友寄隆哉のジャズはなぜ死んだか? ジャズから見る文化論
沖縄から日本を観る
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2002年6月9日(日)より
6月6日(木):テレビの流行り廃り、廃れて行くもの、生き延びるもの。後記:生き霊の念
あ〜、なかなかエースは、取れないな。1日に間に合わないどころか6日になってしまったか。。
6月ともなれば、1年の後半、下半期になる。
最近、テレビの世界は、毎日、いくつものクイズ番組があるほどのクイズ.ブームだ。
これに対して、もうちょっとドラマを制作すべきではないかと、ある女優が文句を言っていた。細木数子が引退してあとのクリーム.シチューの、やる気があるのかないのかわからない番組、「大御所ジャパン」での話しではある。
引退後、さあ、どうなるか、と思って当初見ていたら、だんだん、前半からV.T.R映像だけが流れ、この間は、まったくクリーム.シチューもタッキーも出ず、すべてVTR映像で、ピンクレディーの話しだけが、記録映像のように流されていた。ああ、これは、もうトラブル番組だな、と思っていたら、今度は、クリーム.シチューとタッキーが、番組を宣伝するコマーシャルを見た。
クリーム.シチューが、逃げたがっている所をむりやり説得されて継続しているような感じだ。ジャニーズ枠の一つなのか。だったらクリーム.シチューは、いらないだろうし、細木がいなくなったのだから細木が好きだと言うタッキーももういらないわけだし、まあ、良い。あれから録画したままで、チェックしないまま、ずっと溜まっている。
韓国の大河ドラマ「大王四神記」の方は、やっと「4」話を見終えた。現在は「9」話くらいだろう。「4」になってようやく、ペ.ヨンジュンが出て来た。1話では、神様だった。まあ、見れば、少しは、面白いのだが、見る気にならないので苦戦している。どうも心も顔も綺麗、綺麗をアピールしている役者が、苦手なのだろうか。もうちょっと、努力して見よう。これでは、韓国通になれない。
ああ、そうだ、そうだ。クイズ番組が多すぎるので、もっとドラマを増やせないか、と役者軍団が言う話しだ。
なるほど。わからないでもない。でも、これは、私なんかには、まったく関係ない系の音楽番組でも同じ運命に早くからあったはずだ。ダウンタウンとタモリの番組くらいしか大勢の歌手出演の歌番組はない。
「ぼくらの音楽」は、よく見るが、あれは、一人のアーチスト中心だから、ちょっと違う。(これも2ケ月分くらい溜まっている!)
テレビ番組の傾向に、みんなそれぞれに言いたい事があるわけで、時代劇ファンも何か文句がありそうではある。
そんなわけで、現在は、クイズ番組ばっかりやっているが、私の子供の頃もクイズ番組は多かった気がする。昭和30年代だな。クイズ番組は、作り方が簡単なのかなあ〜と思ったりはする。
(三つのカーテンの中から一つを選択して、最後に残りのカーテンも開いて商品が出る番組、なんだっけなあ〜。そんなのがあったなあ〜。「がっちり買いまショ〜」とか、。柳家金語楼のNHK番組「ジェスチャー」をよく覚えている!どれも、クイズ番組じゃないけど。。まあ、それは、置いといてぇ〜。)
ああ、お笑い番組も今は多い。
(そうだ、そうだ、昔も多かった。牧伸二の「大正寄席」があった。)
こうして見て行くと、時代の流れには、逆らえない。廃れて行くものは、廃れて行くわけで、人がそれを必要としていないから廃れて行くわけだ。
それなのに、この流れの前に立ちはだかり、「止まれ〜、止まれ〜!」なんて叫んだら、スペインの祭りのように、解き放たれて、なだれ込んで来た牛の集団の前に、突然、立ちはだかるようなもので、事故死するしかないわけである。
やめろ〜、やめろ〜、そんな音楽やめろ〜、やめろ〜、やめろ〜、そんなジャズやめろ〜、、もう一度、「フュージョン」をやってくれ〜、「クロス.オーバー」をもう一度〜、と叫ぶようなものである。同様に事故死するしかないだろう。
(フュージョン時代の人気スター、トランペットのチャック.マンジョーネは、今、どうしているのか!)
日本の庶民を支えていた、さすがの演歌も、新宿コマ劇場が封鎖される。
古い世代になると、ロカビリーの殿堂、、”ウエスタン.カーニバル”が終った、、とかの話しで、ちょっと、さっぱりわからないまま40年くらいそうした話しだけは聞く。(平尾マサアキ、、デイブ***ミッキー.カーチス、、etc......)
SKD(エス.ケ〜.ディ〜)も話しだけは聞く。(草笛光子、、、アントニオ猪木、、元夫人倍賞美津子とか、、)、
そんな事を考えていると橋下大阪府知事が、大阪の文化新興会のような組織に何億円も出して、クラシック.オーケストラを支えるのはおかしい、とクレームを付けた。オーケストラの維持費の50パーセントが援助金だと言う。
これに対し橋下知事が、お笑いの人は、100パーセント、何の援助も受けず、何とか努力してがんばっているのに、クラシック.オーケストラは、大阪府民にクラシックを根付かせる努力をしているのか、その上での援助なのか、と意見したわけである。
まあ、あれだけ赤字になっているわけだから、そんな「文化の贅肉」に金なんか出していられない!ってのは、確かに言える。
古くからの、国や地方自治体から貰える「援助金」に対して、「クラシックがそんなに貰えるならジャズだって!」と慌てて組織を作ったりしたわけである。1度のコンサートで1000万円くらいは、援助金が貰えるんじゃないか。
(どうせ、既得権を得たどこの組織も年功序列組織である。私なんかの現在の年齢なら、トイレ掃除係りくらいだろう。病院で掃除婦をしていたフジコ.ヘミングの気分が味わえるかもしれない!まだまだ「立派」で「偉い」先輩が、健在であるからだ。あ〜ありがたや〜。20年前、アレンジの勉強をして来て帰って来たら、「ああ、そう、」と話しは、終ったので、以後、あまり何をして来たか、今、何をしているかは、話さない別行動体質になっている。)
一体、その金がどういった事に使われるかは、わからないが、援助金を貰わずに何とかやれないのか!、、という話しだが、これは、昔から世界の音楽家の間で問題視されるテーマである。
主に作曲家なんかが問題視して言うわけである。結果的に援助されている音楽家は、堕落する、と言う結論で終ったりする。確か、どっかの国、オーストラリアとか、、そんな国の話しだったかなあ。クラシックだからオーストリアかなあ、、。
(ここ20年ばかりこんな話しには疎い。武満徹氏の本なんかで、そうしたテーマを読んで来たわけだ。ジョン.ケージ氏との対談とかで、、。20代の頃だなあ。。”現代音楽”の作曲家の話しだから、オーストラリアだとは思う。)
廃れて行く「芸術」を国や自治体が、援助金を出して支えるわけである。経済的に豊かでもない都道府県が、美術館とかコンサート.ホールだけは、立派に作り、県立のオーケストラなんかも維持させるわけだ。そうでないととても自分たちでは、稼げないわけである。
オペラなんか上演するには、莫大な費用が掛る。年末の紅白歌合戦での小林幸子の衣装だけで、あれほど掛るわけである。そんなのが、何十人と出演するわけだ。
もはや、市民、県民を相手には、暮していけない「芸術」があるわけだ。そもそもの「大衆」からの支持がないわけである。
こうした「芸術系」に対して、その土地土地の地場産業系の”民謡”なんかは、けっこうたくましく、結婚式の余興だとか、民謡クラブなんかを経営しながら観光客の接待で、何とか生き延びている。
それは、まあ、地元の地場産業ならぬ「地場音楽」と言う事で、”観光”には、売って付けなわけである。ニュ−.オリンズのジャズのようなものだ。
ところが、ニュー.オリンズでもない土地、さらには、極東の地での”ジャズ系”なんて言うのは、ジャマイカに暮しているのに「雅楽」の楽団で「食べて行こう」と決意するようなものではある。
(え〜と〜、、カブト虫は、雪国に住めたっけ?それなりの「援助」が、必要ではないのか?)
まあ、「文化、カルチャー」と言うのは、しょうがない。本人が、好きで、”廃れるもの”を好きになって行ってしまったわけである。
ビートたけしにしても志村ケンにしても、まさか、若い頃、あれほど、夢中になった「コント(シッチュエイション.コメディ:状況設定コント?)」が、廃れるとは、思わなかったわけだ。
ビッグバンド一筋で、脳の血管の一つや二つを切る覚悟でハイノート(超高音、ほとんど、わずかに音程の付いた、ピ〜ピ〜ピ〜の超音波音である!)、、、一発に人生を掛けたハイノート.トランペッターたちも、まさか、ビッグバンドが廃れるとは思っていなかったわけだ。
(彼等、ハイ.ノートに掛けるトランペッターたちは、ハイ.ノートに命を掛けて吹くが、あの、、こめかみに血管を浮き立たせての奏法は、大体、40代あたりで、脳硬塞になるくらいあぶない。結局、最後には、トランペット自体、吹くことを断念して転職したプレイヤーも多い。まるで、ボクサーのような人生である。)
様々な事に人生を掛けてはみたが、それ自体が、段々に時代から外れ、廃れて行くわけである。そうかと言って、簡単に今までやって来たものを捨てるわけにも行かない。
しかし、生き延びるためには、そんな事を言っている場合じゃない。ガラパゴスのイグアナの精神は、ここでも生きる。
援助金、補助金を貰いたいと思ってはみても、その権利を得る審査自体に群がる生き物も多い事だろう。
近年のガラパゴス諸島の生物は、観光地化されたために、観光客が残して行く様々な「生ゴミ」を食べて「生き延びている」と、以前、日記で取り上げたガラパゴス諸島の番組では言っていた。
かつて堅い実を食べるためにくちばしを鋭くした鳥たちも、こうしたゴミを漁る中、だんだんにくちばしが鋭くなくなって来ているらしい。10年を待たずしてそうした特徴が現れて来るわけである。
かつて、「生存」するために、知恵をしぼり、様々な武器を磨き「進化」して来た生物たちも、人間界の中で生き延びる事は「進化」ではなく、逆に「退化」している、、と言う話しだ。
人間界の中で生き延びる、、という事が「進化」ではなく「退化」しているのではないか、、という指摘は、よ〜くわかる話しではある。
後記:生き霊の念
世の中は、廃れて行くもの、生き残るもの、再生するもの、新たに誕生するもの、、と様々である。
自分自身が生き残るためには、容赦なく若手のエネルギー、運気を吸い取り、生き残ろうとする魔王、女王軍団、、とまだまだ、悪魔に魂を売ってさえも生き残りたい、、と願う魑魅魍魎が棲息するのが、この世界である。
まさに歴史的悪行は、正義の名において成される、、であるが、魔王、女王軍団は、もはや、その大義名分さえも掲げる余裕すらないようである。事を起こすたびに、何かしらの、下々(しもじも)の「恨み」を買うわけである。
この間、ローカルな沖縄の郷土方言芝居をテレビで見ていたら、生きている人間の恨(うら)みの念は、たとえ、それを発した人が、その恨みを忘れてしまった後も残り、その恨みは、それを向けられた相手に後々、降り掛かる、、と言う台詞を「もの知りおばあさん」という役どころのおばあさん役者に語らせていた。
(NHKの放送だから、これは、沖縄で言う、「ユタ」のおばあさんの事だろう。つまり霊媒師、いわゆるイタコのようなものである。神のお告げをする巫女である。そうした存在に対して「もの知りおばあさん」とは、良く付けたなあ〜とは思う。NHK的ではある。)
生きている人間の「恨み」の念、、、いわゆる「生き霊」の念である。人の反感を買うな!と言う、日常でも使う簡単ないましめの言葉も似た様なものである。
生き霊(りょう)の念は、死んだ人間の念よりも怖い、という話しだ。だから、多くの人から憾みを買った人は、たとえ現在は、成功に見えても必ず、後にその憾みが晴らされるという。その憾みは、子孫にまで及ぶわけである。世の憾みを買った親の成功は、当然、その子孫に及ぶわけである。
この場合は、子孫にあたる者が、相当な「修行」を行わないと、その回りに渦巻く恨みの「念」が消えない。
こうした話しは、沖縄の郷土芝居には、よくある話しである。
年を取ったら、自分がどれだけの手柄を立てたかを誇示するるよりも、どれだけの若者を育てたか、を競うべきであるのに、なをもまだ、自分が出る事に必死なわけである。(これが「年功序列社会」である。)
本物の芸は、誇示しなくともみんなが、その「芸」を愛しているものである。本物でないから、毎度、毎度、自分を誇示するのに必死になるわけだ。
『ダイアナ.クラールが、いちいち、他の若手女性ボーカルに嫉妬するわけがない!。自分をアピールするのに十分な時代を過ごしたはずだ。嫉妬するのは、英語もまったく喋れないのに、”ジャズボーカル”と言い張って生きて来た極東の「おばはんジャズボーカル」連合だけだ!こんな「偽物」たちでは、若手に嫉妬する材料があり過ぎる!(帰国子女は、すでに彼女らから学ぶべき「発音」はない。じゃあ、その次は、何を学べば良いのか?)こうした戦前の「既得権」のまま、生きて来た世代に対し、アンチテーゼを出す事が若者の特権ではないか!他文化に対しての「謙虚」さを欠いたら終りであろう。それを演歌の新人の黒人歌手「ジェロ」は、教えているわけだ。
ジェロが、「自分が、一番、演歌が上手い!」なんて言ったら、北島三郎、、がどう出るか!その前に、「何んだって〜!」と興奮する山本ジョージ、、を抑えないといけないではあるが、、。実際、細川たかし、、が、「演歌は、あれでいいのか!日本人の若手はいないのか!」と、ジェロの「歌唱力」に触れた。』
そんなこんなで、私の場合は、「あんな奴、いなくていいな!」と地元のジャズ関係者及び、昔、ジャズをかじった事あります!系中年の間で思われている分の、、、、その数の100倍くらいは、軽く超えるファンを作らないといかんなあ、と日々、「念」を送ってはいるわけである。
6月13日(金):通り魔事件と教育熱心な親と後藤新平 後記:「耳切り坊主」
最近の事件は、どうしょうもない殺傷事件ばかりである。基本的には、解決法のない不毛な事は、考えないようにしているから今回の秋葉原通り魔事件の解決策に関してもむつかしい。
一般に言われている事に、「護身的考えをする」とかあるが、これもむつかしい。普段からそうした考え方で過ごしている者は、ごくわずかである。ましてや歩行者天国の華やいだ気分の現場である。
これまでのお祭の際にそうした護身的な考えで参加していたか?と問われて「当然です!」と答える者がいたとしたらそれはそれで矛盾している。
そもそも護身的な考えでは、そうした様々な人種がいる所へは、出向かない。出向いてもさっさと帰る。映画館でさえもコンサート.ホールでさえも怖くて行けない。火事になったらあの入り口に人が殺到して出られないはずだ、、と考えただけで、もう、映画もコンサートも楽しめない。
だから、ああした、お祭気分の「気」が集結するスポットでは、護身的思考で過ごす事は、むつかしい。誰かの「警護」でも頼まれての同行でない限り、いちいち周囲に気を配ってはいられない。
ましてや、今回、突然、後ろから体当たりされて刺されるという、一見、プロの仕業だと言っても良い攻撃法である。何かの映像でも見て学習したのだろうか(映画「仁義なき戦い」とか、、、)。突然の体当たりには、普通、注意していないと対処できない。
(前方からの体当たりでさえも、いくら注意していても対応が遅れるものであるのだから、後方から、となると対応ができない。)
いちいちゴルゴ13のように後方に立つ者を殴り倒していては、それこそ、誰が通り魔かわからない。
相手は、正々堂々と向ってこないからこそ通り魔と言える。通りすがりの悪魔である。
自分の存在を知って欲しいと言う孤独感からの犯行と言うが、この動機からするとこれは個人的なテロ行為とも言える。国際テロもそんな理由が発端なはずだ。テロ攻撃をしたら、全世界が、自分たちに関心を持ってくれる、、というものだ。パレスチナVSイスラエルも同じ動機でパレスチナのテロが全世界で起こったはずだ。自分たちの境遇にもっと関心を持ってもらいたい、と言うのがその大義名分だ。
その動機の発端となるのが、世間からの「無関心」と言う事になるのか。
事件現場に居合わせた産婦人科医が、大勢の人が、ただ被害者を見ていたり写メールを取ったりして救助活動には参加せず傍観していた、と嘆いていた。
これもまた群衆心理で、どうしょうもない。叱って治るものでもない。
以前、小学校に乱入して小学生を殺傷した事件があった(犯人、宅間事件)。あの事件の小学校の教員がテレビ出演した際(久米宏ニュースステーション)、なぜか、にたにた笑っていたはずだ。これは、後からテロップが流れ、「人間は、極度の緊張状態では、笑っているように見えます。」とか解説していた。
私なんかから見ると、人間は、、ではなく、日本人は、、と言うように見える。実際にテレビニュースで事件を語る目撃者たちの大半は、笑いながら事件状況を説明している。
誰でもやりそうである。「あそこで火事があってねぇ〜!」と嬉しそうに話すはずだ。
こうした現象が、西洋人にあまり見られないのは、哲学的な理性で抑えるからだろう。(悲惨な事件を笑いながら説明しては、論理的ではない、、と言うような思考法だろう。)
その点、アジア人や日本人は、甘いから、なぜかヘラヘラして答えるわけである。
そんな日本人群衆がお祭気分で集まっているわけである。現場にいた医師のように「個」的な哲学を持って動いていないはずだ。
(医師になろう、という決断からして個的な意志で動いていたはずである。多くの人は、よし!オレは、サラリーマンになるぞ!、、と決意したわけではないだろう。ミュージシャンにでもなるか、、は、あるかもしれない。。)
したがい、こうした群衆心理もあるわけであるから、ああした現場で、大勢の日本人が、一致団結して行動する、という事を望むのもむつかしい。
『徴兵制度でも敷いて、国民全員が、有時の際の訓練を受けていない限り無理である。普段からの防災訓練も必要だろうし。同じ群衆心理を利用するなら、あの現場に何らかのチーム、団体、ロック.バンド、ラップ.バンド、レゲエ.バンドが居合わせたらよかったはずだ。みんなで一致団結して動いただろう。火事見物の群衆心理も同じだろう。(結束力のないジャズ.バンドでは、一致団結した行動はしないからダメだろう。。)』
今回の秋葉原通り魔事件は、どうしたわけかすぐに両親のインタビューまで放映された。あれは、何かに騙されての出演なのか反則だろう、と思ったが、以後、あまり放映されない。毎回、放映したいはずだが、何か、テレビ局の系列で権利が発生しているのだろうか。顔は写っていないとは言え、犯人の両親がマスコミからの質問自由形式のインタビューに答えているニュースは、あまり見た記憶がない。(公式な場所ではなく、何か自宅前の立ち話のような感じだ。両親仲が悪いとされたが、母親は、途中、気分が悪くなりうずくまったので、インタビューが終ったようだ。)
毎回、こうした少年犯罪、若者犯罪で出て来るのが、「両親が教育熱心」という話しである。どこの家も普通に教育熱心だろうとは思うが、世間一般の家庭の「教育熱心」とどう違うのか、がわからない。
また、どちら方面の「教育」なのかも不明である。漢字が読めない事か、計算ができない事か、音階をいくらやっても覚えない、と言う事なのか、一体、どんな教育なのかが不明である。
今の時代は、学歴ではなく、実力主義なのに両親の方が時代から遅れてしまっているのか、この点も不明である。
優等生だが、実力は一切ない、という人間もたくさんいる。書道八段!みたいなものだ。(実際に書かせて見ると、無級の片岡鶴太郎の方が、ぜんぜんいいんじゃないか、となったりするわけである。)
漢字検定1級だからと言って、学者になれるわけでもない。そんなのちっとも気にせず、クイズに参加して、知らない漢字を露呈して平気な学者もいるわけである。(ああ、頭の良さは、漢字なんかじゃないんだな、とわからなくてはいけない。まあ、ほどほどの知識は、必要だろうけど、、。)
暗算世界一が、偉大な数学者と言うわけでもない。
、、となると、「教育熱心」な親とは、一体、どんな事を「教育」としているのか謎である。ただただ、学校の成績を上げれば良い事なのか。
「人間教育」という分野もあるわけであるが、それは、今の時代は、「教育」に入らない。点数に結びつかないわけである。
これを補うのが家庭での教育となるのだろうが、今は、家庭でも学校の先生が担当する「教育」の方に熱心なのかもしれない。
「教育」という言葉自体が、”教え育(はぐく)む”わけであるから、別に知識を増やせばいい、というものでもない。何かを教えて立派に育てれば”教育”に値するわけだ。
昔ならこうした「教育」は、同居するお爺ちゃん、お婆ちゃんの担当だったのかもしれない。(ガバイばあちゃんだな。。)
つまり、両親が「教育熱心」、、というわけでなくまだまだ、両親の「教育」が足りないわけだ。偏った「教育」なわけである。
何も、、頭を良くする、という事だけが「教育」でもないわけである。さらに突き詰めて言えば、「頭が良い!」の意味も曖昧で不明なもんだから、本当の実力はないのに、点数稼ぎにだけは走るわけである。
実際の実力はないのに点数稼ぎな「級」「段」ばかりを上げるわけである。オリンピック代表の柔道選手が何段なのか、どうでも良いはずだ。
(大体、6段から7段だろうけど、、。柔ちゃんで7段あたりではないかなあ〜。あのクラスでは、6段は常識だし。8段は、最高位だし。10段は、相当な年寄りにならないと授与されないし、、。ここだけの内緒の話しであるが、本当に両親がそうした「教育」熱心だった子は、どういうわけか、不思議な事に大した大人になっていない!。たぶん、自発的な学習欲からではなかったからだろう。)
そう言えば、この間、明石家さんまが、サプライズなプロポーズをして結婚したカップルの80パーセントは、離婚していた!、と話していた。プロポーズの日だけが、人生のクライマックスだから後は、落ちるだけだ、と解説している。まるで関係のない話しのように聴こえるだろうが、私の中では、「教育」とも関係がある話しである。
(これも「点数稼ぎ主義」の考える行動である。1度に一瞬で、すべてを解決しようとする癖である!地道にクライマックスを作って行く人生ではないからである。熱しやすく冷めやすい体質なんだろう、と思う。)
そうした中、テレビのハードディスクにある、秘蔵の番組録画コレクションの中から、6月10日の午前3時30分くらいに再放送で放映されていたNHK番組「その時、歴史が動いた」を取り出して見た。
「人を衛(まも)る都市をめざして、後藤新平、帝都復興の時〜」
、、を見た。明治生まれの外科医で、後に政治家になり、関東大震災後の東京の都市作りをした人物だ。現在の東京の都市基盤もすべてこの時に計画されて実行されている。環7とか環8とかの道路構想もすでにこの時からある。この土台を作った人だ。
この土地構想の発想が医者らしく面白い。
動物は、自分で自分の身を守るような身体の構造になっているが、人間は、みんなで協力して自分を守るようにしかできていない。その為の身体が、人間で言えば、都市構造になる、という発想である。都市全体が、人間を守る構造になっていなくてはいけない、というのである。
それが、しっかりしているから人間は、人間同士を守って生きて行けるのだ、というわけである。
(いわば、カメの甲羅のようなものが、都市の構造になる、というのだろう。それがあるから人間は、お互いを安全に保てるわけである。都市計画は、実際の土地売買もあるから大変である。この点から”区画整理”と言う方式が後藤新平の時代から用いられる。都市計画は、明治28年、1895年から構想がスタートするわけであるが、大正12年に関東大震災に遭うわけである。)
晩年は、ボーイスカウトの顧問みたいな地位で、子供の教育に捧げる。
後藤新平が子供たちに説いた3つの教えがある。
1:人のお世話にならぬよう(自助)
2:人のお世話をするように(互助)
3:そして報いを求めぬよう(自制)
である。これらは、少年時代から心がけよ!、という教えである。
なぜか、突然、選ばれて録画された番組の中に入っていたわけである。
一体、通り魔事件などは、どうしたものか、と考えていた矢先であるから、なるほど、これが「教育!」と言うもんだなあ、とわかった。
(やはり、明治の偉人は偉いもんだなあ〜。)
実際の人物は、短気で部下にも相当厳しく叱りまくったと言うが、その部下たちが、やがて様々な所で長となる。(東京市の頃の東京市長など)そうやって東京という都市が完成して行くわけである。
後藤新平が、最後に残した語録の中に、
”金を残して死ぬ者は、下だ。仕事を残して死ぬ者は、中だ。人を残して死ぬ者は、上だ。”
、、という言葉がある。
後記:「耳切り坊主」
先月、前編がNHKで放映され、この間、後編が放映された沖縄芝居がある。(沖縄民謡「耳切り坊主(みみちり.ぼうじゃ〜)」を下に作られた方言芝居である。)
その芝居で、嫉妬の恨みを晴らそうと刀を振り回し相手(高僧)を斬ろうとする王子に対して(もともと、高僧が若い農民だった頃のいいなづけを王子が、むりやり奪ったわけである)側近が、”なりません!人を斬るのは、一瞬ですが、人材を育成するのには、時間が掛りまする!ましてや、これだけの人物を斬る事は、世間を敵に回し王家のためにもなりませぬ!”とその行動を戒めるシーンがあった。
確かに、人を斬るのは、一瞬であり、育てるには、何年も掛る。一般の人間でも、一瞬で、ああした通り魔に変貌するわけである。しかし、そうした事を防ぐためには、何年も掛けての教育があるわけであるが、教育は、地味で膨大な時間が掛る大変な作業である。
やはり、一人一人が、子供の頃から以下の事を心がけるようにと教え込まれていた方が早い、、と、つくづく思う。
1:人のお世話にならぬよう(自助)
2:人のお世話をするように(互助)
3:そして報いを求めぬよう(自制)
秋葉原通り魔事件被害者の御冥福をお祈り致します。
合掌
6月26日(木):「コピーの是非」、後記:伝説のギタリスト、バンドマンとミュージシャン、PS:最近の私事事件
最近は、何かと事件、事故が多く、日記更新も自粛気味ではある。ついつい冗談を言いがちになるためである。
しょうがないから真面目に暗〜い音楽の話しでもしてみよう。
コピーは、いけないんですか?、と聞かれた事がある。まあ、基本的に何でも良いのだけれど、ギターと言うのは、わりあいコピー魔が多い楽器でもあるから、ギタリストからしたらコピーは、日常茶飯事だ。めずらしい事でもない。
昔のロック世代は、コピーばかりやっていた。誰がどれだけ「そっくり」に弾けるか、、を競っていたわけである。
では、コピーのメリットは、何か?、と言えば、やはり、そっくりに弾く事によって楽器の技術が上がるわけである。そのミュージシャンの癖とかタイミング感とかを学ぶ事ができるわけだ。
しかし、ここにも、この指摘が「有効」となる文脈と「無効」となる文脈があるわけである。すべてコピーが正解と言うものでもない。
一体、何のためにコピーをするのか?という目的意識が明確でないと何の意味もない。
例えば、歌手を例に取ると、昔の洋楽系シンガーは、英語の歌を真似する事は、得意だけど、一体、何を言っているかは、さっぱりわからないタイプ、、という派が主流である。これは、たぶん今もあまり変りがないだろう。
『私は、最近、珍獣が何か叫んでいるかのような、ジャズ.ボーカルを聴いた!、よく聴くと英語で歌っていた。。やっぱり、”この素晴らしき「世界」(WORLD)」”、ではなく”この素晴らしき「戦争」(WAR)”と歌っていた。あとは、得体の知れない言語での”雄叫び”だけがこだまする「歌」である。他国の「言語」に対し、傲慢であってはならない、という戒めである。』
この場合の目的とは、パーティーなどで、本物の歌手を真似たような「芸人」「エンタテイナー」「余興担当者」が欲しいわけである。本物は、とても呼べないから、その「コピー.ロボット」が、欲しいわけである。いわば、「代用品」ではある。
夏のビーチパーティーには、ベンチャーズが最適だから、これをコピーしてパーティーを盛り上げよう!、、と言った調子だ。
若者が多いから、人気ロックバンドを再現しよう!、、も同じ目的意識だ。これも、「代用品」としてのコピーである。
次に考えられるのが、その人のような実力者になりたいから、、、という学習上の願望からのコピーである。
外人のように外国語を喋りたい、、だとか、チャーリー.パーカーのようにアドリブができるようになりたい、、とかである。
これなどは、「代用品」になりたい、というものではなく、自分もその人たちのように「本物」になりたい、という願望がある。
そうなると、その人たちの「声色」を真似る事が、果たしてその目的に合致するのか、、という問題が浮かび上がる。
ここでの目的は、その人の「思考法」が問題になっているのである。なぜ、そんなフレーズが出て来るのか、、なぜ、そんな発言をするのか、、といった事が、本来の学ぶべき対象である。
それなのに、その声色を真似る事が、すべてであるわけだ。
この論法では、語学を学ぶのは、発音だけ、という事にもなる。また、その哲学者の「思想」は、さっぱり理解できないが、彼の喋り方は真似る事ができる、、と言う次元と全く同じである。
日本語の意味は、さっぱりわからないが、どんな日本語でもあっと言う間にタイピングできる、という外国人の和文タイプのスペシャリストのようなもんである。(英文タイプも同様)
コピー練習の利点を考えて見ると、例えば、私の教室は、アドリブ教室だからと言って、生徒に対して、「何でも良いから、このウエス.モンゴメリー、ジョージ.ベンソンのアドリブ.ソロを真似て弾けばいいんだよ!」という指導をしたらどうだろう。
(当然、初心者では、技量が足らないからコピーできないため、ある程度、指が動くようになってからの適用になる。)
その結果が、どうなるかと言えば、これで、私の教室の評判が上がるわけである。
あの教室へ通えば、誰でもベンチャーズのように、、あるいは、ウエス.モンゴメリー、ジョージ.ベンソンのように弾けるようになるぞ!、、と評判が上がるわけである。(正直、、ジョージ.ベンソンは、無理かもなあ〜。)
これは、子供に「漢文」を朗読させても同じ結果を得る。
おお〜!何かわからないけど、この先生に習えば、凄い人間になるんだな!という印象を一般人に与えるから教室的には、大成功である。
では、このやり方のどこがいけないか、となると、当然、それを暗記させられた当人たちである。
意味なんかさっぱりわからないのに、ただオウムのように繰り返し唱えただけである。
こうしたメソッドが成立するのは、その真似る形式が、あまりにもシンプルで、とりたてて左脳を使うには及ばない、、と言うものである事が条件だ。(漢文も意味がわかって唱えているわけではない。)
あいうえお、、だけで、何かの言葉を作るという遊びなら有効であるわけだ。「愛」とか「上」とか「甥」とか考えたりすればいい。
ロック.ミュージックの場合も有効である。一つのスケールによって大体、全コーラスのアドリブが構成されているからコピーする価値はある。
(しかし、現実には、アドリブをさせると、まったくかけ離れたレベルのアドリブになる。エリック.クラプトンのソロを何曲もコピーした、という中年ギタリストがいて、自由にワンコードによるアドリブをさせたら、すぐに行き詰まり途中でアドリブを辞めてしまった。)
たとえワンコード内のロック.ミュージックのアドリブさえこうした状態だからこれがジャズとなるとなかなかコピーする事が、実践につながるとは言い難い。
まず、初学者では、すべてが「漢詩」のように意味不明であるためとても実践では活用できるレベルにない。
ジャズは、転調が多いため、一つのスケールですべてのコードに対応させるわけにも行かない。シンプルなロック.ミュージックでのアドリブ.コピーでさえも他の曲に活かせないのであるから、ジャズの複雑なコード進行では、なおさらである。
コピーしたものが活かせるレベルは、私の実力級で言えば、7級以上、と言う事になっている。7級からは、ジャム.セッション修行も開始できる。
(8級からもやれるが、8級からやると一生、インチキばかりで、進化しない人間になる。実際にスケールチェンジがない状態でアドリブができる曲も多々あるからである。たとえば、All
of me ならCメージャースケール1発で良い、、とか、「枯葉」なら、B♭メージャースケール1発で良い、、とか、である。実際、アマチャーの演奏は、こういう感じが多い。8級のまま、すべてに対応しているわけである。いわば、「舞台度胸のある下手くそ、、」と言った種族である。あっと言う間にあれから30年経った、というプレーヤーも多い。)
以前も指摘したが、コピーしたものが、実践でも活かせるレベルは、まず、自分なりにアドリブをして見る経験をある程度積んでからの方が、その吸収力も早い。
スピーチがまったく苦手で、できない者がいたとして、彼が、しかたなく「名文スピーチ集」を丸暗記して、出たとしよう。
万が一、そのスピーチで拍手喝采でも受けてしまうと、彼の今後が、きつくなる。彼のスピーチは、タネ本があり、それのまったくの暗唱でしかないから、実際の彼の実力とは大違いである。
本気で喋ったら、とてもじゃないが、知識もユーモアもゼロで、フリー.トークに弱い役者だったりするわけである。
これでは、彼は、常に、おびえて、自分の本当の実力がばれないようにと願う日々を送る事になるわけである。
本当の実力を付けたい、と願っても、あのインチキで、評判を得たものだから、自分の言葉では、なかなか喋る勇気がない。原稿がないと一切ダメである。
(私は、実は、禿げているんです!とカツラを取る勇気に近いかもしれない!)
実際に、そうしたコンプレックスをポピュラーピアノの世界に進出したクラシック系のピアニストたちが抱えている。
レストラン、ラウンジなどで、ジャズ.ピアノ風のソロ演奏をするのだが、どれも何ページもあるアレンジされた譜面をコピーして勧進帳のようにつなげた譜面を見て弾いているだけである。アドリブもすべてアレンジの中にあり、そのまま弾いているだけである。(コードの事もさっぱりわからない状態である。)
彼女たちには、優れた読譜能力だけはあるからそれが可能なのであるが、一見ジャズピアノ風ではあるが、毎回同じアドリブと演奏である。リクエストなんか来たら大変である。すべてアレンジされたピアノの譜面でないと対応できないからである。
こうして一人でならジャズ演奏も可能だが、コンボ演奏となると、とんでもない、と言う事になる。
こうしたピアニストの中には、ビル.エバンスの譜面をそのまま勧進帳のような譜面にしてステージで演奏をし、大喝采を受けた者もいる。しかし、終りの出演者が総出でのジャムセッションには、現れない。
一人で譜面を読んで弾く分には、良いが、とてもじゃないけど他人との合奏で「ジャズ」は、無理なのだ。
しかし、こうしたインチキ.プレーヤーの大半が、実際は、さほどジャズには、興味がない。興味がないのにそう言う自己演出をしているわけである。地道に一からじっくりジャズの勉強をやろうなんて気は毛頭ないから、そういう詐欺師まがいの行動が取れるわけである。
インチキをして拍手喝采を浴びたら、先のスピーチ者と同じで、もう、怖くて自分のアドリブ修行なんか人前で弾く事はできない。
実際、コンプレックスを抱いているピアニストは、自分のアドリブを試す事ができない。何しろ、ビル.エバンスを弾いて喝采を浴びたりしたもんだから、今さら下手な演奏を聴かせるわけにはいかない。ますます臆病になる。
この手のコピー話しは、他の楽器にもいて、昔、トランペッターのブルー.ミッチェルの「I'LL CLOSE MY EYES 」の4コーラスのアドリブを「完コピ」して、みんなをびっくりさせたアマチャー.トランペッターがいた。しかし、レコード通り4コーラス以上のアドリブは一切しなかった。
(コピーするソロがないからである。4コーラス分しかブルー.ミッチェルが吹いてないからである。)
譜面を覗くと4コーラス分のアドリブ.コピー譜があるのだが、その上にコード進行表記が一切付いていない。
つまり、コード進行は、一切、覚えていないにも関わらず、アドリブだけはきっちりと4コーラス取るのである。
(まあ、一応、バックの演奏に乗せてアドリブを吹くだけのブラス.バンド的技量はあるわけであるが、理論がさっぱりわからないわけである。だから、いちいち完コピした音とコードとの関係はわからない。)
これも残念な例である。当時、自力で吹く「枯葉」のアドリブが、大した事ないものだから、「ブルー.ミッチェルが枯葉を吹いて、マイルスが、I'LL CLOSE MY EYESを吹いているようには、できないのか〜?」と、よく皮肉を言ったものだ。
本当にコピーが必要なのは、ちゃんと理論分析もできて応用ができるレベルからである。
コピーに1週間掛ったとしたら、これを自分の血肉にするには、脳的に見ても半年から1年は、掛るはずである。
それなのに、そうした作業は一切せず、ただ、見た目に良いので、とか、先生自身が、自分の指導の偉大さを一般の者に示すために生徒にコピーしたものを再現させていたりするわけであるが、これでは、本来、生徒のためにならない。
学習上の段階として、コピーをしたものを上級者が、人前で再現して見る事は、有効ではある。意味がわかっていての再現は、その音楽的な境地を知るためにも上級者なら勉強になるからである。
(1流演奏家が、人前で、モーツアルト、バッハを弾くようなものである。)
また、かなりの上級者でないと、微妙なイントネーション、リズムの揺れ、音の強さ、、といった事までコピーできないから、結局は、「似て非なるもの」になるわけである。
特に、リズム面に関しては、注意が必要だ。自分にわかる範疇でのリズムしかキャッチできないからである。
特に、クラシックを中心とした基礎だと、自分の中に音楽を取り込む媒体が、譜面中心となり、なんでも簡単に譜面化できるリズムで捉えてしまう傾向が強い。
先のビル.エバンスのコピー譜に依る再現も、厳密の意味では、似て非なるもの、、である。
本物のリズム感と言うのは、実際は、譜面化できない部分にあるからである。(何千回と聴いて後、ようやく再現できる能力が付く。)
(方言で喋る言葉を文字で書き留めるようなものである。その方言自体がわからないわけであるから、後からこの文字を頼りに発音しようとするとどうなるか。その文字を頼りに再現して見せるしかない。すると、そこから導き出されるものは、どこにでもある「五十音」の範疇のサウンドである。英語をカタカナで書き留める、と言っても同じである。音楽で言えば、それが「譜面」にあたる。単に「メモ」でしかない事がわかる。)
そうした事を踏まえて改めて「コピー」を考えて見ると、本当に、昔のアマチャー.バンドは、コピーが、多かった。ライブやコンサートを人前でやる「ハメ」になると、必死になってレコードのアドリブ通りのソロを行うわけである。(最近は、市販のコピー譜を頼りに練習するわけである。)
意味もわからず複雑なソロを弾くものだから何の勉強にもならないわけである。
「何でもいいから、明日この原稿を読め!」と言ってスピーチ教室が、発表会をするようなものである。
(あっ、そうだ!政治家も同じような感じで、官僚から渡された原稿でスピーチしているなあ!様々な問題にくわしそうで、頭、良さそうに見えるぞ!)
昔のことわざで、”読書百遍、意おのずから通ず(たとえ意味がわからない本でも百回も読めば、意味がわかる)”というものがあるが、ジャズの場合、意味がわからないで弾いていては、ずっと意味がわからないままである。
それを証明するのは、いくらクラシック.ピアノ上がりだとは言っても、実際にクラシック形式の曲を作曲できないのに同じである。あれだけ、クラシックの曲を弾いて来たにも関わらず、作曲は、できないわけである。それは、一般のアマチャー演奏者が、理論的な事は、一切、わからずに弾いて来たからである。
このクラシック.ピアノと演奏者の関係は、レコード、CDコピー演奏者との関係とまったく同じで、全く同じ思考である。もちろん、作曲の理論をちゃんと知っている者が、百回も弾けば、同様な作曲も可能である。弾きながら分析しているからである。
ところが、そうした理論的な事も一切わからない状態で、何億回とクラシックの曲を弾こうが、作曲能力とは無縁である。
ジャズは、いわば、即興の作曲が、求められる分野である。技術は、当然として、まず、ものを分析し同じものを作り出す「脳回路」が、開発されていないと、クラシックの曲を弾いている状態と何ら変りない脳の活動でしかない。
そういう事もわからずに、指導者の指導力を一般に示すために、生徒は、発表会ごとに、「完コピ(、、のつもり)」したアドリブ.ソロ合戦を強いられていたら、その生徒は、自分の実力を磨く時間も度胸も付いて行かない。
(どちらかと言うと「詐欺師」の度胸だけは付いて行くかもしれない!)
実際、一流となっているミュージシャンは”完コピ”の数が多いのに比例して存在しているわけではない。
(それなら、採譜して完コピの譜面を作らされている人間の方が、一流に一番、近いはずだ。近くないから、完コピの譜面を作る「内職」をしているのではないか。。)
学習に一番、必要なものは、完コピの数ではなく、そこから何を導き出して何を学ぶか、、という分析力である。
(読書も同じではないか。ただ、読めばよいと言うものでもないはずだ。)
それは、左脳的面、右脳的面、両方含めてである。優秀な指導者と言うのは、その分析力が優れているから、まさか、こんな人まで、、と思われる人間まで、ある程度のレベルに引き上げられるわけである。
そうした指導力をもたず、何でもかんでもコピーさせて人前へ出し、指導者の実力を誇示して、生徒自身は、結局、何の実力もつかないまま、挫折させて来たシステムが、昔からあるわけである。
潰された生徒の大半は、こうしたシステムの下にトレーニングを受けている。結局、何の意味もわからず、漢詩を暗唱させられただけである。結局、自分では、漢詩を書く事はできないままで終る。そんな事をしているよりは、中国語の文法でも学んだ方が良い。
ふと、私自身もこうしたシステムに見習って、初学者に、なんでもいいからコピーさせて人前で披露させて、私の指導力を世間に見せつけようか、、と思ったりする。
いやいや、これでは、自由がない。ジャズをする、という事から自由を奪ってしまう事になる上に、毎回のレッスンでジャム.セッションもできないので、こちらの方が、相手をするのが退屈である。
まあ、これもぶっちゃけた話しではあるが、こうした理論的な事を理解できる頭脳を磨く気がない者では、ジャズ学習は、無理である。
(「理科」「生物」が、嫌いな医者がいる、というが、、。寿司嫌いな寿司職人は、いるらしい!)
しかし、こうした者でもディキシーランド時代のジャズなら、なんとか行けるのではないか。あとは、1コードの時代のモード.ジャズの時代、、かなあ。
それ以外のジャズに対応するのは、無理だと思う。だって、1小節毎にスケールが変ったりするわけだから、頭を使わない限りできないんじゃないかなあ〜。
(もちろん前述のインチキ.ジャズもある。ドラマーの叩く4ビートシンバルも「インチキ」「インチキ」と聴こえるらしい!)
それが嫌なら、あとは、フリージャズがある。そうだ、フリージャズなら、さほど音楽的な頭脳は使わない。
(頭よりも、ブルース同様、「センス」の方が、問われるかなあ。。)
後記:伝説のギタリスト
誤解のないように念を押せば、コピー反対という事ではない。コピーは、上級者にこそ必要で、また、コピーした時点は、ほんのスタートラインにすぎず、そこから先が、本格的な研究、分析、実践、が始まる、と言っているわけである。
人前で、まずは、べらべら喋る事ができる人にこそ「名文スピーチ集」は、必要だ、と言う意味である。「もう少し、内容を濃くしたらどうか!」と言う段階にあるわけである。何も言えない素人には、名文スピーチ集はいらないわけである。
(やたら名文スピーチ集を人前でしどろもどろになるレベルの素人に覚えさせるインチキ教室では、力は付かない、と主張しているわけである。)
完コピ自慢の”伝説のギタリスト”たちの話しは、ここ地元でも聞かされて来た。タル.ファーローのレコードとまったくそっくりに弾けるギタリストがいる、、とか、ジャズを学び始めた頃は、こうした多くの地元伝説のミュージシャンたちがいた。
30年くらい前の話しである。実際には、自力で「枯葉」も弾けないのだが、なぜかレコードとなら一緒にできるという。タル.ファーローが「枯葉」をやっていないからか、とも思ったが、理論は、さっぱりわからなかった、という話しだから当然の結果ではある。わからなかった、、ではない。理解できなかったからわからなかった、、らしい。
*バンドマンとミュージシャン
バンドマンとミュージシャンという区別をよくする。
バンドマンは、演奏させてくれる店があって、そこの”たった一人の”オーナーにまず気に入られないと仕事がない。クラブのママに気に入られたり、と様々である。客がいようがいまいが、ギャラは、最初から決っているから、主な仕事は、BGM程度に音楽を演奏するわけである。ホスト、ホステスと言うが、基本的には、バンドマンは、音楽でホスト、ホステスをしている、、とも言える。お客さんの好みに合わせて音楽を奏でているからである。
その対極にあるのが、ミュージシャンである。こちらは、ファンがいなければ、成立しない。ファンとは、タニマチの事ではない。ライブをしたら真っ先にかけつけてくれる知り合いでも、友人、知人でも親戚、親兄弟でもない。それらとは一線を画する、なんでもない赤の他人の支持者の事である。こうしたファンに支えられて音楽ができる者が、ミュージシャンである。
ファンあってのミュージシャンであるから、ミュージシャンは、ファンの前で托鉢をして生計を立てているようなもんである。一人のママさんやオーナーに気に入られて食べさせてもらっているわけではない。多くの人に活かされて食べているわけである。
(ライブは、言わば、「托鉢(たくはつ)」をしている僧のようなものであるか、、。いや、芸をしている分だけ、大道芸人か。。待てよ、お坊さんだって「お経」を唱えて上げているじゃないか。あれも「芸」ではないか。。)
だから両者は、基本的に同じではない。
バンドマンの棲息地域は、クラブやバー、カフェ等での演奏であるから、ホステス社会、ホスト社会同様、噂も飛び交う。営業妨害となる中傷や噂をまき散らし、それぞれが、自分の営業活動をするわけである。
自分の稼ぎは、ファンの数で決るわけではないからである。その店のママさんなりオーナーなりが、決定するわけである。いわば、雇用主と雇用者の関係であるから、そうした経営者にまず気に入られないと仕事はない。
そこで、あれこれの中傷合戦で、自分たちの居場所を確保するわけである。まさに「お水の世界」である。
その一方、ミュージシャン稼業は、ライブ.ハウスのオーナーとの間にそんな関係はない。客を呼べるか呼べないか、、である。やり手のNo.1ホステス、ホストなら、30人くらいは、イベントに呼べるかもしれないから、このくらいだとミュージシャンにも対抗できるかもしれない。ミュージシャンは、いわば、自作の曲で勝負するアーティストたちでもあるから、いちいち他人を中傷して自分の居場所を確保する事もない。(自分を高めるのが仕事であるから、そんな暇でもない。)
そう言った次第で、ミュージシャン稼業でいる方が、霊格は、高くなって行くわけである。
PS:最近の私事事件
最近、そこのカフェ.バーぐらいなら、近所だから、ベースで演奏しても良いけどと言ったら、おそらく過去にライブを1回で打ち切ったカフェ.バー(ア**?鳥*?)関係の”雇用者”系の「バンドマン」系からの流れだろうか、「あの男に演奏させてはいけないですよ!サンダルで来ると言うし!」という中傷情報らしき事が、そこの店のオーナーに流れてしまって拒否されてしまった。
(ギャラ決めの「仕事」にサンダルで行くバンドマンはいない!)。
おまけに年齢の事も言われ、会った事もないのに仲介している者へ「オッサンはいらない!」とまで言われたらしい。
ついに音楽以外の「年齢制限」も敷かれてしまう年齢に達したらしい。なるほど、オーナーでいるという事は、”殿様”であるから、家臣は、それに従うしかない。(年齢制限は、実際は、私を断るための口実のようである。)
それを聞いて、こちらも、わざわざ頭を下げてまで、偉い殿様や密告スパイ.バンドマンが暗躍するカフェ.バーでBGM業をやる事もないなあ〜とすぐにパスして話しを流した。
相変わらずの「お水の世界」ぶりのバンドマンの世界に、改めて、凄い世界だなあ〜と感心した。(波長、霊格が低すぎる。。)
自分の精神をピュアにするためには、逃げるが勝ちである
(たんに、関わるのがうっとおしいからでもあるが、)。
こうした世界は、いずれ自爆するように歴史が証明しているからである。私の回りにも、長年そうした策ばかり労して来た者たちの残骸が、たくさん転がっているのだが、新たに、そうした世界の住人になった若い世代の者たちには、それが見えないわけである。
時代は、常に繰り返しているなあ〜と思う。昔も今もバンドマン気質に変りはない。バンドマンになるからそういう気質になるのか、はたまた、そういう気質だからバンドマンになるのかは、不明な話しではあるが、、。
雇用者よりも当然、オーナーが偉いわけであるから、誰でもオーナーになったらよろしあるよ!そうしたらバンドマンの家臣がぞろぞろと集まって来るあるよ!。
エーメン。。。
昔、バンドマンだった頃、(「昔、オレが夕日だった頃」、というフレーズで始まるジャズ漫談があったなあ〜。)ホテルのシンガーとして女性が専属で唄えるのは、30歳くらいで、男性ピアニストは、40歳くらいで、外人風だったらこれにプラス10歳と言った所じゃないか、と聞かされていた。(男性シンガーは、最初からお呼びでないらしい。)
実際にそんな感じで(今は、女性は、もう少し大丈夫だろう。平均寿命も延びたし〜。)、次々とホテル専属のバンドマンが解雇されて行ったりしたのを思い出した。外人風ピアニストでも50歳で終りだったような気がする。
そんな話しを20代、30代の頃は、他人事のように聞いていたら、あっと言う間に自分もそんな年齢風になっていた!。
「御主人様、あれは、とんでもない悪者系のバンドマンですから、雇うとやっかいですぜ〜、、」と耳打ちする、若手、お水系バンドマンの陰謀もあり、また、その”御主人様”も「そうだな、うちの店に”オッサン”は、いらんからなあ〜」となり、二人揃って「フォッフォッフォッフォ〜」「イッヒッヒッヒッヒ〜、、」と、笑いあっている姿が、久しぶりで、バンドマン専用の水晶玉に写った。
バンドマン同士の仕事の奪い合いは、昔から有名ではある。ただ、こうした陰謀こそ、私の感覚では、「おっさん」がやる事だと思っていたのだが、最近の若手バンドマンも既得権を得るのに必死らしい。
やはり、世の中の職業には、「引退」と言う時期がある。バンドマン業は、通常の職業より10年ばかり早いのではないかと思う。
”見た目”、というのがあるからだろう。(「見た目」が、良ければ、それだけ生き延びる確率も高い、と言う事だ!まさに芸能界!)若者を中心とした文化では、自分よりも年長な者にうろうろされては、くつろげないのだろう。
自分よりも年長なバンドマンと仕事の交渉をしたがらない店経営者、ホテル幹部連合も多いからである。
そんなわけで、バンドマン業から第二の職業に転職するわけである。聞いた話しでは、有名なレジャーランドでも、長年、ビッグバンドを雇ったりしてはいるが、10年に一度、入れ替えがあるらしい。若返りチェンジである。それでリストラされたバンドマンも多い。やはりビッグバンドとは言え、40代がぎりぎりらしい。バンマスになるのが、大体、40代後半らしいが、寿命は短い。50歳あたりで定年か。
なんだか、どっかの保険会社みたいな感じではある。10年に一度、「更新」があり、保険料がアップします、、というシステムだ。
このバンドにいても10年後には、リストラに遭うんだよなあ、と考えるわけである。
30才で入ったなら、まあ50才までは、あと20年あるのか、と、一見、安泰のように見えるが、しかし、50才からリストラされては、仕事は、なかなか見つからないから転職も大変だし、どうせ、大変なら、今の内からバンドに入らないで、別の仕事に転職しようかなあ〜と30才のバンドマンは、悩むわけである。
いやいや、20年は、音楽していられるわけだから、まずは、目先の人生を楽しむ事が大切ではないのか、、などと考えるわけだ。
今、30才だから今の内に保険に入れば、確かに保険料は、安いけど、40才になったら更新で、保険料は2倍アップになるわけだし、だったら、40才から入ってもいいわけだし、、いや、もし30代で病気になったらまずいし、、である。
ああ、そうだ。こういうシステムも考え出せる。30才で、バンドに加入できるが、給料は、通常の3分の2、しかし、その代り、60才までバンドで仕事ができる。
もう一つは、とにかく50才には、定年だけど、給料は、カットなし。
どちらを選ぶか、、である。
50才からのリストラでの転職は、むつかしい、、というのが脳裏をよぎるわけである。
計算が苦手なバンドマンでは、どれが得でどれが損かもわからないだろう。
おお!、これは、まるで年金受給は、60才からがいいのか、65才からがいいのか、、という団塊の世代の悩みに似ている。
60才から貰うと毎月5万円くらいだとして、65才から貰うと毎月8万円くらいだとしたらどうだ。
まるで、今流行りのクイズ問題を解くような感じであるが、実際、どっちが良いか、、と飲み屋で57才のおばさんに相談された事がある。私が、本ばかり読んでいるので、頭が良いと思っているからだろう。(非常に特殊な本ばかりしか読まないのに、、。)
65才から受給しようと思うのだけど、と半分、決めかけていたのであるが、私は、即座に「60才からがいいのではないか!」と無責任に答えた。
親戚の人で、63才の者がいて、彼女は、65才から貰うようにしている、という。だから自分もそうしようか、と思っていると言うのである。
そこで、「65才から貰っていい、と思うような生活に余裕のある人は、60才から貰って、それをそっくりそのまま5年定期預金に入れて溜めておけば、いいじゃないか〜」と答えた。
どうせ65才までは、60才から毎月5万円も入るのをいらないと言うんだから、これは、年間にすると60万円になるわけだし、これを60才から65才の5年間で溜めるとすると、300万円になるんだよ〜!300万円の貯金て簡単に溜められると思うかあ〜、300万円の貯金を持って、65才からの5万円をこずかいにすればいいんじゃないかあ〜(何時、亡くなるかもわからんし〜)と説いたわけである。
それとも、65才から8万円取るからと言って、その中から5万円を貯金して、3万円だけをこずかいにして、70才までに300万円溜まると思うかあ〜?と聞いたわけである。
それよりも常に300万円の貯金があるなあ〜と思って65才から過ごす方が、気が楽じゃないかあ〜、となった。
喋っている内に酔いも手伝って、あれこれの演説が始まった。
そもそもねぇ〜、国は、お金を払いたくないもんだから、65才受給システムを考え出しているわけだ〜。それにそのまま乗っかるのが、国の思うつぼなわけなんだよ〜、と続いた。
長生き願望にひっかけて、もしも長生きしたら、、、と言う心理トリック作戦も利用してんだよ〜、とまで出た。
じゃあ、60才からもの凄い美人と結婚できるから、それまでは、絶対、結婚しないでいる事が条件だ、と国が言ったら、しないでいられるのかあ〜、それより、なんでもいいからいた方がいいんじゃないかあ〜と、わけのわからない所まで話しが行った。
あっ、これはいかん、もっと真面目に話そう、と気付き、「あのねえ〜、60才から65才までの5年間の人生に、毎月5万円も定期預金しているんだあ〜と思ったら、その5年の日々が、無駄な人生に思えないんじゃないかあ〜、生きる意味もあるわけじゃないか〜、それを65才までは、年金受けないとしたら、この5年間は、無駄死にする事だけを心配するマイナスの人生にならないかあ〜、そんな日々よりも、60才から、ちゃんと毎月5万円も貯蓄していながらも年金に頼らない人生を送っている方が、有意義な人生なんじゃないかあ〜」と、酔っぱらいながら口だけは、動いているわけである。
(本を読んでいると言っても「ダイエット本」であるのだが、、)
それに、そんなに65才までは、年金に頼らないでいいなら、旦那の年金を65才にすればいいじゃない、と言った。(この夫婦は、同じ歳だ。)
そもそも、65才になった時に、一体、何にお金を使うのか、が大事だよ、ちゃんとその時、孫が幾つになっているかも計算しなきゃいけないよ〜、大学生や社会人になっている孫にお金なんか使わないだろ〜、65才で、ちゃんと300万円を溜めて、65才からは、5万円みんなこづかいで使ってもいいんじゃないの〜、、と締めたら、感動して、「ありがとう!よし、60才から受給して貯金しよ〜!」となった。
その次に、店に行くと、「これ旦那から、ぜひ食べさせてと言っていたから、、」と、旦那が、海で取って来た、という貝やタコが、隠れ「つまみ」と出された。
私は、「おお、竜宮城にいるみたいだあ〜」と、これをつまみにして、呑んだ。
(他人事とは言え、一応、あれから1週間は、「あの回答でよかったのかなあ〜」と悩んで、夢にまで出たくらいである。長生きセレブなら、65才で受給しても良いだろう。どうせ、そのまま貯蓄になるわけであるからだ。しかし、庶民は、ちょっと事情が違うはずだ。何にせよ、60才の者が、65才まで、年金受給だけを夢見て生きているらしい、その現実が、ちょっと悲しいわけである。この空白の5年が、ギャンブルであるが、いらないなら貯金したらいい、と思う。貯金なんてねぇ〜、なかなかできないんだから〜。。)
よかった、よかった。。
後記:
おっと、何の話しだったっけ?
若者に仕事を追い出された老バンドマンの引退から、年金の話しまで行ったか。
ああ、そうだ。保険の話しも、ありがちで、これは、リストラが必要な会社で言えば、定年まで勤めるか、はたまた40才くらいで依願退職するか、、だ。
この場合も微妙な退職金が用意されている。今、自分から辞めると、これだけの退職金があるのだけど、、と言った誘惑である。
こうした計算づくめの世の中を目にしていると、ダイエット本のカロリー計算もあながち無駄ではないかもしれないなあ〜とつくづく思う。
やっぱり、世の中は、すべて、計算、計算、損得、損得なのかもなあ〜。
いや、待て、それを言っちゃあ〜、おしめいよぉ〜、とフーテンの寅さんの声が聴こえるなあ。
自分だけが、得する利益ばかりを追ってると、ちゃ〜んと晩年に罰があたるようになっているし、他人ばかり利用して、自分の名声を上げて来た者も同じような事になっているわけだ。
とりあえず、まあ、善であれ悪であれ、好きなようにやってみたらいい、とは思う。
どうせ、最後の審判は、神様がするわけだし。
私が、いちいち、するわけでもない。
それほど、暇ってわけでもない。
それは、日記の更新を見てもわかるはずだ!
7月18日(金):質問メール1題、ドラマーとベ−シストのリズム感の違いの考察。後記:縮み志向とロボット.リズム感
Q:『初めまして。自分は都内に住む、大学1年生です。
リズム感とはなんだろうと調べているうちに、友寄さんのサイトを見つけ、拝見させていただきました。
自分はブラジルのパーカッションをやっているので、ドラム・パーカッションに非常に興味があるのですが、「3日本人とリズム感」の成毛滋氏の記事に、「日本人の音楽は伝統的にメロディー、間で構成されていて、リズム感は欠如している。だから日本からは、ドラマーやギタリスト、ピアニストが生まれることはあっても、ベーシストは生まれない」という記述がありましたが、逆に言えばなぜリズム感が欠如しているはずの日本人から、ドラマーやギタリスト、ピアニストが生まれるのでしょうか。特にドラマーに関しては、私が今まで周囲からドラマーにはリズム感が必要だと聞かされてきたので、なぜなのかよく分かりません。一体なぜなのでしょうか?突然のメールでの質問をお許しください。』(名無し)
A:この記事が出た頃からすると大分、年月が経ったなあ。35,6年くらい経ったのかなあ。凄いなあ〜。(1972年の12月の記事だ。)
この記事にある成毛滋氏も一昨年だったか、3年前だったか、、亡くなってしまった。あの記事は、当時、中学生だったぼくにもよくわからなかったけど衝撃的な記事となった。あまりにも意味がわからなくてねぇ、、、。
記事の主が亡くなってしまったから、自分なりに考えてみよう。
以下が、その考察。
確かに、ベースもドラムも同じ「リズム感」が要求されるのに、なぜかベ−シストが出るのは、むつかしい、としている。
たぶん、これは、音楽の三要素、リズム、和音、メロディと言った事から言っているんだと思う。
太鼓と言うのは、日本にも昔からある。メロディもある。
しかし、和音と言う概念がない、としているわけだな。まあ、実際、日本では、西洋で言うハモる、、という概念がない。
だからベースと言う、和音の根音をキープし、リズムと和音の両方を支える概念の楽器はないからむつかしい、と成毛氏は、指摘しているのだろうと思う。
実際には、雅楽で使う「簫(しょう)」と言う楽器なんかは、竹を並べて束ねて、上から笛のように何本もの竹に息を吹き込み鳴らす。
これは、竹薮に吹く風のハーモニーを表現して出している、とされる、日本における「和音」の概念を表す楽器ではある。西洋キリスト教音楽の12音の音を組み合わせて生まれた和音ではない。
しかし、それにしたって、そうした合竹の和音の根底を支えるための「ベース」と言う役割はない。そもそもこうした「合竹(あいたけ)の和音」には、西洋で言う音の上下がない。
(こうした日本的なハーモニーの世界を西洋音楽で表現したのが武満徹氏の音楽の世界である。)
そうした歴史的な所から成毛氏は、「日本人には、ベースはむつかしい。。」と指摘したのではないかなあ。
実際には、当時、ロック.ベ−シストとして成毛氏と交流の深い山内テツ氏が、イギリスのロックバンド、「フェイセズ」に加入。日本人ベ−シストとして大抜擢された頃だ。「ロッド.スチュアート(vo)、ロン.ウッド(g
)」
『フエィセズは、元々、ジェフ.ベックのバックバンドみたいな感じで、ジェフ.ベックグループのジェフ.ベックだけが抜けた形のバンドだ。
ボーカルのロッド.スチュアートであっても、でかい音で弾くジェフ.ベックの伴奏を”ボーカル”でしている、、と言われたくらいではある。ロン.ウッドもサイド.ギターだったかな。よく覚えてないが、ボトルネック中心のギタースタイルで、リードギターとしては、あまり偉くはなかった。』
しかし、その後、ロン.ウッドがローリングストーンズに「引き抜き」されて、フェイセズは、解散したのかな、、。
だからまあ、山内テツ氏の在籍は、そんなに長くはなかったかもしれない。
一方、ジャズの世界では、ウッド.ベースの世界だが、水橋孝、鈴木勲、と言ったベ−シストが、アメリカでアート.ブレイキー(ds)のバンドに加入して活躍したりしている。(1960〜1970代初期)
アメ〜リカの巨匠黒人ドラマーに認められてベースの地位を得てリズム.セクションを組むのだから、リズム的には、認められたと言う事だろう。
『アート.ブレイキー&ジャズ.メッセンジャーズだ。このバンドは、アート.ブレイキーの人柄か、とにかく無名の優秀ミュージシャンを起用して、みんなを有名にして独立させている。なんとピアノのキース.ジャレットまで在籍していたはずだ。ちっとも黒っぽくないアドリブのキースではあるのに。。
アート.ブレイキーのバンドにいた、と言うプロフィールは、相当なものであるからだ。名を成したミュージシャンは、そういう”人材貢献”をもっとすべきだろう。。
ドラマーのシェリーマンだったか、確か、キース.ジャレットがそのバンドにいた頃、マイルスがキースを探している、という噂を聞いて、「いいか、マイルスから電話があったら、絶対に今、オレのバンドで仕事しているとは言わなくていいぞ、すぐにOKの返事をするんだぞ!」と、キースの出世を助けている。
誰かのバンドにいるのに誘ったら「引き抜き」になる。マイルスは、そうした事をしない男だとシェリーマンは、わかっていたからだろう。
(*こんなバンマスは、会った事がない。自分だけの名前を売るのに必死で、メンバーを利用するだけのバンマスが多い。だからどこへ行ってもメンバーは、無名のままである。)
アート.ブレイキーに関しては、ジャムセッションでアートブレイキーバンドに飛び入りしたという、当時、バークリー大学に行く予定の佐藤允彦氏(先生)が、翌日、アートから電話が有り、バンドに入らないかと言って来たらしい。しかし、これからバークリー音大に行くと言う事で、断念している。佐藤氏(先生)は、もしもあの時、、と考えたら、、と、このエピソードを運命の別れ道の一つとしてエッセイに書いていた。』
、、と言った当時の状況も含めて、実際、問題、あれから35,6年経った今も、優秀なベ−シストは、少ないではある。全国的にベース不足でもあるだろう。
最近、つくづく思うのだけど、優秀なドラマーは、わりあい簡単に出て来るなあ、とは思う。
特に、天才少年系のドラマーは、次から次へと現れて来る。そんな番組もある。見てるとやっぱり、ああ、けっこう出て来るなあとは思う。今後、ますます若手の天才系ドラマーが続出して来るんじゃないかなあ。
となると、ドラマーとベースとは、一体、どう違うのか?って事になる。
事実で比較すると、確かに、そうしたドラマーたちに比べて、天才ベースはなかなか現れない。
(まず、ベースを子供の内から弾かさない、という状況もある!子供自身も関心を示さないのだろう。また、ウッド.ベースは、子供には、でかすぎる!)
一つ、考えられるのは、ドラムとベースの違いは「持続音」があるかないか、という事がある。
ドラムは、打楽器で、ただ音を叩くだけで音が出る。ドラムは、基本的に1小節に全音符1個を叩くのと、4分音符を叩いて、残り3拍は、休み、でも8分音符を叩いて残りは、休みでも、まったく関係ない。ただ、冒頭で1回叩けば良いわけである。
シンバルなんかは、叩いたら、持続音(残響音)も出るから、休符の場合は、手で止める作業もあるけど、普通に太鼓の部分を叩いている限りは、全音符も4分音符も関係ない。1回叩けば終りだ。
それに比べるとベースは、持続音がある分、ただ弾けばいいと言うものでもない。その辺の違いは、大きい。
ベースでもあまり持続音を意識しないチョッパー.ベ−スのような打楽器的な弾き方もあるが、あれは、ドラマーと同じで、わりあい上手くできる人も多い。
、、という事は、持続音がない楽器は、わりあい、やり易いとも言える。
手拍子なんか、意外にあれこれできると思う。カスタネットも同じだ。やたら速く叩ければ、それだけで上手そうに見える。
口先で行う口パーカションは、わりあいできても、持続音を利用した「歌」は、意外にむつかしいと言う事は、誰にでもすぐわかる。「音程」までコントロールしなくてはいけない。
そうした「音程」を取るのも大変だし、どこで音を切るのかと言った判断もむつかしい。
持続音と言えば、バイオリンなんかは、持続音だらけではある。オルガンもそうだ。
ギターやピアノは、「乗っかりもの」にあたる楽器である。すでにできあがったリズムに乗っかって弾く楽器で、ベースやドラムは、そうした楽器を乗せて弾く「乗っけもの」の楽器と言える。
(ギターは、本来は、ドラム、ベ−スと同じ”リズム.セクション”の範疇である。昔は、アドリブなんかしないでリズムだけ刻んでいたからだ。チャーリー.クリスチャンが、そうした枠から飛び出して管楽器に対抗し始めたわけだ。)
「乗っけもの」の楽器(ドラム、ベ−ス)は、根底からビートやリズムを作って維持して行かなくてはいけない楽器なわけだ。
そうした「乗っけもの」の楽器の中で、ベースは、あれこれと同時並行で処理すべき情報が多い。音程もあるし、ただ、4分音符を連続して弾くにしても、ただ弾けばいい、というものでもない。それぞれ、どの辺まで持続して、どの辺で音を切って、次の音を弾けばいいか、、と言った判断をするセンスも必要だ。ただ4分音符を弾き続けただけでは、”ビート”にならない。
リズムと言うのは、音が消えたり現れたりする、大まかに言えば、二進法で作られている。
(実際には、完全に消えていない音や、わずかに聴こえる音、、なども含めれば、「無限」の組み合わせで成り立っているから「音あり」「音なし」の二進法ではないが、、。)
まあ、むつかしく言う前に、実際、ギターでも音を持続させるディストーションとかを利用してアドリブを弾いたりすると、音が切れ気味の普通のギターの音色より、リズムを作るのがむつかしかったりする。(初学者では、すぐにその未熟さがばれてしまう。)
クラシックでも「レガート奏法」と言って、音を持続させて「なめらかに」弾くのは、むつかしいから、常に「もっとレガートに!」なんて、先生に怒られたりする。
音をプツン、プツンと弾くのは、わりあい誰でも簡単に出せるからだ。
上手くないベ−シストは、ポン、ポン、ポン、、と、いちいち音が切れる。
ウッド.ベースを見よう見真似で独習しているベ−シストなんかを聴けばすぐわかる。
ロカビリー系とか、ハワイアン系、フォーク系のウッド.ベ−シストは、クラシックのコントラバスの基礎技術の訓練を受けずに、すぐにウッド.ベースなんかを弾くから、ポン、ポン、ポン、と音が切れ気味にしか出ない。
切れ気味だと、パーカッション系に似て来るから、一般の人間では、上手いのか下手なのかわからないだろうと思う。とにかく、ポン、ポン、ポン、、とポンポン船の汽笛が鳴っている感じで、風情のある「ビート」ではある。
私なんかは、これを聴くと、ハワイアン.バンドのおじさんベ−シストを思い出す。
ウッドベ−スを弾く際のフォームもやたら左手でネックをガチっと握りしめている。だから支点となる左の親指が、しょっちゅう日の出、日の入りのようにネックから顔を出しては、また沈んでしまう。
(基礎がしっかりした人のフォームは、左手の親指は、しっかりとネックの裏で安定している。だから、若者がでまかせフォームでウッド.ベースを弾いているのを見ると、もうこれ以上は伸びない事がわかる。アドリブ向きではない。水平「弦に沿った」の指の移動に耐えられないフォームだからである。左親指がじゃましているわけである。これでは、ハイポジションの音程もしっかりと取れない。昔の黒人ベ−シストもフォームが悪い者が多いが、彼等は、元来の耳の良さで、悪いフォームを補っていたわけである。だから、一般の日本人で、耳も悪い、フォームも悪いでは、これ以上は、進化しない事だけがわかるわけである。)
あと、ドラムとベースの違いと言えば、ドラマーは、腕全体、身体全体でリズムを取って、上から下へスティックを振り降ろして、叩く、と言う行為でリズムを出している。(あるいは、真横に叩く)
一方、ベースは、指先で弦を「ひっかく」程度で、音を出し、リズムを作っている。
身体全体でリズムを作る楽器と、指先の2本ばかりでリズムを作る楽器の違いもあると思う。
優秀なダンサーは多いけど、優秀なタップダンサーは、なかなかいない。タップダンサーは、足のステップだけで床を鳴らしてリズムを作り出す。
リズムの悪いダンサーは、すぐにはわからなくても、リズムの悪いタップダンサーは、すぐにわかる。
こうした点からも、身体全体を使っている方が、身体の一部分を使ってやるよりは、楽である事がわかる。
(そのためか、どんな部分的な動きでも熟練すると身体全体を使うようにはなって行く。)
、、という事で、むつかしく考えれば、こういう事ではないかなあ、とは思う。
もの凄く、簡単に説明すれば、実際にベースを弾いて見れば、わかると思う。
何と言うか、抽象的な打楽器だけの世界にベ−シストが入ると、何か、もの凄く具体的になってしまい、今まで、無国籍だった音楽が、はっきりと、どこの国の「言語」なのか、、が、判明する感じがするだろう。
実際、日本中、優秀なドラマーの数に比較すれば、優秀なベ−シストは、不足しているはずだ。
こんな回答でよかったのかは、わからないけど。私が記事を書いたわけでもないし。
また、重要な認識の一つに、ドラマーだからリズム感があるってわけでもないし、ベ−シストだからってわけでもない。リズム感の良いフルートとリズム感の悪いドラマーって事も十分、考えられるわけだ。
あるいは、ハーモニー感覚の豊かなサックス吹きと、ハーモニー感覚の貧しいピアニスト、、と言った者も十分、存在する。
そうした意味で、リズム感と言うのは、すべての楽器に通じるわけで、ある特定の楽器に要求されるものでもない。
(この辺をよく一般の人は、勘違いしている。「歌手」だからって歌が上手いわけじゃない場合もあるはずだ。。!)
しかし、リズムだけを音楽の「土台」として表現する役割を専門的に担うと、これがまた、あれこれと苦労があるって事だろう。
だから、ドラムをやれば、リズム感が良くなるか、と言えば、ドラムは、一応、基本的なものではあるけど、リズムのすべてを表現しているわけではない。
優秀なドラマーが、優秀なベ−シストになるかって事は、これがまた何とも言えないわけである。
でもまあ、リズム学習の入門としては、打楽器としてリズムのトレーニングするのが、基本ではある。
(幼児は、まず、何かを叩いて音を出す事に興味を示す。だからドラムは、幼児の最初の音楽教育としては、入りやすい。)
料理の基本が、チャーハンだとして、旨いチャーハンを作ったからと言って、優秀な料理人とも言えないけど、大体において、優秀な料理人は、チャーハンも旨いっ、て、事はあると思う。
他の楽器が上手い人は、ドラムもある程度上手いって事が言える。もしも、練習する時間と場所の環境があれば、、だ。
『実際、チック.コリア(P)とジャック.ディジョネット(DS)は、楽器を交代して弾いたりするレベルであるらしい。ジャック.ディジョネットは、若い頃クラシックのコンサートピアニストを目指していた、という。(実際、自分のバンドでは、ピアノを弾いている。「ジャック.ディジョネット.スペシャル.エディション」)』
成毛氏は、当時、36年前、単純に優秀なロック.ベ−シストが、「山内テツ」氏以外にあまりいないって言っただけの事だとは思う。
「メロディ」として音符を弾くベ−シストはいても、「リフ(RIFF )」が弾けるロック.ベ−シストがいなかったって事だとは思う。
逆に当時も今も、世界で活躍し通用した日本人ドラマーがあまりいない。
(山下ツトム氏は、パーカッショニストとして、チックコリアのバンドにいた事がある。)
これは、今後の天才少年ドラマーたちに掛っている期待だろう。
これは、まだ、かつての第一次(1950年代生まれ)、第二次(1970年代生まれ)、第三次(1990年代生まれ)の天才少年ドラマーたちも成し遂げていない。
まあ、こんな回答では、余計、こんがらがったとは、思うが、、。
後記:縮み志向とロボット.リズム感
かつて、韓国のある文化人が日本社会を指摘した「縮み指向(志向)」と言う考え方がある。大きな自然を切り取って、小さな「盆栽」にして味わうわけである。ミクロで、きめの細かい世界である。
結局、日本人は、機械リズムに頼り、リズムを細分化して行く作業に入る。
その結果、音の材料的には、非常に「有限」である。4分音符、8分音符、3連符、6連符、よくやって8連符、、と、こうした限られた「材料」を組み合わせて作るリズムであるから、非常に分りやすい。アドリブと同時に、その正確な「譜面」が、浮かんで来るリズム構成である。譜面化できない曖昧な音符は、一切、排除されて、ひたすら譜面化できる音だけを機械のように再現する事だけを夢見るわけだ。
そうやって育った、ロックの洗礼を受けていないクラシック上がりのバンマス連合もバックのリズムセクションにもそれを求めるから、ますます「縮み指向」となって行くわけだ。
譜面化できない音符は、音楽として認めない、かのような人間が、リーダーとなり、さらにサイドメンにも同様なリズムを要求するからますますその正確さは、強化される。
一体、何を持って「正確」とするかである。
あの人は、正確な日本語を話す!、、という誉め方があるだろうか。
たとえ、それが、存在したとしても、その「正確」は、けっこう「リアル」ではない。
ロボットたちが、「正確」に、音楽のリズムを作っているわけである。だから、彼等の代りは、機械で十分なわけである。
こうした機械教育を受け、大量生産されたリズム.セクションが、今度は、主流となり、人間を排除し始めるわけだが、それは、元々からリズム感がなかった事の証明ではある。
機械リズムであるから、ちょっとした「ズレ」が、最後まで、変らず、ズレたまま進行するわけである。
一方、リアルな人間の言語では、一体、どこからどう正確でなかったかも不明なくらい自然に言語が流れて行くわけである。
それは、直接、心と心が結びついて理解される言語である。要するに、その「意味」をまず、両者が理解する事が大切なわけである。それが、言語であり、それが「音楽」でもあるわけだ。
こうした視点から見ると、海外の1流ミュージシャンの言語は、どれも微妙に譜面化がむつかしい。
彼等には、元々、4分音符を弾こう、16分音符を弾こう、という概念がないからである。気がついたら、そういうものに近かった、、という感覚である。
”正確な”「五十音」の音を意識して、方言を喋る者はいないわけである。
真面目に「正確」な、ロボット.リズムを身に付けようと必死になっているのが、日本人の特徴となっている。
一方、世界的には、どんな「リズム」とも共存できる事が、世界流ではある。これが、”インターナショナル”って事だろう。
わかりやすくたとえて言うなら、ジャズ.ドラマー、エルビン.ジョーンズの叩くリズムを譜面化して、それを元に叩いたらエルビンになるか、、という事になるか。。
その反対に日本人の技巧派の演奏は、譜面化しやすい。非常に単純な「リズム」素材だけで構成されているからである。その素材も有限で、ごくわずかな組み合わせである。数学者なら、はっきりと、そのアドリブは、全部で何通りのリズム.パターンで構成されている、、とその数を言い当てる事ができるだろう。
もし、なかなかそれが再現できないとしたら、それは、リズムが、むつかしいわけではなく、その譜面自体が、複雑なだけである。
これも、やっぱり、縮み指向(志向)から来るきめの細かさである。
”木目”が細かい、、、が、”極め”が細かい、、になったわけである。
上手い!
座布団3枚でいい!
お後がよろしいようで、、、。
PS:
なんやかんやで、様々な音楽上の問題提起をした成毛滋氏に、改めて、合掌
7月28日(月):イビリの構造と大義名分と言ったもん勝ちのアピール合戦 後記:ジャムセッションと「イビリ」とウィントンとマイルスと人間性。PS:名無しメールと霊格
最近、面白い事に気が付いた。
テレビや雑誌、新聞等のインタビューで、やたらキーワードとなるかっこいい言葉が、当人自身の口から意味不明に突然に使われていたりする。
なんでそんなかっこいい事ばかり言うのかなあ、と思って見ていると、どうやら、これは、当人とは、まったく正反対の言葉だからやたら使っているようなのだ。本人は、無意識に使ってしまうのだろう。
もっともわかりやすい例が、以前、沖縄出身のタレントと言う事で、あれこれのトラブルを引き起こして、現在は、服役中なのか、釈放されたのかは不明なK.H。
あれなんか、やたら「誠意」「誠意」、という言葉を繰り返していて、終いには、「誠意征夷大将軍」の旗まで掲げていたくらいである。
なんでそんな言葉を使うのか、と思って言動をチェックしていたら、そもそも本人には、”誠意”と言うものが最初からなかったようだ。それで、本人とは、正反対の言葉となる「誠意」をやたら口にしていたわけである。(後に「ゆすり事件」を引き起こしてしまうわけである。)
かと思えば、やたら「愛」を説くロック.シンガーが、メンバーに対して「愛」がない対応を取っていたりして、ははあ〜ん、それで、やたら「愛」を唄っていたのか、、と納得する事がある。
家族愛、世界平和を願うフォーク系.シンガーが、離婚していたりもする。それじゃあ、最初からそんなの唄わなければ良いのに、と思うが、本人は、やはり自分に足りないものを唄っているわけである。
それと似たような言葉で、「人間性」がある。やたら人間性が大事だ、大事だ、と突然、言ったりするわけだ。
人間性、人間性を説くわりには、ギャラを支払わないバンマスなんてのは、バンドマンの世界にはごろごろいて、そもそも、チャーリー.パーカー自身が、そうしたバンマスで有名だった、と関連本にあったりする。この間の仕事のギャラは、まだ出ないから、、という毎度の嘘にたまりかねたメンバーが、思わず、ポケットからナイフを出したりすると、「な〜んだ冗談だよ〜!」とすぐにポケットからお金を支払った、というエピソードなんかが紹介されていたりする。(植草甚一著「バードのかれの仲間たち」など、、。、)
(人間性については、五木寛之氏の短編小説でも「海を見ていたジョニー」で、ベトナム戦争で人を殺して来たピアノ弾きが、もうブルースは、弾けないと苦悩する物語りがある。五木文学は、10代の頃、はまってよく読んでいたものだ。。)
人間性と言えば、プロのジャズの世界には、昔から相撲の世界で言う「かわいがり」のようなものがあって、これを単純に「イビリ」と呼んでいる。
ジャムセッションなんかで、新人が来ると、コード進行がむつかしい曲だとか、そうした曲をさらにハイ.スピードで演奏するわけである。「フフフ、オレたちに付いてこれるか〜?」と言った具合だ。
まあ、こうした「風習」も、ミントン.ハウス時代のなごりではあるだろう。あまりにセッション参加者が多いので、演奏でイビって、未熟者を追い出すわけである。
近年では、大体、若手男性ギタリストが、女性ピアニストを「いびる」ケースが多いと聞く。
幼い頃からクラシック.ピアノをやって来て、途中からジャズに目覚めましたあ〜、、とか言う女性ピアニスト軍団に対して、物心が十分に付いた頃にジャズに出会い、独習で楽器練習を始めて、ようやく今日の地位を得たんだ、という若手ギタリストからすると、そうした女性ピアニスト連合は、「威嚇」の対象らしい。
ピアニストとギタリストというのは、同じコード楽器でもあるし、若いギタリストは、その辺でも対抗心があるのだろう。
しかし、そうした現象が起きる事自体、女性ピアニストの方が、音楽力において、そうしたギタリストのはるか上を行く場合が多い。
女性ピアニストの方は、クラシックの素養がある上に、読譜能力は、当然、ケタ違いに上だし、耳の良さにしても比べ物にならないほどの能力差があるだろう。
それが、ジャズの世界にも進出して来るわけだから若手のギタリストに取っては、潜在的に脅威を感じるのである。こうした現象は、まるで、自分のテリトリーに得体の知れない「敵」が侵入して来た事に怯える小動物のようではある。
本来の「かわいがり」は、大御所がやるもので、それに、実際には、演奏でしか示さない。ステージを降りてまでネチネチと「いびる」わけではない。
ところが、若手未熟男性ギタリストとなると、まず、言動からして上から目線で来るそうだ。「そこは、そんなコードを弾かないでくれよ!」と言った言葉による威圧である。
ジャズの楽器の世界は、基本的には、男性社会であるからこうした女性進出に対して、若手となるど、優劣関係をはっきりさせたいという対抗心が湧いて来るのだろう。
私なんか、そんな話しを聞くと「へぇ〜、よく女性なんかいびれるなあ〜、よっぽど女性にもてない男なんだろうなあ〜」と思ってしまう。
実際、もてる男性ミュージシャンは、女性には親切である。(年齢制限はあるだろうが、、。)
ジャズと言う音楽の良い点は、「自分さえ良ければ良い!」という立ち場が守れる所である。
ロックバンドと違い、他のメンバーの演奏が悪いからと言って、自分にまで飛び火する事はない。ロックバンドは、連帯責任があるからそういうわけには行かない。
だから、他のメンバーが、多少、傲慢であっても自分のテリトリーだけを確保できれば、多少の事は気にならない。
例えば、その女性ピアニストが、本当に傲慢で、しゃくに触る人間だとしたら、ほっておいても自滅するはずである。他の人も同様にそう思っているからである。
あるいは、早々に自分のバンドでも組んで、独立して演奏すれば良い。それが、できないなら会社人間のようにおとなしく、メンバーと共存して暮して行くしかないだろう。
それなのに、いちいち女性ピアニストを見るや、すぐに「威嚇」行為を繰り返す若手男性ギタリスト軍団は、実際は、臆病な小動物の行動形態だなあ、と思ってしまう。
ところが、そうした軍団に限って「愛」だの「人間性」だの「音楽性」だの「勇気」と言った言葉が、頻繁に飛び交うわけである。
愛がある人間ならいちいち他人をイビる事もないだろうし、勇気ある人間が、いちいち女性をいじめて天狗になっている場合でもない。
そんな「勇気」があるなら、ニューヨークにでも住んで、皿洗いのアルバイトでもしながら、毎晩、ジャムセッションにでも参加して、暮したらいい。
ジャム.セッションなんて元々、蟻地獄の穴のようなもんで、そこの住人になってしまえば、あとは、獲物が落ちて来るのをひたすら待つわけであるから待つ方に「勇気」があるわけじゃない。慣れない場所へ飛び込むのが、勇気である。
人間、誰でも物事に慣れる前は、臆病である。だから臆病を克服して、その物事に慣れるわけである。しかし、慣れたと思った瞬間に、今度は、これを何とか維持して楽したい、という「守り」に入るわけである。
そこで得た「既得権」を守るため必死になるのである。ある意味、動物化するわけである。動物は、自分のテリトリーの中でしか生きられないからである。それを守るために、外部からの侵入者に対して「威嚇」が始まるわけである。
(そんな事を考えると、威嚇する者は、ひょっとしたら動物霊が取り憑いているじゃないか!)
そんなこんなで、何かにつけ「****のために」と言った大義名分を掲げる人間も多く、みんなのために、、みんなのために、と言うのが口癖なのだが、肝心の「みんな」は、誰も感謝していないどころか、その人を恨んでいる者ばかりだったりする場合も多い。
そういう話しを聞くと、やはり、こうした矛盾だらけの人間は、自分とは正反対の言葉を無意識にやたら使いたがるなあ、と言う事がわかる。
これから、かっこいい言葉で自分を表現するタイプの人間は、こうした点を基準に、チェックして見る楽しみが増えた。
私も、これから、人類の愛と平和のために、音楽を続けて行こうか、、、な?と思う、今日、この頃である。
ケッ!
最高にごきげんなブルースを弾く人間が、一番、立派な人間とも限らない。
論理学的には、逆も真なりとならなければ、「真実」とは、ならないはずだ。
最も信仰心の篤い者は、罪人である、と言う言葉もあるくらいである。
後記:ジャムセッションと「イビリ」とウィントンとマイルスと人間性
ジャズ.ミュージシャン人口と言うのは、確実に減っているわけだからジャムセッションへ出入りする新人女性ピアニスト連合に、その場所に慣れたからと言って、門番のように振舞う若手ギタリストたちが、動物化した対抗心丸出しで「いびる」事ばかり考えていたら、ジャズ人口は、ますます減って行くわけだ。
もっと温かい気持ちで、ジャズの門戸を開いて新たな人間を迎えたらどうか、と思う。
陰気で暗く、対抗心丸出しの人間ばかりが、うごめく相撲社会同様の”男性社会”の密室で、若手未熟男性ギタリスト連合が、女性ピアニストを見つけるや、わけもわからず、その取り憑いた動物霊の指令に従い、外部侵入者を「威嚇」しまくっているとなれば、そうした「空間」に幸せを運ぶ天使なんか降りて来るわけじないじゃんか!
それが成立していた時代の住人は、み〜んな不幸の中で、死んで行ったわけだ。
あれほど、マイルスやハービー.ハンコックに悪態を付いた、若い頃のウィントン.マーサリスが、今になって、ジャズは、人間性だ!なんて言い出したら、真っ先に、ちょっと、ちょっと〜、、それは、たぶん誤訳だろう〜、とクレームを付けたくなるわけであるが、まさか、 ウィントンだって、そんな事、言ったりはしていないだろうなあ、、とは思う。
若い頃のウィントンは、ハービーには、”金の亡者!”、マイルスには、”商業主義に走った老いぼれ!”、、と言った悪態だが、あれが全部、誤訳だったとしたら大変ではあるが、少なくとも、そうした「過去」を持つ、ウィントンが、人間性云々は、言わないだろう、と思う。
(ここ20年くらいジャズ関係の雑誌は全く読んでいない、、のでわからないが、、。)
その点、ウィントンに罵声を浴びせ続けられていた晩年のマイルスの方が、あれだけ悪口を浴びせられたにも関わらず、ウィントンの演奏を誉め讃えて、「あいつの唯一の欠点は、口が悪い事だなあ、、」と言ったくらいだから、人間性と言う点では、多くの弟子を育成した北島三郎やマイルスだろう。
しかし、そういう人たちに限って、自分を立派な人格者だとは、自分から言わないわけである。
馬主でもある競馬好きな北島三郎氏と女性好きなマイルスという事も「人間性」が、どうのこうの、と言えないわけである。
北島三郎氏が、言う事は、常に「礼儀、礼節」であるし、マイルスは、単純に、かっこ良い事しかやらなかっただけだろう、と思う。
7月ももうすぐ終るので、これくらいにしておこう。
PS:名無しメールと霊格
7月18日の日記で、せっかく質問に答えたのに、やっぱり、な〜んの音沙汰もお礼もないなあ〜。
若い内から「名無し」で、メールばっかりしてっと、霊格は、どんどん低くなり、終いには、逮捕されたりするから気を付けた方が良いと思う。
少なくとも、相手の正体がわかっている場合は、自分もちゃんと素性を明かした方が良いだろう。
名無しが集まる場所ばっかり毎日ネット.サーフィンすると、本当にどんどん霊格が落ちて行く事になる。波長が、そうした連中と一致してしまうわけだ。コンビニの前でたむろする暴走族と同じ波長になるのに同じだ。
名無しで、質問すると、指導霊も良いのが、憑いて来ない。
私が、成毛滋氏に質問した中学生の頃は、手紙しかなくて、この辺の事は、きちんとしなければ、返事が貰えなかったわけだ。
そうやって、色んな事を学んで行った、と思う。
この経験から名無しメールで、素性が知れている人に質問する人は、損しているなあ〜とつくづく思う。
成功者に、そんな過去は、当然ないから、そんな事実を作ってしまう事に対して、残念だなあ、と思うわけである。1回作っただけで、少なくとも10回分の成功チャンスがなくなるわけである。
8月10日(日):マスコミ運と永六輔氏が淀川長治氏に学ぶ誕生日の過ごし方とある日の合コンとその一日。後記:行動論、意味ある行動と意味のない行動
あ〜あ、もう8月も10日じゃないか。
何か書かないといけない、と思いつつも、山あり谷ありで、パソコンの前になかなか辿り着けなかった。「もう、ブログにしたらどうだあ〜」と、言われたが、えっ、あれはブログじゃないのか?、、と意味がわからないままでいる。
結局、机の前に腰かけてワープロを打つならどれも同じであるけれど、写真なんかも載っけたいなあ、と言ったら、「それは、商売と関係あるのか?」と言う事になり、別にライブ風景を写すわけでもないから関係ないか、、とこのままにしておく事にした。まあ、いずれ考えておこう。
穴場の食堂巡りの情報はあれこれある。何しろ地元のガイド本を見て、この2年くらいで、そば屋だけでも50軒くらいは開拓しているはずだ。この調子で行くと、そば屋のガイド本に自分が、そばを食べている姿が掲載されないかなあ、と思うくらいである。昔からコネと賄賂、裏金なんかが飛び交う新聞、雑誌、テレビ、ラジオの類には、まったく縁がないので、こうしたガイドブックにでも載ったら記念になる。
(載る人は、どういうわけか、定期的に新聞、雑誌などに出て来たりする。載らない人は、まったく載らない。どうも怪しい。ほとんど記者が常連となっている飲み屋で密約が交わされているんじゃないか、と思うほどであるが、以来、載る人の方が、”ああ、これもまた悪者(わるもん)だろう”、と勝手に決め込んでいる。載らない人の方が「いい者(いいもん)」である。だって、載っている人は、なぜ載っているのかが不明な記事ばかりだからだ。
何の偉業も行っていないのに、ただインタビューに答えているわけだから興味のないタレントが出て来た”オーラの泉”の番組と同じくらいにつまらないわけだ。私は、地元でもこの有り様だが、むかし、当然、まだ載った事もないジャズ専門の全国誌に、当時の生徒が巻頭インタビューのような記事で何ページかにわたって、でかでかと載った事がある。
あの時もあやしげなコネが利用されたはずだ。当時、よくそんなレベルで載るなあ〜とその行動力に驚いたものだ。だってアドリブができないのにフュージョン系ミュージシャンとして取り上げられたわけだ。90年代の沖縄ブームは、まさに何でもいいから行け行け〜の状況だった。そんな実力ギャップを埋めるべく、大慌てで私の教室に来たわけだが、まったく練習しないので、結局、進化できなかった。現在は、転職しているはずだ。まあ、かえって、その方がよかったかもしれない。第一線の世界は、最終的には、実力がないと生き残れない世界だからだ。作曲した、というインストのオリジナル曲は、イルカの唄う「なごり雪」にそっくりなコード進行とメロディの曲だったし、、。大衆受けを狙うとヒットした曲に似て来るもんなんだろう。)
そう言えば、この間、テレビを見ていたら、徹子の部屋に、久しぶりに何年ぶりかで見た、あまり呂律の回らない永六輔氏が出ていた。
その話しの中で、映画評論家の淀川長治氏(故人)の誕生日が、自分と、「上を向いて歩こう」の作曲兼ジャズピアニストの中村八大氏(故人)とフォークシンガーのさだまさし氏と同じ日だと言うので、3人で、淀川氏の誕生日を祝いに行こうと言う事で当日、行ったら、いい歳した3人が、揃って淀川氏に叱られた、と言う話しをしていた。
誕生日で苦労したのは誰だ?と言われ、それは、母親だろ!自分は、何もしていないじゃないか?だから誕生日は、母親に感謝し、その慰労をする日なんだよ!と早く帰ってそうしなさい、母親が亡くなっていたらお墓参りでもして来なさい!と叱られたそうだ。
なるほど、そんな考え方もあったのか。。(淀川氏は、長い間、母親と二人っきりの暮しだったはずだ。。。自分の母親が「NHK」と言えない、と母親の事に触れているエッセイがあった。「ぬえっちけい」とか、何度言っても言えない、というような話しだ。それで電話を取ったりするから、注意したら、一生懸命練習していたが、やっぱり「ぬえっちけい」としか言えない、、と言う内容だ。当時、淀川氏の母親の方は、90歳くらいだったか、かなりの高齢だったはずだ。二十歳の頃読んだ。)
、、というわけで、これから誕生日は、母親の労をねぎらう日としようかな、と反省。それであれば、誕生日に誰も祝ってくれない、と嘆く人の方が、罰あたりで当然の結果ではあるなあ、と納得できる。
そんなこんなで、昨夜は、初めて合コンに参加した。相手は、独身のデパートの女店員7人軍団だ。なんで参加する事になったのかは、よくわからないが、誘われたら断るのも妙だなと参加した。盛り上げ係りが必要だったからだろう。だんだん酔っぱらって来た中年男軍団の一人が、ある女性に「君は、大(だい)美人だなあ〜!」と言ったので、大笑いした。そんな日本語があるのか、と笑ったわけだ。
何度も連発するもんだから、だんだん「大(だい)日本人だよ〜!」とダウンタウンの松本の声に聴こえて来て、自分も「大美人だよ〜!」と言っていたらおかしくてたまらなくなった。相手の女性軍団は、そんなには笑っていなかったが、職業がらお笑い発見には敏感である。
3時間、食べ放題、呑み放題の中華料理屋だったが、料理もおいしく大満足だったので、「大満足だよ〜!」と、バリエーションで利用したら誰も気づかなかった。
二次会でカラオケ屋に行く事になり、行ったら、カラオケは、生涯4回目くらいではあるが、みんなの唄う歌が、ちっともわからないので、「いやあ〜、新しい歌は、さっぱりわからんなあ〜」と言ったら、33才の既婚男が、「これ、みんな20年前の歌ですよ〜!」と言われて、ひゃあ〜、オレは、その頃、どこの国に住んでたんんだあ〜となった。ちょうどまあ、ジャズばかりにのめり込んでいた頃だろうなあ。
河島英五なら歌えるぞ!と言って最後に唄ったらみんな偉く感動して、「いやあ〜、いいもんを聞かせてもらいましたあ〜」と言われたので、ふ〜む、カラオケも悪くないなあ〜と思ってしまった。それにしても、みんな色んな流行りの曲をよく知っているなあ、と感心しきりである。勉強になった。これに負けないように、また新たな河島英五の曲でも仕込もうかな、と思ったくらいである。。本当は、北島三郎あたりで行きたいのだが、あそこまで声を張り上げるのは恥ずかしいし、そんなに歌唱力があるわけではない。
なんでみんなあんなにカラオケが好きなのか、と思った事があるが、やはり、楽器が弾けない一般の人では、家で簡単に伴奏して唄うと言う機会が持てないからだろう、と思う。ギターやピアニストは、自分で伴奏して歌えるからわざわざカラオケ屋に行かなくても歌えるわけだ。でも楽器が弾けないと、どうしても唄いたい時にカラオケ屋に行くしかないわけだから、まあ、当然だろうと思う。
しかし、カラオケで唄うレパートリーの数で、その人の芸能度、社交度が、わかるなあ、と納得。若手お笑い芸人なんか見てると流行りの曲は、なんでも歌える感じの者が多い。やはり、ある程度は、負けじと楽器弾きでも唄えないといけないなあ〜と思うのだが、”千の風”を唄うわけにはいかんしなあ〜。おっさんの証明のような曲になってしまうからなあ。
というのが二次会で、三次会は、男三人で、帰路についていたら、もっと呑もう、という事になり、どこかこの辺にないか?と探したら、「フォーク居酒屋」の看板があった。40才の独身男が、こういう所がいい!としつこく言うので三人で入ったら、すでにギターを持って伴奏している客のような男がいて、他の客がそれにあわせてフォークソングを唄っていた。
あちこちにギターも置いてある。オーナーらしき中年男性が、近くへ来て、一緒に呑みましょうと来て、側に置いてあるギターを抱えて、伴奏に合わせてアドリブを始めた。自分の目の前でアドリブを弾いているので、う〜む、これは、まずいと、33才既婚男に「オレが、ギターを弾いているって言う振りは、やめろよ〜、しゃれにならなくなるからなあ〜」と耳打ちした。
まあ、本人もあまり私の演奏の事は知らないのだが、職業はわかっているので、そうですね、と答えていた。しかし、こちらもさすがに酔っぱらっているので、目の前にギターが置いてある風景で呑むわけであるから、ちょっとだけならいいかなあ、、と思ってガット.ギターを抱えて、ちょっとコードを弾いて1小節ばかり流したら、33才既婚男が、「ああ〜!こりゃダメだ〜!」と思わず、ギターを抑えてしまった。自分は、音楽の素人ですが、これは、違い過ぎますよぉ〜、ちょっとだけ聴いてもわかりますから、、と制止された。
やっぱりそうだなあ、と弾くのをやめにした。相変わらず、店内には、もう深夜だと言うのに6人ばかりの客がいて、ギター伴奏男が、フォークソングの曲をなんでも伴奏していた。
へぇ〜、フォークソングならなんでも伴奏できるんだなあ〜、、流しみたいじゃないか、と感心して見ていると、ギター男が、突然、こっちを向いて、「トモヨセさんですか?」と聞いて来た。するとオーナーも「トモヨセ.タカヤさんですか?」と聞いて来たので、な、なんでオレの名を知っているのか!、全国でも3人くらいしかファンがいないギタリストだと言うのに、、と訝し気に「そうですが、、」と答えると、なんとギター伴奏男は、昔、生徒だったI君だった!夫婦で来ていたわけだ。3才ばかり年下だったはずだ。2001,2年に退会したのかなあ〜、6年ぶりくらいだと言う。6年くらい在籍していたんじゃないかなあ。なんだか老けたヒゲなんか生やしていたからわからなかった。
(一見してすぐこちらもわからないとなれば、私自身は、どこが変ったかなあ〜。お酒メタボかなあ〜!お腹にお酒を貯蔵しながらラクダの暮しているわけである!。ああ、ひょっとするとメガネが変ったからかもしれないなあ。。)
彼がやっているグループは、連れの二人の男も知っていたので話しが盛り上がった。
(I君は、「かぐやひも」と言う、南こうせつとかぐや姫のレパートリーを弾くフォークグループで地元では知っている人も多い。彼は、伊勢正三ならぬ、「偽(にせ)正三」という芸名を持っている。)
では、オーナーがなんで知っているのか、と思ったら、現役の生徒で13年ばかり通っている楽器店の若社長が、常連だと言う。ついさっきまで呑んでいたらしい。う〜む、何という運命の糸に導かれて入って来たのだろうか。私の判断ではない。40才独身男の判断だ。
そうとわかったらギターを弾くしかない、と1曲、定番クラシックの曲を弾いて上げたら拍手が来た。連れの二人も初めてギターを弾く私を見て感心していた!「星に願いを!」とI君が、リクエストしたが、ライブCD以来あれっきり弾いていないので、すっかり忘れているはずだから、笑って誤魔化した。まあ、ライブもしないで、ここで、そんなに弾いてもなあ、と言う気持ちもあった。
まあ、偶然とは言え、色んな事があった一日ではある。
おかげで、今日は、二日酔いではあるが、居残った悪い酒を追い出すには、新しい酒の力が必要でもあるので、しかたなく今日も呑む事にしよう。
後記:行動論、意味ある行動と意味のない行動
そんなわけで、40代最後となる8月4日に誕生日を迎えたわけである。
無意味な行動の連続ではある。
しかし、行動力と言うのは、大きな集合としての円が「無意味な行動」で、その中に含まれる形で「意味ある行動」がある、と言う事に最近、ようやく気が着いた。
(つまらないCDをたくさん聴いている内に、面白いCDに出会うわけである。読書も同じだ。)
つまり、意味がある行動をするためには、意味のない行動をどれだけ重ねるか、にあるわけだ。だから、意味ある行動だけを追う者は、行動力がなくなるわけだ。なぜなら、意味ある行動は、意味のない行動の中に含まれるものであるから、「行動」のほとんどは、意味がないもので構成されているわけだ。
(その内、嗅覚が鋭くなり意味ある行動を見つけるのに優れて来るわけだ。これも読書と同じだ。**選定のレコードばかり揃えるだけの権威主義的マニアでは、未知のものに対しての嗅覚は鋭くならないが、、。)
この事に気づいてから、人を観察していると、確かに、意味ある行動に出会う者は、多くの意味のない行動を行っていて、行動力のない者は、意味ある行動でないと動かないから、ほとんど毎日、何も行動しないまま、あっと言う間に何年も過ごしているわけである。
1日、1週間、1ヶ月、1年と拡げて行っても、な〜んもしていない。ただ、仕事して食べて寝て、終りである。つまり「意味のある行動」しかしていないわけである。
しかし、意味のない行動を重ねる事は、やがて意味ある行動にも出会う確率が高くなるわけでもある。つまり、普段から意味のない行動で、行動する事に関しては、慣れているわけである。十分に予備練習を行っているわけである。あと必要なのは、意味のある行動に出会うだけである。
毎日、毎日、ある場所へ小石を持って行く、という「意味のない行動」を続ける事ができる者が、意味のある行動を見つけたらどうか。彼は、必ず、それをやり遂げるだろう。なぜなら、あれだけ無意味な行動でも、雨の日も風の日も休まず続けられる「持続力」を持っているわけだから、意味のある行動に出会えば、ますます気力十分だろう。
ところが、行動に意味ある事ばかりを求める者では、結局は、何もやろうとはしない。行動する機会を失っているわけである。(マンガすら読まない者は、読書も当然しない!)
(何をさせても中途半端で終る者の最後の大義名分は、常に「これを続けても意味がない」、、である。では、この次には、どんな意味ある行動に出会ったのか、と問うても、別に出会っていないわけである。それでは、意味がない!。出会ってから移行すべだろうと思う。総じて、行動力がないわけである。開拓精神もないから毎日、同じ事ばかりである。)
もっと早くでこの事に気づけばよかったなあ〜と思うのだが、よく考えてみれば、行動力があった頃は、多くの無駄な事も同時にやっていたわけである。
もちろん、最初から意味ある行動に出会えれば、それに越した事はないが、中々、そんなわけには行かないのが、神様の与えた試練ではある。
観察して見るといい。
何の変化もない人は、意味ある行動でないと行動する意味がないから、、と、何の行動も起こしていないはずである。
1日1善、、ではないが、1日1意味のない行動、を心掛ける事に依って、行動力が付いて来る事は、確かだろう。
やりたいスポーツが見つからない人は、ただ走って見る、と言うのも同じ考えではある。
そうこうしている内にやりたいスポーツが見つかっても、彼は、十分に体力も付いているわけだし、その時間を好きなスポーツに即座に変えればいいだけである。見つかってから体力を付けようとしても、遅すぎるわけであるし、たぶん、すぐにまた「意味がない」と挫折してしまうはずである。
意味ある行動に出会えない内は、普段から意味のない行動でウォーム.アップしていた方がいい、という話しだ。
しかし、意味ある行動をしたいと言う願望を抱きつつではある。これがアンテナを張ると言う事だ。このアンテナが、意味ある行動を見つけてくれるわけである。
、、、というわけで、今年も誕生日の感謝が足りなかったわけである。
偉い年寄りに学ぶ事は、大事であるなあ〜とつくづく思う今日この頃である。それもまた同じ理由で、普段から、偉くもない人から学ぶ事ができるから、なおさら偉い人の教えが、活きるわけである。
偉い人からしか学ばない人は、結局、大して学ばないわけである。だって、そうそう偉い人には、出会わないわけでもあるし。
まあ、行動する人の人生は、まだまだこの先、わからない、と言うわけである。
もちろん、行動しない人の人生は、50年先も変らない。
何のハプニングも起こらない。
まあ、歳を一つ取ったせいで、この頃、ようやく、意味のない行動がわかるようにはなって来たかなあ〜。残り少ない人生は、あまり無駄な事もしていられないではある。そのために多くの無意味を経て、嗅覚を磨くわけである。主旨を勘違いたら偉い事になるので、注意されたし。
ただし、何もしないよりは、無意味な行動でも続けるべきだと思う。行動力と言うのも一つのパワーであるからである。山登りなんかもそんな感じかなあとは思うが、毎日、何時間も走って、泳いで、自転車に乗っても、よくわからないではあるから、結局、意味ある意味ない、、もまた、自分が決める事になるのかもしれない。
ああ、あのアイロン掛けの競技!
あれこそまさに、、、!
8月20日(水):喫煙の意義、進化と購読誌、業界と新人、成功の秘密、あるシンガーの場合。後記:曲集、全改訂!またまた前人未踏のオタク仕事!
う〜ん、今、タバコの煙りを吸ったような匂いが、突然、鼻孔に飛び込んで来た。最近は、夢にも出なくなった、と言うのに、まだ、身体のどこかにタバコを吸った時代の細胞が潜んでいるのだろうか。
最近では、健康のため吸わない、と言った禁煙論ではなく、あきらかに時代は、反喫煙の方向に流れているわけで、こうした時代の流れに逆らっては、生き残れないのではないか、と言う易学的な考えで喫煙する事に抵抗している感じではある。
もう、どこへ行っても禁煙の場所ばっかりでもあるし、道路でも簡単に吸えないわけだし、アメ〜リカでは、カフェ.バーやライブハウスですらも禁煙らしいから禁煙は、時代の流れなんだろう。
そんなわけで、まあ、吸ってもいいだろうけど、時代の流れに逆らっている分、何か損してないか、と思ったりするわけだが、明石家さんまなんかは、ヘビースモーカーだし。
タバコを辞めてよかった事は、何と言っても禁煙の本とかを買わなくていい事だ。この、買わなくて良い本が増えると言うのは、けっこう人間の進化を表している感じで良い。
テレビの健康番組や、実際に病院で、お医者さんなんかから「酒タバコを控えるように!」と注意されても、すでにその半分は、クリアーしているわけだから安心度は増す。
この調子で、ダイエット本やカロリー本を買わなくて済むようになった者もいるだろうし、ちゃんと教室に通えば、語学本やギター教則本の類も買わなくて済む。
あれだけ初期に買い込んだパソコンの本もよくわからないから何年も前から買わないし、もちろん、”ジャズ理論”なんて本も買わない。そもそも音楽に関しては、譜面しか買ったりしない。どうせ、自分が出ていないわけだからと、音楽雑誌もこの20年くらい買わない。
何年に1度か、有名人と演奏対決しても別に何の問題もないので、ますます読まない。K-1でも無名選手が有名人気選手に勝つ事があるはずだ。
何年かすると何を毎日すれば良いかが、ほぼ決定して来るので、あとは、それを日々やっていればいいわけだ。占い本なんかも同様だ。あれこれとデータを集めてしまえば、もういらなくなる。(その前に50册くらいは、読んでいるはずだ!)
あまり雑誌や本を読まない人には、こうした気持ちも全く理解できないとは思うが、逆にこちらは、本や雑誌を読まない人の気持ちがわからない。興味を持った事には、時間を忘れて呑めり込むタイプのようで、関心を持てば、一気に集中して取り組む。
毎月、色んな本屋に行っては、雑誌を仕入れて来るわけである。書店によって取扱っている雑誌が違っていたりするからだ。特に、マニアックな雑誌となると1,2册しか置かないものだからうかうかしているとどこかのマニアに横取りされてしまう。見えない敵がいるわけだ。(例えば、月刊「石ころ」とか言う雑誌でもあれば、同様な闘いが起こるだろう。)
現在は、だいぶ落ちついて、毎月購読している雑誌は、5册くらいである。当然、音楽誌はない。(例えるなら、月刊「草鞋」とか、月刊「たわし」のようなマニアックな雑誌ばかりである。)
そんなこんなで、盆が終った。
盆は、親戚関係が年に1度、顔を合わせるという事もあり、私のような、いかにも成功していなさそうな芸能人風な者は、なかなか居場所がないもので、全国にもそ〜言うミュージシャン系は多いはずだ。バンドマンは、職業的だが、ミュージシャンは、どっちか言うとプ〜太郎系ではある。
あっ、そうだ、そうだ。何年も前から話そうと思ってタイミングを失ってしまった事に、いかにこのバンドマン業界と言うものが、実体のない意味不明な世界であるか、と言う話しである。2,3年くらい前からジャズシンガーとしてあっと言う間に全国でも有名になって、スイングジャーナル誌なんかの賞もデビューアルバムで受賞したとか言う、地元出身の新人ジャズシンガーAと言うのがいる。
雑誌を読まないせいか、まったく知らなかったのだが、去年、地元テレビで初めて見て知った。バック演奏をしている地元軍団は、どっかで見た知り合い系ではある。
びっくりした事にジャズを唄ったのは、ジャズ歌手デビューする1年くらい前で、それまでは、普通にポップスを唄っていた、と言う話しだ。
私は、ジャズの業界でジャズボーカルをしている若手女性シンガーと言う軍団を何人も見て来たと言うのに、彼女らは、まったくこの世界で、評判になる事もなく、ただただ「お仕事」だけを重ね、この20年で、消えて行ったりしてわけだが、今回、成功したA歌手は、そうしたジャズ畑の歌手ではまったくない。しかも、普通に、あちこちでジャズ以外のポップス系の歌の「お仕事」をして来た、と言うから、その世界の人ですら気にしていなかった歌手である。
それが、「ジャズ」を唄って1年も経たない内に、あっと言う間にデビューして全国でも賞を取ってしまったわけだから、今の世界、いかに、ジャズをやるのにジャズ関係者は、必要ないか、という事がわかるわけである。
徒弟制度なんてもっての外だ。あれは、北島三郎氏くらいの器量がないとやってはいけないだろう、と思うくらいだ。
私は、あのA歌手以上に実力のあった女性シンガーもいた事を知っているので、ジャズ関係以外の者が、いきなりジャズを唄ってあっと言う間にデビューした事にびっくりしているわけだ。
(もちろん、A歌手も上手いではある。日本人は、総じて、英語で唄うジャズ.シンガーを判別する能力は、DNAに全くないにも関わらず、今回は、めずらしく上質なものを発見している。売れるか売れないか、は、天は、二物までは、与えてはいない、という事もあって、よくわからないではある。)
また、A歌手の事をあれこれ聞いて見ると、普通に、バンド稼業として、余興担当の仕事もしていたらしい。それが、ジャズを唄った途端に、急に状況が変ったようだ。もちろん、このムーブメントは、業界以外で起こる。
業界の人間は、相変わらず、ああ、あれとは、普通に仕事したけど、、と言った認識である。
なるほど、昔からそうだ。業界で評判になり有名になった、と言う人の話しを聞いた事がない。業界は、そうした後押しを絶対しない所である。足を引っ張るという事はあっても押し上げると言う事はない。
徒弟制度はあっても、先生は、弟子に仕事を分け与える事はない。先生は、何時まで経っても「おいしい」仕事を必死に維持し、独占しているだけの「存在」である。
だから当然、「先生は、有名」であっても、実力はあるにも関わらず生徒は無名のまま、という状況は変らない。(科学者も同様な徒弟制度である!)北島三郎氏くらいの器量なんかあるわけはない。
弟子を呼び出し、「オレの仕事を取るなよ!」と言う師匠や、「私より目立ってはいけません、ざ〜ますわよ!」と言う師匠も多いわけである。
そうした状況から考えて見ると、A歌手の成功は、まず、そうした徒弟制度の中にいなかった、と言う事が、第一の勝因ではないかと思う。
気を使って控え目にするべき「師匠」がいなかったから、好きなように自由に唄えたわけである。
また、いくら業界で有名な人でも、まったくデビューするまでに至らなかった者もいるから、いかに業界の評判は、無関係で、無意味か、がわかる。
では、何が一番、大切なのか、と言えば、やはり「ファン」である。「ファン」がいるからこそ、すべての成功があったわけである。
ファンと言ってもむりやり呼んで集めた、親戚、友人知人、常連客の類ではない。
本当にその人の音楽に「騙されて」惚れたファンが、すべての状況を動かすようだ。A歌手の場合は、実際は、もっと権力、手腕のあるレコード会社のビジネスマンが動いたから、あっと言う間に、苦節10年以上のジャズ歌手の100人抜きをやり遂げる事ができたわけである。
私にもこれと似たような体験がある。
昔、20年以上前、ビッグバンドで紹介もされない1メンバーとしてギターを弾いている頃、(去年までもやっているが!)、ある地元人気のポップス系バンドのギタリストが、20代だと言うのに「スペシャル.ゲスト」として、”地元ビッグバンドと共演”と謳われたポスターが貼られているのを見た事がある。
あきらかに、あんな奴より、自分の方が、上手いやろ!と思っていた20代の頃だから(註:今でも変らないが、、!)、この扱いには、腹が立った。しかし、自分が、そうしたポスターにまで載るには、あと何十年、そのビッグバンドでギターを弾かないといけないのか、と思ったら、「ああ、これは、一生ないなあ〜」と納得した事がある。
その若手ギタリストは、地元で、多くの女性ファンを得ていたわけである。私自身が、いくら「オレの方が上手い!」と息巻いても、ハイハイ、、と片付けられてしまうわけだ。
まあ、要するに客も呼べない人間が、うだうだ言うな、と言うのが、この世界の習わしであったわけだ。
芸能界で言えば、「数字が取れる、取れない」で、芸人を評価するシステムなわけである。(この評価は、”イベント”、”興業”業界では、当然の基準ではある。)
何が、「正規」なシステムなのか、と考えるわけである。地道にビッグバンドのギタリストをミスもなくこなし、仕事ができるメンバーとして何年も勤め、それから、スペシャルゲスト扱いになるのか、と思っていたら、そんな事は、今だにないわけである。(あれから20年経っても今だにないってのは、凄い事ではある!)
こんな事を考えると、人間は、みな「同じ穴のムジナ」に厳しいのではないか、と思う。同じ穴のムジナ系業界人間が、絶対に、その穴から自分が遠慮し、他人を押しやる事はないわけである。ここにも「蜘蛛の糸」を巡っての地獄界の争いがあるわけである。
これは、音楽バンドマン業界に限った事かな、と思って他の業界を見ると、やはり他の業界も似たようなものである。
飛び出して出て来る者は、みんな「ファン」の支えから出て来るわけだ。プロ野球を引退した新庄選手にしても同じだ。業界の「先輩」に聴けば、それほどの評判は得られない。(聴かない方がいいくらいだが、その先輩たちは、みんな、メージャーリーグを経験していない!)
こんな事を考えていると、ふと、最近活躍の演歌の「鼠先輩は、これでいいのだろうか?」と言う声が聴こえて来た。
う〜む、、、確かに!、、彼は、私のセオリー通りに、演歌界とは、関係なく出て来ているわけだ。
そう考えると、業界を持たない人間と言うのは大変ではあるが、それは、それで、大したもんだとは思う。
今回は、このくらいにして、おこう。
8月もまだ長い。
まだまだ、終らせない!
後記:曲集、全改訂!またまた前人未踏のオタク仕事!
あれは、ちょうど6月くらいから取りかかったのか、208曲の間違いだらけの市販の曲集、この日記でも訂正シリーズで取り上げた。
2ヶ月余りを掛けて、すべてのコードとメロディを修正液とボールペンと三角定規の三種の神器を片手に訂正した。
コードがおかしい曲集は、けっこうあるが、メロディが間違っている曲集なんてのは、アンビリーバボーである。目の前に、間違いだらけの無用な曲集がある、というのは、精神衛生上悪い。
調律の狂ったピアノが置いてある部屋で暮している調律師のような心境と言ったらわかりやすいだろうか。
この作業は、年内に終るかなあ〜と思って毎日、取り組んでいたのだが、意外に、2ヶ月で終える事ができて嬉しい。
メロディの間違いに加え、キーまで、一般的でなかったりするから、よくもこんな曲集を頼りに全国では、セッションするもんだなあ、と思う。
こんな曲集を使ってセッションするなんて、自分から、どうせ1流にはなれない3流だけどね!、と言う事を表明しているようなものである。
1流のプロが、そんな、「記録」にも残せないない、間違ったメロディとコードで、演奏をするわけがない。
もし、そこで、とんでもない良い演奏をしても、その間違ったメロディとコードで、すべては、「没!」であるからだ。
その曲集のメロディとコードとそれに従った”アドリブ”も含めて、すべてが記録に残せないくらいの「没」になるようなアマチャー演奏の世界でのみ重宝される曲集ではある。
(あるいは、それに近い”プロ”である。素人でも流行りの曲を、ちょっとおかしなメロディで、カラオケで唄われたらどんな感じか。)
古池や〜、川酢、飛び込む、水の音〜!
、と書かれた俳句集を訂正しないままでいるプロの俳人は、いないだろうと思う。
全国で、一番、売れている俳句集である、と言われればなおさらである。
(こんな、デタラメな曲集を世の中に出して、少しでも儲けた人間は、全額をチビッ子ハウスに寄付すべきである!)
こうした人種は、「音楽」を、その場だけの「やっつけ仕事」でいいと思っているのだろう、と思う。
どうせ、名前もないし、誰も見てないわけだから、何をしてもいいんじゃないか!と言う日本人独特の、誰も見てなきゃ何やってもいいじゃん!の世界である。
しかし、そんな経験は、いくら積んでも何の蓄積にもならないから無駄だ。人生の無駄だ。
今回の「荒行」で、この曲集は、メロディの書き換えは当たり前で、コードまで変えてあるから、元のままの曲集を使用してのアマチャー.セッションには、通用しない曲集になってしまった。
まあ、ぶっちゃけた話し、メロディやコードを訂正するなら、実は、大した作業ではないが、実は、この曲集は、さらに、おまけに、歌詞を、まるで、米粒にお経を写経するように、全歌詞が細かい文字で記入されている。
目にした人は、大概、「ひゃあ〜!暇ですねぇ〜!」と的確な評を述べるが、これだけの無意味な行動も、前人未踏だなあ、とは思う。
人間のエネルギーと言うのは、記録しようと思えば、記録できる、という事が証明できる一つの例としては、役に立つだろう。
この曲集に集められた曲の選曲が、良かったから、取りかかったわけであるが、ちっとも良い所もなく、ただ、間違いだらけのものなら、世の中から抹殺されるだけだろうとは思う。
久々の「偉業」に、お酒も旨い。
人は、2ヶ月もあれば、これだけの事がやれるのだなあ〜とつくづく思うわけである。
エネルギーと言うのは、無意味な事には、使いたくないもんではあるが、これが、また、エネルギーを倍増し、貯蔵させる事になるわけである。
つまり、無意味な行動は、身体中に多くのコンデンサーを作り、エネルギーを保存して行く作業なわけである。でき上がってから、それなりの「意味」を考えればいいわけである。やっている最中は、無我の境地なわけである。
無我の境地は、普遍な境地であるから、人生は、一般に、”意味がな〜い”と思っている事をやってしまう人の方が、一番、エネルギーは、溢れているわけである。
ああ、そうだった!
思い出した!
そう言えば、このサイトの八割りは、毎晩、徹夜して、2ヶ月で造り上げたはずだ!。
う〜む。。
昔から変らない体質じゃないか!
なるほど、、。
ただ、やる事が、大して意味がないだけなんだな!
8月28日(木):"光陰矢の如し"のヒミツと何もしない人たち、玉入れと人生、後記:「エイリアンVSプレデター2」と「大日本人」
まだ8月だな。。。(9月に読む人もいるだろうなあ。。)
もう、そろそろ夏も終りだなあ、と言う話しになったが、いやいや、まだまだ終らせない、と言う気持ちが大事なんだ、となった。
子供の頃は、なぜあんなに一日の時間が長かったのか、という話しにまで発展し、それは、おそらく全身で受ける情報量の違いじゃないか、と考えた。
子供は、何をするにも目的地まで行くのにあれこれとよそ見をして行くわけで、それだけでも相当な情報を日々得ているわけだ。しかし、これが大人となると目的地まで、ただ何も考えず達するだけである。
道を歩いていても周囲に何も関心がないわけだ。しかし、子供は、逆に目的地に辿り着いた時点で、すでにその目的も忘れているくらい、その道中から色んな刺激を受けて学んでいる。
毎日が、この調子だからあっと言う間に一日が終るなんて事がないのではないか、と思う。何をするにも相当な集中力で関わっている、、と言うのもポイントが高い。こうした事を無意識にやってのけているわけだ。
テレビを見るだけにしても、相当な集中力で、無我夢中に見ている感じだから、その時間は、まるで高僧が座禅を組んでいるかのような宇宙時間になる。
それを支えるているのが「好奇心」であるわけだ。世の中は、自分自身に取って興味だらけの世界と言う事になるのだろう。
しかし、大人になるにつれ、そうした心が段々病んで来て、何事にも興味を示さなくなり、ただ、日々の雑事ばかりをこなしている状態になる。すると、当然、情報量も圧倒的に減る。ただクイズのように情報を得れば良いのではない。そこには、それを知る「感動」が伴わなくては記憶に残らない。
これが幼児となると、1日に100册くらいの本を読んで感動した状態と同じような状態で毎日眠りについているのかもしれない。こんな一日は、大人では、なかなか体験できない。
しかし、大人でも何十年も前に見た映画や本、テレビを一生忘れずにいるって事はあるわけで、よく考えて見ると、その体験は、確かにある1日の出来事でもあったわけだ。
だとしたら、その忘れられない1日が、いくつもあれば良いわけで、それが今日であっても良いわけだ。明日かもしれないわけだ。
人生、どれくらい生きられるかわからないが、ざっと人生80年生きたとして、2万9千203日(365日×80年)を過ごした事になる。
そんな日々の中で、ある日の出来事が忘れられない、と言う事は、よほどの1日である。
一体、なぜそうした事が忘れられない記憶となって残っているのかを考えると、やはり相当に心が感動したりしたからではないか。
今でもロバート.デ.ニーロを初めて見た「DEER HUNTER」の映画は、忘れられない。(その前にアラン.ドロンの映画シリーズがあるが、、。)あの体験だって、たった1日の出来事だ。しかも十代の頃だったと思う。それが、あれから何十年経っても鮮明に記憶に残っているわけだ。
そうした体験が少しでも多い1日