるが、これはちょっと小数な例で、一般的ではない。

しかし、ジャムセッション参加の本来の目的は、こちらだったかもしれない。いつのまにかそれぞれの目的が変っている感じはある。本来の目的でセッションにチャレンジした者は、5時間後に回されるわけであるから。


店側ももっと発展性のある人間を優先させてはどうか、と思う。これでは単に営利だけを目的にパフォーマンスする者を客として集めた、というのにすぎなくなる。芸事の世界で人間を平等に扱っては、芸は死ぬ。

セッションデーの大義名分は、「若手の育成」であるらしいのだが、これでは育成しなくても良い者ばかりを増長させているだけであるから「営利」以外に何の目的も感じられない。矛盾そのものである。目利きができない者が権力者になると必ずこうした矛盾が発生する。本人は、正義に満ちた行為、、としているが、あまりにも自己を客観分析する能力に欠けるためにこうした矛盾に気付かないだけである。

しかし、まあ、そう簡単に演奏場所は見つからない、と言う事が認知できただけでも次の活動につながったのでよかったのではないかと思う。通常、演奏場所は、どこにでもある、と素人は思っているからだ。だから演奏のチャンスが来ても「また今度お願いします。」なんて事を平気で言ったりする。「チャンスは前髪でつかめ!」ということわざの意味を知るべきだろう。

1度断れば、そうそう「チャンス」はやって来ない。だから普段からそうしたチャンスにいつでも対応できるような「待ち」の姿勢でいなくてはいけない。そうした姿勢でいる者だけが、チャンスがやって来た時に待ってました!と前髪でチャンスをつかまえる事ができる。そうでない者は、チャンスが通り過ぎた時に気付いてしまう。それから慌てて振り返ってチャンスの後ろ髪をつかもうとしても遅く、チャンスはすでに去った後になる、ということわざだ。

予期せぬ頃に突然やって来る「チャンス」を前髪でつかまえる気持ちで日々を送っているとやって来るチャンスに対して、これは本当にチャンスになるか、あるいは、偽物か、という事も十分判断できる余裕も生まれるから常に日々の姿勢が大切である。挫折者の多くは、こうしたチャンスに弱いわけである。事が起こってから後悔するわけだ。これはバッターボックスで絶好球が来るのを「待つ」姿勢とも言える。悪い「待つ」姿勢は、しまった良い球を逃した!、、と捕手の方を振り返るようなものである。



今回のライブでは、フレットレスベースの初演となったが、購入して何曲かを一人一人別々にリハーサルを兼ねて弾いたら、これは何かの冗談かな、、と思うくらい自分が上手かった。あまりの上手さに思わず笑いが出た。まるで今まで、このベースを弾くために生きていたかのようにも思えて来るから不思議ではある。どうもこれは余技を越えているなあ、となった。

まあ、実際、エレキベース(6弦)でもクラブの仕事をしていて、アドリブも取っていた事もあるがライブまではやった事はなかった。近年は、弾きづらいおんぼろエレキベースしか持っていなかったので、長い間、ベースでアドリブまでする気がしなかった、というのはある。

という事で今回、象さんのフレットベースを手に入れたのだが、「象さん、象さん、」とは言え、定価は、3万9千円ではあるから、エレキベースにしては十分である。昨日は、これに少し出力が大きめの重いベースアンプまで購入した。まともにアンプを購入したのも20年ぶりくらいである。ベースアンプでギターアンプまで代用しよう、と言う計画である。

しかしまあ、それでも大した金額のものではない。相変わらず中学生がおこづかいを溜めて買う程度の楽器類ではあるが、一応、楽器の吟味は厳しいつもりではある。


これで、いよいよ本格的にギターを辞めてベースへ転向か、と言う感じにも見える。

フレットレスにした理由は色々あるが、元々、ジャズ界、バンド界に流れるウッドベース幻想、というのが納得できなかったからである。”腐っても鯛”という言葉があるが、業界では、”腐っているのにウッド”とも思える現象ばかりが目立っている。

ジャズには、エレキベースが不要、という感じがあって、エレキベースを真面目に追求しても重宝されない。その一方で、大した経験がなくともそこそこにルートさえ押さえる事ができるならウッドが良い、という傾向がある。ウッドベースを所持している、というだけでウッドが優先されるわけだ。これは、ライブを中心に活動するミュージシャンの話しではなく、単にバンドマンの世界の話しではある。見た目がゴージャスであればいいわけだ。

(もし、どうしてもウッドに限る、というなら、現代ジャズでは、ボーイング中心のクラシカル.ミュージックまで網羅していない者はウッド奏者としては通用しないだろう。)

しかし、一流ミュージシャンの世界では、ピアノのカーラブレイとエレキベースのスティーブ.スワローのデュエットを初め、ジョン.マクラフリンやパット.マルティーノなんかは、平気でトリオでもエレキベースを起用してレコーディングなんかしていたりするわけである。

ウッドベースのニュワンスが、エレキベースでは出せない、と思っているのだろうけど、これはフレットレスベースで十分に出せる。実際、今回のライブ会場で流れているベースを聴いてウッドベースがいるな、と思った者もいるくらいだから弾き方によっては、ウッドのニュワンスはある程度出せる。しっかりとしたエレキベースの基礎ができていれば、可能である。

エレキ.ベース側の怠慢な態度としては、ジャズのベースラインに関しての無頓着さ、であろう。しかし、この問題は、ハンパなウッド奏者にも言える。毎回、同じベースラインで済ませている、という即興性の低さが上げられる。宴会芸としては通用しても録音となると一目瞭然となるので使えないわけである。

そんなわけで、自分のギターでのライブは、平日も簡単に都合が着くベース人材の不足、、、という状況が何十年も続いているので、発想を変え、自分がベースを弾く事によってもう一度、ジャズライブの現場体験を維持してみようと言う試みである。これにより若手の演奏場所を作って行く、という大義名分もできるわけだから、私もようやくこれで「正義の人」の仲間入りができる、、、てぇ〜寸法だ。



あっ時間だ!


この辺で。。





後記1:オーディションの嘘




演奏場所開拓にあたって面白い現象も発生して来る。あちこちのライブハウスオーナーに「じゃあ、演奏して見なさい」と言われ、ハイ!、わかりました、とピアニストが一人弾くわけだが、店主の中には、意外にびっくりしない者がいたりする。

毎回一流のジャズピアニストを相手にしているオーナーならわからないでもないが、そんな事はそうそうありえない。客観的に見て、これくらいの演奏なら、まずこの辺りでは、仰天しないといけない、という絶対的価値判断が、こちらにもある。芸事に対するこの「眼」が確かだから、どこでも通用するわけだ。それなのに、それくらいの演奏では不満な顔をする店主なんかを見たりすると、あれ?何か変だな、と調査が始まるわけだ。


調査に依ると、音大出のピアノの女性連合の中にジャズを齧り出す者がかなりいて、その多くが、ビル.エバンスなどのピアノソロ.バージョンのコピー譜を購入し、延々とその譜面を「勧進帳」のようにコピーしてつなげ、実際のライブ演奏なんかで、そうした譜面を見ながらピアノソロとして披露している、というのだ。

この光景は、以前にもあるジャズ教室の発表会で見た事がある。コンサートでオスカーピーターソンの譜面をそのまま音大の女子生徒に弾かせて、自分が教えた生徒です!と披露させていたわけである。


もちろん、その女性ピアニストたちは、アドリブは一切できない。アドリブができないどころか、合奏ができない。いわゆるジャズのアンサンブル演奏ができないわけである。(クラシック出身特有な傾向で、ビート系の音楽に必要なリズム感が悪い、というのがまず第一にある。)

しかし、まあ、これまでクラシック.ミュージックの譜面で鍛えて来た「演奏技術」がある。この調子で、ビル.エバンスなりオスカーピータソンなりの譜面を延々とソロピアノ演奏として披露するわけである。

いわば、エイブラハム.リンカ〜ンのゲティスバーグでのスピーチを市民の運動会なんかで赤組の応援としてするようなものである。

一方、白組の応援演説者は、しどろもどろに、自分なりのスピーチをして、ああ、なんとかこなせてよかった、、と大騒ぎするレベルである。

実際は、他の楽器と合わす事ができないからピアノソロでやっているのだが、こうした一流のピアノソロ演奏(風)を聴かされて、ああ、これがジャズか、と思ってしまっている店主がいたりすると、自分なりの即興演奏を披露した者の方が当然、大したレベルではない、と判断されるわけだ。

これは、プロの世界では明らかに反則行為、というか詐欺行為にも近いのではないか。もちろんメッキはいずれ剥げて行くとは思うが、学歴詐称の政治家立候補者と同じ印象を持つ。こうした行為は、学習の途上の荒行ではない。自分という人間が、他人に対してかっこ良く見えればなんでもいいんだ、という行為で、こんなことが平気な者は、後々、何を企んで行くかもあやしい。学歴、プロフィール詐称はあたりまえであろう。例え、盗作しても、自分の身分が良くなれば、なんでも良い、とする行為である。


普通、一般にジャズを学ぶ者が、ビル.エバンスを相手に闘えるわけがない。それを、こうした「耳利き」の利かない「店主」及「ジャズ歌手」(ついでに言うが、、両方とも楽器演奏が苦手な「素人」出身である。)、、、が、同等に(ビル.エバンス等と)比較するわけだからたまったものではない。ジャズ通の店主なら、「それって、、、エバンスのソロだよね!」くらいは言えないといけない。

プロとして生きる者は、常にエバンス本人と闘って、自分というちっぽけな存在をアピールして生きているわけだから正々堂々とした生き方である、と思う。したがい、そうした生き方への理解と「耳利き」ができない者が、ミュージシャンを育てられるわけがない。


また、実際にこうしたやり方で回りに認められてしまった者は、これ以上、進化する事ができない。なぜなら最初から「凄い!」と言う評価を得た者が、今さら等身大の自分を曝け出しての修行などできるわけがない。

「えっ!まさか、こんなにアドリブできなかったの!」と指摘される恐怖心があるだけで、冒険心、チャレンジャー魂など起こるわけがない。あるのは、その実体がばれないように、、とびくびくして過ごす音楽人生である。

ジャズ学習は、もっと地道に自分の実力をアップさせて行くやり方を選ばないといけない。


人を説得するには、何かと長い時間が掛るものである。






後記2:植木等、成毛滋氏に思う



*この間、テレビの植木等の追悼番組を見た時、初めてまともに植木氏のジャズギター演奏のさわり部分を見て驚いた。「あっ、うまい!」と思わず言ってしまった。番組に出演していたミッキー.カーチス氏の証言に依ると植木氏は、当時「日本のバーニー.ケッセル」と言われていた、と言う。

ミッキー氏が最初に植木氏を見たのは、当時、日本No.1ジャズドラマーだったフランキー堺氏のグループに参加していた時のステージだったらしい。あのテレビ番組での演奏を聴けば、かなりの知性人だったんだな、という事がわかる。耳の良さは、そのまま歌の上手さにもつながっている。当時、ジャズギターの学習は大変であったはずなのにあっと言う間にジャズの世界もかけぬけ役者の世界へ突入しているわけである。

小学生の頃、植木氏の歌を唄いながらよく学校へ通ったものである。「金のないやつはオレの所へ来い、オレもないけどなんとかなるさ。見ろよこの空、青い空、、」というような詩の歌である。故、青島幸男氏の作詞である。(当初、「青島幸夫」、と記していたら、訂正メールが来た。申しわけありませぬ。。私も政治家のように優秀な秘書が欲しい、とたまに思う。もちろん、ボランティアとして働いて欲しい。)

今でもお金に困った時には、いつも、思わずこの歌を口ずさんでいる自分がいる。



合掌



*この日記を執筆中に三重県方面からメールが来た。3月に成毛滋氏が亡くなったとある。何かコメントを下さい、との事。

最後に氏を拝見したのは、去年か、一昨年か、、NHKでやっていたエレキギターの講座。新聞に成毛滋とあったので見た。

びっくりするくらいに容貌が変っていた。丸刈り頭に野球帽で、とにかくやせ細っていて老人のようであった。口調は、相変わらずの成毛節ではあったが、なぜか、とても謙虚に喋っていた。

思い出されるのは、中学2年の頃の氏との手紙のやりとりである。何通くらい来ただろうか、、。4通か5通あたりではないか。14歳から16歳くらいまでの間ではないか。最後の手紙は、東京にて、これからジャズを勉強します、と書いて送った。それからは、返事は来なくなった。当時は、ロックとのお別れ気分もあった。

10代の頃の自分という人間の人間形成、音楽人生に大きな影響を与えたと思う。一度も会う事も生での演奏を見る事もなかったが、80年代、確か佐川急便かなんかのCMのシンセサイザー音楽で「成毛滋」とクレジットされているのを見て、ああ元気なんだな、と思った事がある。

私たちの世代のギター弾きは、成毛氏にみんな大きな影響を受けたのではないか、と思う。ロック系音楽雑誌を見れば常に特集記事もあった。その多くは、「間違いだらけの、、、」といったようなシリーズであり、あるいは「***の嘘」というものである。言動があれほど面白かった人もいない。闘う人だったのだろう。

この20年近く、音楽雑誌の類を一切読まなくなったので、こうした音楽界の事には疎い。

あの時代の人と比べて今の人が比較しようもないほど進化したわけではない。むしろその逆である。それは、明治の人にさかのぼれば、なおいっそう納得する事だろう。

しかし、自分に本当に影響を与えた人たちは、いつも心の中に生きている。まさに、千の風となっていつも時折、なつかしい気分になる。だからその「生命」は普遍である。その教えも普遍である。今後もずっとずっと普遍である。子孫の代まで普遍である。それが、未来に生きる人たちのための「布石」となるために生れ、やがて今生という舞台から静に退場して行った者たちへ秘かに贈る永遠のブラボ〜(bravo!)である、と思う。


天を仰ぎつつ、成毛滋氏に合掌。








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5月5日(土):ゴールデンウィーク版:成毛滋氏の「リズム論」に関しての質問へのあれこれのマジ回答とよもやま話し。PS:ライブ告知


質問メール:


『こんばんわ、携帯から失礼します。
実はまだ友寄さんのCDは、まだ購入してないのですがどうしても気になることがありまして勇気を出してメールいたしました。
成毛滋さんとリズムのついてのお話で、『すべて忘れて一からやり直し』や日本にはリズムが良いベーシストが三人しかいない(などなど)、というところが気になりました。
これは、ギターマガジンや教則本に載っている、『正しいリズムを身につけよう!』や基本リズム練習みたいなものでは身につかない、別物なのでしょうか?
本の練習内容は8分音符は裏拍子も感じろ16分音符はさらに二等分に細かくなるぞみたいな感じです。(少し適当ですいません)
もしよろしければ教えてください。

成毛さんの事はどんなギターを弾く方かもわかりませんが、ここ最近、師匠のIさんとのお話を何回も見ていたこともあり、驚きました。悲しい気持ちもあります。


PS:「飛び込みメールへの回答は日記にて」への返信メール


おはようございます、返信有難うございます。
日記を楽しみにお待ちしてます。
ちなみに今月号のギターマガジンの黄色のページにてリズムのとり方の練習が書いてます。(良いことも書いてる気がします。)
いつか、CDも買いますのでがんばってください。』

(4月24日:匿名、23才男性)




A あの成毛滋氏のリズム体験論の記事は、1972年12月号の月刊「ガッツ」での記事だから、今から34年と5ヶ月くらい前になるのかな。それで、その記事をこのサイトで「復刻」させたのが2000年の3月だから7年前くらいになるのか。

大体、1990年辺りから音楽雑誌を読まなくなった。楽器と曲集さえあれば、あとは何もいらなくなった。とは言っても、音楽雑誌は、中学生の頃からマメによく読んでは来た。中学1年頃の「ミュージック.ライフ」に始まる。「ミュージック.ライフ」には、レッド.ツェッペリンなんかの記事や写真なんかがよくあった。

それからフォーク系からロック系に路線変更した「ヤング.ギター」や、ギターセミナー系が多かった「ロッキン.エフ」。そしてついにアメリカにもある「プレーヤー」の日本版とかが出て、これこそ待ちに待った雑誌だ、と思った。それから1977年にジャズライフが創刊された。ギターマガジンは、その後だったのか、、創刊号から3ヶ月くらいは、高柳ギターセミナーが掲載されていたはずだ。それからすぐに高柳氏は、病気入院したから覚えている。

、、というわけで、音楽雑誌は、よく読んで来た方ではある。逆に言えば、楽器を始めて、一切、そうした雑誌を定期購読していない人の意欲を疑う。何かに夢中になるってのは、そういうものも含めてむさぼり読む、、という事だろう。もちろん、こうした習慣は、どんな分野であっても同様な手順をなぞる。

それで、久しぶりにギターマガジンを17年ぶりくらいで本屋で探したがなかった!。「ああ、ついに真面目にギターを弾く人はいなくなったのか、、」と思っていたら、まだ入荷してなかった。。それで、2,3日して再び行ったらちゃんと入荷していて、立ち読みする事ができた。用があるのは、その1,2ページの記事だから2,3分くらいの立ち読みで済む。楽器のやり始めの頃は、ちゃんとその1,2ページの記事のためにでも身銭を切って買ったはずだ。

こういう「リズム」関連のテーマものは、何か、微妙にこのサイトにも関連している気はするのだけど、執筆のギタリストは、プロフィール読んでもこちらとジャンルが違うのか、バンド自体がわからないので何とも言えない。しかし、書いてある事は、一応、リズムトレーニング的なものではあるから参考にしてもいいんじゃないか、と思う。こういう事を問題意識にするってのは、世代的に40代以上なのかな、とは思うのだけど。

ここ、近年の人、まあ40歳以下は、あまりこうした話題には関心がないとは思う。東京にいる頃、よくそんな話題を他のミュージシャンにぶつけたりしたけど誰もそんなに関心をもたなかった。時代の変り目だったんだろう。

最近、よく表舞台で活躍している若手というか30代後半なんだろうけど、ジャズのベ−シストがいるが、この間、ツタヤ行ったらあるジャズ.ボーカルのCDのメンバーにもクレジットされてたりして、彼なんかには、「のり」の説明をした。たぶん、彼は、そんな事、覚えていない、忘れたって言うかもしれない。

成り上がる人間ってのは、過去を踏み台にして飛躍するが、名声を得ると過去を一切、消してしまう。これは、プロの修行事の世界では常である。いいえ、あの人には習っていません、まったく関わりすらありません、と言い張り、われこそが、元祖なり、、と名乗り出すわけだ。そのわりには、言っている事が、何か似かよっているのだ。問題は、出来ているのか出来ていないのか、と言う事なのだが、その辺も微妙にうやむやである。これが様々な流派が乱立する理由でもある。

リズムの取り方に関しては、確かに、こうした雑誌なんかのセミナーにもあったりするとは思うけど、やっぱりこういうのってのは、泳ぎ方や自転車の乗り方を文章で説明するような感じはある。実際に泳げたり乗れたりする人なら、読んでも理解するのは早いとは思うが、元々、リズムが悪い人が、そんなのを読んだら余計に悪くなる場合もある。

どういう事か、というと、何の実践的経験も持たない人が、そんな文章ばかりを頭に詰込んでいると、段々、自分はリズムの知識がある、と錯覚して行くわけだ。実際には悪いのに、、だ。また、それを誰も指摘できないわけだ。相手があまりにも上手そうにしているから、今さら、「ところで、おまえリズム感悪いようなあ」なんて言えないわけだ。

ましてや、それがプロだって事で先生でもしていたら、その生徒は、もう、これも運命だと思ってあきらめた方がいい。上手くなる事を諦める、って事だ。

実際、そういう生徒もいた。楽器始めの1,2年にそういう先生に付いたため、結局、何年こちらでやってもそこでの癖が取れず、リズムは良くならなかった。ロックギターを安価で教える、という教室に飛びついたらしいのだが、ギターを始めて2年くらいメトロノームの必要性すら説かれなかったそうだ。2年間、まったく自分のやりたいように弾きまくっていたらしい。

大体が、中学生、高校生ともなると、どの地域にも自分たちの近所に速弾き自慢のマングウェイ.イルムスティーンと呼べるような同級生が住んでいて、神様と崇められたりしているわけなのだが、彼等に共通しているのが、メトロノームの存在すら知らないわけだ。(しかし、メトロノームに関する弊害は、い